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四本腕のジャコウさん

作者: 凧カイト

「おかえりなさい、ナルミさん。わたくし、ジャコウと申します。ご恩返しに参りました」


 重たい足を引きずってようやっと帰宅したナルミをそんな言葉で出迎えたのは、異形のものだった。

 なにしろそいつには、腕が四本あったのだ。

 凹凸の少ない華奢な立ち姿と優しげな顔立ちから、おそらく性別はメスであろう。体にピッタリフィットする墨色のワンピースは、足首あたりに橙色の斑模様があしらわれている。長いまつげに縁取られた黒目がちな瞳に濡れたような黒髪と、不吉な色を身に纏うそいつには、しかし目が離せないような妖しい魅力も備わっていた。

 そして、腕が四本。

 本来脇である部分から左右にもう一本ずつ。そいつには四本の腕があった。

 わけがわからない。

 ナルミは、考えることを放棄した。


▼△▼△ ▼△▼△


 遠くで聞こえる鳥のさえずりと瞼越しに感じる朝日に、ナルミは夜が明けたことをぼんやりと悟った。

 あぁ、今日もクソみたいな仕事に行かなけりゃ……そう嘆息してから、ナルミは愕然とする。いや違う。昨日こそ、俺はクビになったんじゃないか。

 クソみたいな仕事、クソみたいな職場。心底馬鹿にしていたそんな場所からも追い出されてしまう、春日鳴海かすがなるみという人間はいったいなんなんだろう。なにもかもが嫌になって布団深くかぶろうとしたときだった。

 味噌汁のかぐわしい香りが、ナルミの鼻をくすぐった。

「あ、ナルミさん。目が覚めました? ちょうど朝ごはんができたところですよ」

 万年床から首をぐるりと巡らせれば、一人暮らしの狭いアパートの室内は一望できる。ヒビの入った窓を覆う破れたカーテン、床に散乱するゴミとも衣類とも取れる塊、片隅で凝り固まった埃。そこに申し訳程度についている極小キッチンに、何者かが立っていた。艶々とした黒髪に、足首まである長いワンピース。黒づくめの衣装の中で際立つ白い顔。そしてそいつには、腕が四本あった。

「バケモン……」

 途端に昨夜の出来事が頭の中を駆け抜けていく。夢じゃなかったのか、アレ。それとも、まだ悪夢の途中なのかな? 

 ソレは異様なほどに黒めがちな瞳をナルミに向け、穏やかな声で言った。

「さぁ。顔を洗ってしっかり目を覚ましてください。朝ごはんにしましょう」

 その言い方は、ずいぶん昔に聞いた母親のそれに似ていた。そのせいか、それともあまりに現実感が欠如しているせいか、ナルミは自分でも驚くほど素直にその言葉に従って動いていた。

 冷水でさっぱりした頭で洗面所から戻ったとき、万年床は畳んで端に寄せられ、ごみや雑誌に埋もれていたちゃぶ台が、湯気の立つ味噌汁とともに部屋の中央に鎮座していた。

「どうぞ」

 言われるがままに座り味噌汁椀を手に持つ。具は豆腐だけ。当たり前だ、冷蔵庫にはそれしか入っていない。ていうか、味噌とかあったのか……いつのだ?

 現実逃避にも似た思考を脳内で巡らせながら、ナルミは味噌汁を口に含んだ。

「──母ちゃんの味がする」

 その味も、温かさが喉を通って胃に落ちていく感覚も、ずいぶん久しぶりだった。

 音を立てて最後の一滴まで飲み干し、深いため息をついてから、ナルミは目の前に座るソレのことを改めて見た。ナルミの視線を受けて小首をかしげる小さな顔は病的なほど白く、おかっぱ頭も細すぎる体も、記憶の中のその人の姿とは似ても似つかない。なにより腕が四本だ。それでも、ナルミは尋ねずにはいられなかった。

