トラブル
何事も無かったように授業に出席しているリノアを見て、ユースは驚きと怒りを感じていた。少し前まで自分に怯えて下ばかり向いていたのに、別人のようだ。気丈にふるまっているというより、ふてぶてしいとすら思える横顔を睨みつける。
当のリノアは、睨まれていることなど全く気づいていなかった。普段通り集中して教師の話を聞いている。ノートをとりながら、あれと気づく。もうページが残り少ない。
新しいのを買わないと。あとルイスに手紙を出したいから封筒と便箋も必要だな。休日にでも買いに行こう。
ルイスは向こうで上手くやっているだろうかと意識が逸れかけて、いやいや授業に集中しなきゃと心配を打ち消した。きっと大丈夫だ、ルイスの女子力を信じよう。
授業後、リノアは荷物を教師の研究室まで運ぶよう頼まれた。気弱な生徒には頼みやすいのだろうか。今日全員から提出された課題に加え、分厚い参考書が結構重たい。2回に分けて運ぼうかと考えたが、幸いエドガーが半分以上持ってくれたのでかなり楽になった。逆に申し訳ないくらいだ。
「大丈夫?半分ずつで良かったのに」
「俺はこのくらい平気。先生もわざわざルイスに頼まなくていいのにな。見るからに非力そうなのに」
からかわれ、リノアは不満げに否定する。
「こう見えてそこそこ力あるよ」
「へー凄いなー」
明らかに信じていない。むっとして更に言葉を重ねようとする。そのとき、階段上から下りて来た生徒達とすれ違った。
ドンと不注意にしては強い力で肩がぶつかる。
「あぶっ!?」
バランスを崩して体が後方に傾く。咄嗟に手すりにつかまろうとしたが、両手がふさがっていたために一呼吸遅れた。つかみ損ねた手は空を掻き、体が下へ引っ張られていく。
あ、やばい。
ぎょっとした顔のぶつかった生徒と、必死な表情で手を伸ばすエドガーが視界に映る。全てがスローモーションのように動いているが、リノアの思考は硬直したまま、内臓が持ち上がる不快感と背中から一気に侵食してくる恐怖だけを伝えていた。
しかしリノアが硬い床に叩きつけられることはなかった。しっかりとした腕に受け止められたからだ。衝撃に短く息を吐いたリノアは、ぎこちなく上を向く。命の恩人の顔は思ったよりも近くにあり、リノアと同様ぽかんとした表情だった。
アレンだ。どうして。
「生きてる?」
反射的に大丈夫だと答えようとしたが、出てきたのは息だけだ。なんとか冷静さを取り繕い、コクコクと頷くと、相手はリノアをそっと降ろした。
するとまるで数時間地面から離れていたかのように、ガクンと膝をついてしまった。
「え?」
あれ、なんで?立てない。
頭上からため息が聞こえ、再度抱え上げられた。
「わ、ちょ待って、降ろし」
「立てないんだろ?医務室まで運んでやるよ」
「歩ける!歩けます!」
必死に主張するが、はいはいと聞き流される。暴れるリノアを抱えながら階段を駆け下りて来たエドガーに声をかける。
「後のことは頼んでいいか?」
「はっはい!」
踊り場で立ち尽くしている男子生徒達を、逃げるなよとひと睨みして医務室に向かう。
すれ違う人の目に耐え切れず、リノアは耳まで赤くなった。心臓の鼓動がせわしなく、頭がくらくらする。
「怪我してないですから。大丈夫なので」
だから自分で歩かせてくれと訴える。リノアがここまで嫌がるのは単に恥ずかしいからだけではない。
よりにもよって何でアレンなの。
ありがたいやら情けないやら。わりと本気で逃げ出そうともがいているのに、全く動じていないのも腹立たしい。結局、医務室に着くまで好奇の視線にさらされ続けた。
ベッドの上に下ろされ、ようやくほっとする。しかし額に手をあてられ、肩が跳ねた。
「あっつ。本当にどこも怪我してないんだよな?」
「はい。おかげさまで」
真正面から会話ができず、リノアは目を逸らした。校医はどこに行ったのだろう。早く戻ってきてほしい。
「念のため次の授業は出ない方がいい。疲れもあるだろうし、休めるときにきちんと休んでおけ」
自分を気づかう言葉に、何度目か分からない違和感を覚えて見上げるとアレンは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「この間の剣術訓練で派手な勝ち方をしたからな。貴族から嫌味を言われてるんじゃないか」
「え......見てたんですか」
「もちろん。教室の全員が釘付けになってた」
「うっわぁ」
恥ずかしすぎる。ヒートアップしてやりすぎた自覚はあった。あの時の試合の相手が気にしていないといいのだが。
「我慢しろとは言わないけども、変に恨みを買わないように気をつけろよ」
「分かってます」
じゃあな、とアレンは部屋を出て行った。完全に姿が見えなくなってから、リノアははー、と気を吐いた。どうにも調子が狂う。お礼も言えなかった。
これじゃ駄目だ。しっかりしないと。
少しして戻って来た校医に事情を説明し、授業が終わるまで休ませてもらう。放課後に来たエドガー曰く、不注意でぶつかった生徒は偶然通りかかったルドルフ先生に叱られて反省していたらしい。不注意という部分には引っかかったが、問い詰める気にはなれなかった。とにかく帰って休みたい。今日はやけに疲れを感じていた。
寮の自室に戻り、ベッドに倒れこむ。すぐにうとうととし、ぼやける視界の中で妙な物を見た。
白いもやがベッドの傍をふよふよ浮いている。
何......変なのが――。
ガクンと視界が真っ暗になり、それ以上の思考はできなかった。
「っは!」
目を覚ますと、室内は薄暗くなっていた。少しのつもりが、だいぶ寝てしまったようだ。ぐうとお腹が鳴る。時計を確認すると、ちょうど晩御飯の時間だ。
お腹すいたなぁ。今日のご飯なんだろう。
寝たおかげで、頭はすっきりしている。軽い足取りでリノアは部屋を後にした。
何か忘れてる気がするけど、まあいいか!




