記憶
自分が自分でないような感じがした。足元が揺れて、うまく立てない。グラグラ燃える心だけで立っている。こんなに感情的になったことは無かった。怒りに任せ、確実に悪い奴を殺そうとしている。溢れるこの感情は快感だろうか。
「ま……待ってくれ…………」
女の顔から涙やら鼻水やらの体液が零れている。その表情に恐怖が湧いた。いや、この表情を作り出している自分に恐怖した。情緒が不安定になってきていた。それに気づいて、俺は手を緩め、ナイフを抜いた。抜いた箇所から血が溢れる。
「私はもう戦う気はない。だからこちらに寄らないでくれ」
怯えている。まるで群からはぐれた小鹿みたいに怯えている。なんでそんな顔ができるんだ。とても演技とは思えない。俺は何歩か後ろに下がった。すると女はナイフが刺さっていた場所に手をあてた。手が紫色に発光した後、呼吸を落ち着けている。
「私は仕事に来た。鍵と捕食者の回収に来ただけ。命を奪おうという意思はない。鍵が得られれば良い。それで良い」
「分かんねえ。何で捕食者と一緒にいるんだ。そいつらはこの里の人たちを数えきれないほど殺しているんだぜ。しかもお前は捕食者を操ってる」
女は少しよろめいているが、生きている。あんなに深く刺したのに。
「ここは里ではないし、人もいない。お前は変だ。一旦国に帰って医者に掛かるべきだ」
「何だと?」
突然目の前の空間が裂けた。裂けた空間からTが出てきた。
「終わった? いやーお前って強いんだな。あいつを刺したときはびっくりしたけど、結局国に帰れるし、不気味な住人も助かるって話らしいし、万事解決だな!」
彼は目を輝かせて言った。
「お前たち二人とも病院に行ってもらおう。私も行くことになるだろうが……」
「いや、俺は……」
そう言いかけて、後ろから誰かに首元を叩かれた。意識がなくなった。
***
どこかで嗅いだ香り。甘い香り……。
「お目覚めかな?」
ここは……家の近所の病院……? 数年前よく来ていた。お医者さんとも久しぶりに会う。前と全く変わっていない。
「こうして会うのは久しぶりだね。また突然倒れたのかと思ったよ」
彼は笑いながら言った。頭が痛い。眠りすぎて痛くなったときに似ている。体がだるくて、充分に息を吸えない。
「君を連れてきたお姉さんからお手紙だ。横の机にある。君に読んで欲しいとさ。じゃあ、またな」
*****
君に心臓を刺された者だ。あの傷で、幸い生きている。あんなところに人がいるなんて驚いたぞ。しかも私を殺そうとしてくるなんて。あの辺りの管理者、ちょうど本部に用事があっていなかったらしい。君と一緒に居た人も保護した。安心して欲しい。もう会うことはないと思うが、次は殺そうとしないでくれよ?
*****
ボヤーっとしか覚えていないが、こんな友好的だっただろうか。俺は起きた日のうちに退院した。いつものバスに乗って家に帰る。意識を失う前、あんなに必死だった理由が思い出せない。何か忘れている気がする。旅行に行って、部屋で倒れていたんだったかな? ゾンビみたいな乗客たちがいて、腕が一瞬離れていたような……。でも、そんなことはもうどうでもよくなった。明日からまたいつも通りの暮らしになるから。
バスの中で、ふと、二つの言葉が口から漏れた。
「母……父……」