「あんた、死んだ母ちゃんなのか?」

「違いますよ?」

「違うんかい!」

 思わず大きな声が出た。なんだよそれ、ここまで絶対その流れだったじゃん。なんかしんみりした空気出しちゃって恥ずかしいだろ。ナルミは一人で悶える。

「じゃ、じゃあ、誰なんだお前、なんなんだ! なんで勝手に俺んちに入り込んで、勝手に飯なんて作ってんだ。なんで腕が四本あんだ、このバケモン!」

「バケモンではなく、わたくしはジャコウです。昨日もお伝えしましたように、ご恩返しのためにナルミさんのお世話をしに参りました。腕が四本あるのは仕様です」

「そんな説明でわかるか!」

「……昔、ナルミさんに命を救われたことがあるんです。前世からの徳が積もり積もって、偉い人からご褒美を頂けることになったので、わたくしはナルミさんへの恩返しを願いました。それでこうして、あなたに近い姿となって馳せ参じたわけでございます。腕が通常よりも多く驚かせてしまったかもしれませんが、わたくしにはこちらの方が都合がよく、従ってナルミさんのお役に立てると思います」

 ナルミは頭を抱えた。このジャコウとやらの言葉自体は理解できるが、それでもやはり意味がわからない。俺が命を助けた? 一体いつ? それどころか、ここ最近は感謝された記憶すらないのに。

 その上どうやら、というかやはり、ジャコウは人間ではないらしい。人外のものが言葉を話しヒト然として振る舞っているのには違和感しかないが、これだけ会話をしておまけにソレの作った飯まで口にしてしまったのだから、今更夢だとは思えなかった。

「今は混乱しているようですが、すぐに慣れますよ。昔話によくある展開でしょう。わたくしなんて珍しくもない、手垢に塗れた存在です」

 ジャコウはまるで他人事のようにそう言った。


▼△▼△ ▼△▼△


 ジャコウが現れてから五日目の朝。ナルミはハムを焼く香ばしい匂いで目を覚ました。

 ジャコウの言ったとおり、ナルミは早くも彼女のいる生活に馴染みはじめていた。人間、安楽な方向に転がるのは驚くほど早い。

 そう、ジャコウとの生活は快適だった。彼女は恩返しの手始めに、伝説の家政婦も真っ青な家事能力で、独身男のカビが生えたあれこれをアッという間に真っ当にしてしまったのだ。

 痒い所に手が届くとはまさにこのことで、ジャコウは過不足なくナルミ生活を整えた。今やナルミは黙っていても、清潔な身体を保ち整理整頓された部屋で美味い食事がいただける身分である。職を失くし、この世のすべてに絶望していた五日前には想像もつかなかったことだ。

 こうまで環境が整うと不思議なもので、自然とナルミの背筋も伸びてくる。以前は空腹に耐えかねるまで布団でダラダラ過ごすのが当たり前だったが、今日は言われる前に洗面に立ち、布団も畳んだ。衣食住足りて礼節を知る、とはよく言ったものだ。

「おはようございます、ナルミさん。よく眠れましたか」

 ジャコウは四本の腕それぞれに食器を乗せて来た。右側の手からご飯と味噌汁、左側からはハムエッグと箸が配膳される。前職はウェイトレスだったのかと思うほど、手慣れた仕草だった。

「便利なもんだな、それ」

「いいでしょう。人間は腕が二本しかないから不便ですね」

 そんな失礼な言葉に頷きそうになる程、ジャコウの腕捌きは見事なのだった。それが遺憾なく発揮されるのが食器洗いで、四本の腕が縦横無尽に動き回ってあっという間にシンクが片付いてしまう様は、圧巻の一言である。

 軽く手を合わせてからナルミが食事を開始する様子を、ジャコウは嬉しそうに眺めていた。

 ジャコウの存在の謎は、まったくもって解明されてはいなかった。なにを食べるのか、いつ眠っているのか、「偉い人」とはなにか、いつまで恩返しを続けるつもりなのか、そもそも正体はなんなのか。なにもわからないながら、ナルミは彼女のいる生活に馴染みつつあり、そんな自分を叱咤したりもする。「もしやこっそり生気を吸い取られているのでは⁈」などと懐疑的になることもあるが、規則正しい生活のおかげで体調はむしろ絶好調だった。

「ナルミさん、今日のご予定は?」

 まるで恋人かのような口ぶりだが、悪い気はしない。

「職探しだよ。忌々しいけど、食うためには仕事が必要だ」

 口にしてからはたと気がついた。冷蔵庫には豆腐しか入っていなかったはずなのに、この丁寧な朝食はどこから出てきたんだ? まるで手品だ。

 するとジャコウは当たり前のように言った。

「現代の人間の世界ではなにかと物入りだと、偉い人から資金を幾ばくかいただいております」

「なんだよそれ、そんなお膳立てされた恩返しあるか? てかお前、そのナリで買い物行ったの?」

「腕を隠すの苦労しました」

「そもそも恩返しならその金全部よこせ!」

「いいですよ」

 色めき立ったのも束の間で、ジャコウがポケットから無造作に取り出したのは小銭ばかりだった。合計しても買えてタバコ一箱がせいぜいだ。謎多き偉い人とやらは、現代日本の物価高までは把握できていないようだった。

