夜明け
さっきまでの空間が夢の中だったみたいに、何も変わっていなかった。記憶だけが鮮明に残っているものだから、時間が飛んだような感覚を覚えた。やや温かくなった手の中には鍵があった。
「おーい!」
誰かが呼んでいる。声の方へ振り向こうとした瞬間、頭痛がした。風景の一部分の赤が膨らんで、空に広がっていく。地面は黒くうごめいて、赤にまとわりついていく。
「捕食者だ!」
誰かが叫んだ。捕食者が近づいているから頭痛が強くなっているような感覚がする。俺は感覚に従い、その方向に進んだ。
里の結界があるところまで来た。里の人がたくさん集まっている。人の隙間から夕陽が見える。そして、捕食者が結界に食らいつき、破ろうとしているのが見えた。それも二体。そして異様なことに、捕食者の後ろ側に女が立っている。その人はガーネットによく似ていた。
ラヴァが皆を広場に集めている。こんなことは初めてなのか、皆動揺している。
「S君、しん……」
ラヴァの言葉が分からなかった。リンが結界の近くで倒れていたから。もうすぐ結界を食い破るであろう捕食者たちの第一の犠牲者になってしまう。それを考えるより先に俺は走り出した。
素早くリンの体を持ち上げて走ろうとした。結界が割れ始めた音がした。
「みんな受け止めて!」
リンを勢いよくラヴァたちの元に投げた。捕食者たちが近づいているのが分かる。頭痛が強くなっている。俺はナイフを抜いて、構えた。
「鍵を持っているな。寄越せ」
ガーネットに似たその女はそう言った。渡してはならない。ろくなことにならない。本能も思考もそう判断した。俺は拒否していることを示すように腰を低くした。そして、ポケットに入れていた鍵を勢いよく飲み込んだ。
「…………捕食者」
女は手をこちらに向けた。
突然、目の前が真っ黒になった。
『死んだらみんな同じ場所に行く』
リンがそう言って立っていた。
『Sのお母さんもお父さんも、私もカールも、みんなみんな、そこで悩まず生きていけるんだ。一緒に行こう?』
これが捕食者の特性だろうか。逃げないよう幻覚を見せて食べてしまう。みんな大切な人を守ろうとしている。その大切な人を見せて誘うんだから、報告書通り、逃げないのも納得だ。
俺は今、幻覚に騙されていない。だけど、行きたい。悩まず生きたい。もう一度確認しておく。俺は幻覚に騙されていない。俺は……。俺は……騙されていない……はずだ。俺は……ただ生きて、死んで、蘇って、悩んで……。大事な人達と過ごせるなら、死んでも良いんじゃないか? 困難ばかりのこの世ではなく、楽に溢れたあの世で……。カールも、これから、リンもランも、きっと俺の母や父という存在も、みんな、みんな……。やっぱりそうだ。こんな辛い世界じゃなくて、みんなであの世に住もう。そうすれば悩みなんてないわけだ。そうしよう。
俺はリンの手を掴もうとした。しかし、掴めずに、体が急速に離れていく。
「お前の居場所はここだ。お前の居場所は困難ばかりの此処だ」
ガーネットが俺の首を絞めていた。苦しい。
「此処では生物は死に、夜が訪れ、朝が来る。その目で確かめろ」
ああ、その通りだ。考えれば当たり前の自然の摂理。死があるから生がある。夜が来れば朝が来る。悲しいけれど、この世界でしか俺は生きられない。あの世は地獄しか用意されていないかもしれない。受け入れなければいけない。向き合わなくてはいけない。
俺はナイフを自分の腕に思いっきり突き刺した。
「今、朝になる!」
頭がすっきりして良い気分。さっきまでの頭痛が嘘のように爽やかだ。腕の傷が見る見るうちに治っていく。
「捕食者なんてぶっ飛ばす! 俺の居場所は俺が守る!」