「なんだよ、ぬか喜びさせやがって……」

「申し訳ありません。わたくしが外で働ける体であったらよかったのですが……」

 大して悪いとは思ってなさそうなジャコウのあっさりとした口ぶりに、ナルミは大きく肩を落とす反面心のどこかで安堵もしていた。昔話の鶴女房よろしくジャコウに金稼ぎの能力まであれば、きっと自分はさらに頼りきりになってしまう。そうなれば、もうヒモまっしぐらだ。人外のヒモ、それはさすがにダメだろうと戒めるプライドは、まだ残っていた。

「バカやろー。バケモンの手なんか借りなくても、俺は大丈夫なんだよ」

 衣食住のほぼすべてをおんぶに抱っこされている人間のセリフとは思えないが、ジャコウは穏やかな笑顔でナルミを見送ってくれた。


▼△▼△ ▼△▼△


「きみねぇ。今どき履歴書もなしでいきなり雇ってくれるだなんて、そんなとこないよ?」

 そう言ったのは、四件目に訪ねた近所の町工場だった。大きな機械音に耳を聾しながら、半ば怒鳴るように社長だという男は続けた。

「うちが小さな工場だからって、舐めてもらっちゃ困るね。こういうところだからこそ、しっかり働いてくれる人間が欲しいんだよ。きみ、春日くんって言ったっけ? そこそこいい歳に見えるけど、働いたことないの? 面接希望なのにその格好じゃあ、落としてくれって来てるようなもんだよ」

「り、履歴書は三枚しかなくて……。服も、スーツは持ってなくて」

「えぇ⁈ ボソボソ話しても聞こえないよ、こんなとこなんだからさぁ!」

 先に回った三件の会社でも、担当者はおそらく同じ感想を抱いたのだろう。履歴書を受け取ってくれはしたが、話も聞かず追い出された。欠点を指摘してくれるだけこの社長は善人だが、ナルミにそう思える余裕はない。

「本気で働きたいなら、まずは履歴書。それからスーツじゃなくてもいいから、もう少し小綺麗な格好で出直してくるんだね。Tシャツにスウェットはさすがにいただけないよ」

 その言葉が、一から十まで胸に突き刺さる。皆まで聞かず、ナルミはその場から駆け出していた。

 工場を離れても、社長の言葉は機械音とともにナルミの脳内で鳴り響いていた。と同時に、腹立たしさでで頭がおかしくなりそうだ。耐えきれず、道沿いのガードレールな拳を叩きつける。それでも収まらずにナルミは走り続けた。

 社長が言ったのと同じようなことを、ときにはあからさまな侮蔑の視線を隠さずに、ナルミはこれまでの人生の中で数えきれないほど投げつけられてきた。苦しいのは、それらが単に理不尽なだけではなく、真実でもあるからだった。なにもかもがうまく行かない原因の多くは、ナルミ自身にもあった。足りない社会常識に不適切な立ち居振る舞い、おまけに口下手の内弁慶ですぐ怒る。それらが低い学歴や収入に増して、ナルミの前途を阻んでいた。

 子どもの頃からナルミは、思い通りにいかないとすぐに癇癪を起こして暴れる性格だった。欲しいものが手に入らないと泣き喚き、駄菓子屋のくじが当たらなければくじの箱をひっくり返し、かけっこで負ければ一位の子を突き倒し、八つ当たりで小さな命を傷つけた。そのせいで、数えきれないほどのモノと人間関係を壊してきてしまった。

 そんなナルミのことを最も心配していたのが母親で、ときに厳しく彼を諌め、ときには優しく慰めた。激情の波に揉まれて自分ではどうすればいいかわからないナルミに、辛抱強く泳ぎ方と進むべき道を教えてくれた。

 しかしナルミがようやく自らの御し方がわかり始めた頃、母は亡くなった。折しもそれは彼が高校を卒業する時期で、ようやっと舵が効き始めたばかりの春日鳴海号は、呆気なく世間の荒波に飲み込まれてしまった。

 それから十年。とにかく必死で生きてきた。激流に翻弄されるときは息継ぎだけを確保し、凪いだ瞬間には傍若無人に漕ぎまくる。決して褒められる生き方でないことはナルミ自身承知しているが、それ以外にやり方を知らなかったし、正しく生きていたって褒めてくれる人はいなかったのだ。

 息せきって走り続け、ようやく家に辿り着こうというところになって、ナルミは小さな石に蹴躓いた。咄嗟に地面についた膝と手の平をしたたかに擦りむき、腹立たしさのあまり咆哮を上げる。少し先を歩いていた散歩中の老人がそそくさと方向転換するのを横目で見ながら、痛みの原因である小石をその方向に思い切り投げつけた。小石はガードレールに当たり、耳障りで甲高い音を立てる。

 鼻息荒く凶暴な足取りで、ナルミは自宅アパートの階段を登った。

「おかえりなさい、ナルミさん」

 乱暴に玄関を開けると、洗濯物を畳んでいたジャコウの穏やかな声に迎えられた。しかし、そんなものでナルミの腹の虫は収まらない。

「どけ!」

 ジャコウを追い立て丁寧に重ねられたタオルの山を蹴散らして、ナルミは不貞寝を決め込んだ。万年床を解消してしまったことに悪態をつき、押入れから引っ張り出した布団を乱雑に敷いてその中に潜り込む。今はこの古びた薄っぺらい布団が、外界から彼を守ってくれる繭だった。

 布団の向こうでジャコウが佇んでいる気配がした。ナルミの挙動は完全に八つ当たりのそれで、彼女からすれば訳のわからない暴挙だろう。恩返しだなんだと言っていたが、ダメ人間の世話に八つ当たりの的ではいくら異形のものとはいえうんざりに違いない。

 いよいよ出ていくだろうか。せいせいする。

 そして、また俺は一人になるのだろうか。ほかでもない、俺自身のせいで。

 やがて、ジャコウの気配は静かに遠ざかる。

 ナルミはギュッと目を閉じて、そのささやかな足音を見送った。


▼△▼△ ▼△▼△


 小さな悲鳴が聞こえた気がして、ナルミは目を覚ました。

 不貞腐れて、いつしか本当に眠ってしまっていたようだ。布団から顔を出すと日はすっかり傾いているようで、夕日の名残がボンヤリと室内を照らしていた。

「──来ないでください!」

 その声に、ぼんやりとしていた頭が急に覚醒する。自分でもよくわからないまま、ナルミは声のする外に飛び出していた。

「ジャコウ⁈」

 錆びついた階段を駆け降りたナルミが見たのは、箒を取り落とし体を硬直させているジャコウの姿だった。明らかに怯えた彼女の視線を辿るとその先にいたのは、

「……ねこ?」

 気の抜けたナルミの声にジャコウは勢いよく振り向き、それまで見たことのない慌てふためいた態度でナルミに身を寄せた。

 猫は警戒心も露わに尻尾を膨らませ、牙を剥き出している。とはいえ、ただの猫だ。黒と白の斑で、両腕に収まるほどの大きさしかない。

「なに、お前アレが怖いの?」

「は、はい。わたくし、ああいった生き物は苦手で……」

「バケモンのくせに?」

 声も出せないのか、ジャコウは目をギュッと瞑ったまま何度も頷いた。本当に猫が怖いようだ。

 ナルミは猫に手を伸ばした。猫が唸りながら繰り出してきた爪が腕を擦り、思わず舌打ちしながらも首根っこを遠慮なく摘み上げ、そしてそのままソフトボールの要領でポイと放る。ナルミの予想通り、猫は着地の直前にヒラリと身を翻して一目散に逃げていった。

「まぁ!」

 非難がましい声を上げたのは、道向いをたまたま通りかかったらしい中年の女性だった。タイミング悪く、猫を放り投げるところだけを目撃したらしい。蔑むような視線がナルミに突き刺さる。このパターンを今までに何度も経験したことがあり、ナルミはもはや鼻で笑うだけで気にも留めない。

 しかし、ジャコウは違った。

「ナルミさん、ありがとうございます。猫が怖い私を助けてくださって!」

 必要以上に大きくて説明的なその言葉は、ナルミにというよりは険しい顔の女性に聞かせるためのものだった。そしてそれは奏功し、中年女性の顔に少しだけ微笑ましいものを見るような光が宿る。

 あのオバハン、俺らのことどう見てるんだ。ナルミは急に気恥ずかしくなり、ジャコウの右側の腕を二本まとめて掴んで部屋に引っ張って帰った。

 乱暴にドアを閉め一息つくと、ジャコウは改めて頭を下げた。

「少しだけ外に出るつもりだったんですが……。どうなることかとヒヤヒヤしました。助かりました」

「なんで外なんかに出てたんだよ」

「ちょっとお掃除でもと」

「……チッ。バケモンが、余計なことするからだ」

 悪態をつきながらまだジャコウの右腕を二本掴んだままのことに気がつき、ナルミはその手を離そうとした。ふと、ジャコウと視線がぶつかる。

 漆黒の大きな目は、ナルミの姿を無数に映していた。

「ヒッ」

 その異様さに喉に絡まるような悲鳴をあげて、ナルミは思わずジャコウを突き飛ばした。

 口ではバケモノ呼ばわりしつつも、ナルミはいつのまにか彼女のことを少しだけ違う外見を持つだけの普通の人間のように錯覚していた。しかし、やはりジャコウは人間とは違う存在なのだ。昆虫は複眼といって、小さな目がより集まった大きな目を持っている。小さな目がそれぞれ対象を映して全体像を把握するのだという。彼女の目もそれと同じだった。

 しかしそのことをナルミが瞬時に理解できるはずもなく、彼にはそれが暗い穴の中でもがく無数の自分の姿にしか見えなかったのだ。

 ジャコウは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐにナルミの嫌悪を見抜いたようだった。悲しげに目を伏せる。

「すみません、驚かせるつもりはありませんでした」

「いや、その……。やっぱお前って、バ……人間じゃねぇのな」

 バケモン、という言葉は今度こそ使えない気がしてナルミは少し言いよどんだ。恐る恐るジャコウに目をやると、間近でないからだろうか、そこにあるのは今まで通りの穏やかで大きな黒い瞳だ。少しだけ安心して、ナルミは口を開く。

「ジャコウ、その……さっきは悪かった。八つ当たりだ」

「かまいません。ナルミさんはわたくしの恩人ですから」

「お前、俺に命を救われたって言ってたよな? ほんとなのか?」

「はい、本当ですよ」

「なら、詳しく話してくれ。俺はいま、俺のことが嫌で嫌で仕方ないんだ。もうちょっとマシな奴なんだって、俺自身に思わせてくれよ。俺のこと助けてくれ」

「もちろんお安い御用です」

 ジャコウは大きく頷き、思い出すように少しだけ視線をさまよわせた。

「あれは、わたくしがまだ幼い頃。道を渡っていたところを、猫にちょっかいをかけられて困っておりました。わたくしたちは毒を持っていますから通常の生き物は避けて通るのですが、それは子猫だったのでそのことをまだ知らなかったのでしょうね」

「ちょっと待て。お前毒あんの? そういうことは先に言っとけよ!」

「わたくしを食べなければ問題ないですよ」

 ジャコウは涼しい顔だが、一緒に過ごしたこの五日間のことを思い、ナルミは腹の底がヒヤリと冷えた。

「そんなときにナルミさんが通りかかりました。虫の居所が悪かったのか、持っていた棒をブンブン振り回しながら。そしてその棒が、見事子猫にクリーンヒットしたのです。おかげで悪戯な子猫は逃げ去り、私は助けられました」

「……なんだそれ。ただ俺がサイテーの動物虐待ヤローだって話じゃねぇか」

「そうかもしれません。ただ、わたくしにとっては命の恩人です」

「お前には毒があるんだから、結局は食われなかったんじゃねーの?」

「食べられなくても、爪で傷つけられれば死んでしまうこともあります。わたくしはとても小さい生き物でしたから」

 ナルミは記憶を探ってみる。犬や猫を傷つけた記憶はいくつか見つけ出せたが、そのどれがジャコウを助けたタイミングだったのか、それはさっぱりわからなかった。そもそもそのときのジャコウは今とは違う姿だろうから、いくら探しても当たらないのは当然だった。

「やっぱり思い出せねーよ。お前、一体なんなの? なんのために俺んとこ来たの?」

「言ったじゃないですか、恩返しですよ」

「恩なんてねーだろ! 俺みたいな奴に……今の話聞いたって、俺がお前を助けるつもりじゃなかったってわかるだろ」

「ナルミさんにそのつもりがなくても、私は命を救われたんです。あなたがいなければわたくしはその後、憧れた空を羽ばたくことはできなかったし、伴侶を得て子孫を残すことなどできはしなかった。恩は確かにあるんですよ」

「…………」

 涙を流すナルミに、ジャコウは小さな声でもう一度「あるんですよ」と呟いた。

 その言葉を皮切りのように急激に眠気が襲ってきて、ナルミは抗う術もなく瞼を閉じた。


▼△▼△ ▼△▼△ 


 遠くで聞こえる鳥のさえずりと朝日の温かさに、ナルミは夜が明けたことをぼんやりと悟った。

 よく干されて太陽の匂いのする布団から頭を出す。破れを繕われたカーテン、シミはあるが綺麗に磨かれた床、整頓された家具や衣類。窓にヒビこそ入っているが、古さの中に丁寧な暮らしが垣間見える部屋。

 そこに、味噌汁のかぐわしい香りが満ちていた。

「あ、ナルミさん。目が覚めました? ちょうど朝ごはんができたところですよ」

 台所からジャコウが顔を覗かせた。立った数日間しか経っていないが、その姿はまるでそこにあるのが当たり前のように安アパートに馴染んでいた。

 しかしナルミが朝食を終えると、ジャコウは居住まいを正し彼に相対して座った。

 なんとなく、そろそろではないかと予感はしていた。先に告げられるのが嫌で、ナルミのほうから口を開いた。

「帰るのか」

「はい。偉い人から決められた期限がきました」

「今日六日目だろ? 普通一週間とか、区切りのいい日数じゃねーのか」

「人間とは決まり事が違いますから」

「ふーん、そういうもんか」

 なんと言えばいいんだろう。ナルミは自分の学のなさや人間関係の希薄さを恨んだ。こんなときに気の利いた言葉の一つも出てこない。

「ナルミさん。わたくし、大事なことを言い忘れていました」

 ジャコウは改めて背筋を伸ばし、それから深く頭を下げた。

「命を助けていただきありがとうございました。この言葉を最初に言わなければいけなかったのに、申し訳ありません」

「あ……」

 それはナルミのセリフだった。衣食住を整えてくれたこと、人間らしい扱いをしてくれたこと、なにより自分のような人間に感謝を伝えてくれたこと。なにもかもがナルミには新鮮で嬉しいことだった。

「お、俺の方こそ、あの、ありがとう……」

 なぜか涙が溢れてきて、それを慌てて拭ったらその一瞬で、ジャコウはナルミの目の前から消えていた。

「へ……?」

 辺りを見回しても、狭いアパートの一室には自分しかいない。今までのジャコウはもちろん、ジャコウの本体と思えるナニかの姿さえなにもなく、ナルミは一人きりだった。

「な、なんなんだよ……最後がそれって、そんなんありか! 結局お前、なんだったんだよ!」

 泣いていいのか呆然とすべきか、いや、このあっけなさは怒ってもいいかもしれない。

 瞬間湯沸かし器のように頭に上った怒りを拳に込めて振り下ろす寸前、視界の端に小瓶が映りナルミは息を詰めた。ゆっくりと息を吐き出し、同時に拳も解く。息を吐き切ってから、朝日の差す窓辺に向かって呟いた。

「バカやろー。……ありがとう」


▼△▼△ ▼△▼△ 


「えらいじゃないの、春日くん。あれだけ言われたらそっぽ向くと思ったけどね」

 町工場の社長は、ナルミの顔と名前を覚えてくれていた。履歴書にはちらりと目を通しただけで、「じゃ、明日からよろしくね」とニヤリと笑う。

「え、いいんすか⁈ ていうか履歴書、せっかく書いたのに……」

「きみの行動を見てれば、履歴書なんて見なくても人となりはわかるよ。俺はね、人を見る目はあるつもりなんだ」

 なんだよそれ、こないだと言ってること違うだろうが。思わず悪態を吐こうとしたがグッと堪えて、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 歓迎会代わりに昼飯を奢ってくれるという社長と工場の外に出ると、目の前をふわりと蝶が舞った。透けるような黒い翅と黒い体。翅の縁にはどこかで見たような橙色の班模様。

「あぁ珍しい。ジャコウアゲハだね。久しぶりに見たよ。まるできみの門出を祝ってくれてるみたいじゃないか」

 社長は冗談っぽくそう言ったが、ナルミはきっとそうに違いないと思った。

 蝶はすぐに、空に溶けて見えなくなった。





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