第3話 愛の逃避行
——しかし、そこで俺が見たものとは、……。
「やあ」
この声の主は彼女の言う「彼」である。その彼はどこに居るのか。それを詳しく言えない『事情』があるのだ。何故なら……その理由も伏せておくが、最低限の情報として、彼女を巨乳だと思っていた、まさにその部分が「彼」であった、ということだけ伝えておこう。
千年の恋も一瞬で冷める出来事に狼狽する俺に、彼女は更に頼み事を押し込んでくる。それは「彼」のように私たちを助けて欲しいと言うのだ。それはつまり俺にも「ああなれ」ということなのだろう。だが、その異様な姿を見せられた上に変な格好で合体させられるのは御免被りたい。そもそも彼女は「人」ですらないではないか。
以前、月面基地では数体のアンドロイドが稼働していたと聞いたことがある。しかしそれは隕石の衝突後、どうなったのかまでは分からない。普通に考えれば、その衝撃で失われと考えるのが妥当だろう。だが、その数体の一体が彼女だとしたら、そしてここが最初の月面基地だとしたら……いやいや、余計なことを考えている余裕はない、すぐにここから、彼女から離れる必要があるだろう、あいつのように成っては元も子もない。
プルプルと震える足に力を込め速攻で脱出を、と考えたが時すでに遅し、彼女に腕を掴まれてしまっている。それも俺を誘惑するような視線を向けながらだ。これには一瞬ほかの事が過ぎってしまったが、彼女は彼女であって彼女ではない! 美しいなりをした機械である、と理性が囁くが……それどころではない、万事休すか、俺もああなるのか、なってしまうのかぁぁぁ。
「タコォォォ」
俺の癇に障る、オリバーが俺の名を間違って言う時の言い方だ。それを誰かが大声で叫んでいる。俺の名はタイチ、タコではない。いったい何度言わせれば覚えるのだ、イかれた機械め、と心を鎮めながら声のする方に視線を向けると……彼女が俺に向かって走って来るではないか! ……いや違う。顔は同じでも例のあそこは平原ではないか。
「タコォォォ」
誰だ! 俺の名を気安く呼ぶ奴は。それに俺はタコではない、タイチだ。太平の世を一番で率いる選ばしれ者の名だ。全く、何度言わせれば、……。
「タコォォォ、そいつから離れるんだぁぁぁ」
離れろと言われてもなぁ、こう彼女に、いや機械に掴まれていてはなぁ。それに彼女、いや機械だから、ものすごい力で離してくれそうもないのだよ、全く。——その時、ふと、なんだか三角関係で拗れたシーンを頭の中で描いてしまった俺だ。愛を奪い合う三つ巴の戦い、勝者のみが真の愛を勝ち取る、そんな罪深き俺は2人の女性を狂わしてしまったのか、とかとか。
迫り来る女は、もう叫ぶのをやめたが、その代わりステップ・ジャンプ・トォゥで足を伸ばし、つまりジャンプキックで彼女めがけて……それを華麗に躱した機械の彼女はスクッと立ち上がり、女のキックは俺が座っているベンチを蹴飛ばし、当然のようにベンチ諸共、転がった俺である。……だが、痛いだけでなんの成果も無い俺ではない。その弾みで機械の彼女から自由を奪取したのである。
「タコ、逃げるぞ」
なんで逃げる必要が……そう言えば「あった」ような気がするが……という疑問を抱く暇もなく、今度はタコ女に腕を掴まれ、引き摺られるように逃げる俺たちであった。——誤解のないように言っておくが俺は自分で走れるくらい十分回復している。それなのに引き摺られているとは何事か、と思われるかもしれないが、ここは月面基地、つまり月である。よって重力は地球の1/6なので身軽な俺は千鳥足となるのである。だがタコ女は俺とは違いドカドカと走っている。これは……一応女性なので控え目にしておくが、それなりに体重が「ある」ということだ、それなりに。
俺たちは愛の逃避行よろしく、手と手を繋ぎ幸せが待つという未来へとひた走る。正確には空に舞い上がらない凧のように飛び跳ねている俺を無邪気な子供が走り回っている、といったところか。だが、逃げれば追う者ありがこの世の定め。さぞかし血相を変えて(いや、機械だからオイルかもしれない)猛追していることだろう、——と思えば誰も追ってはこない。ならばこのまま幸せのゴールまで走り切るまでだ。
「お前は誰なんだ! 言っとくが俺はタコじゃないぞ。俺は……」
「タイチ」
「何故それを! 俺の最高秘密だぞ。……それなら、オリバーはどうした? あいつから聞いたのか。あいつは生きて……壊れたんじゃないのか」
「黙って走れ! そうしないとこれが最後の……」
道無き道を、ではなく、ちゃんとした道路のようなところを疾走する俺たち。追っ手も無く、これではそんなに急ぐこともないだろう、……という心の隙を突くかのように、後方よりドカドカと行進する凄まじい靴音が聞こえてきた。それは同じ顔をした、それも全員女性(の姿をした機械)軍団が慈悲のカケラもなく迫って来ている。あれに接触しようものなら弾き飛ばされるのは必定。もっと速く走れとタコ女に言いたいが、そいつも同じ顔だ、逸れたら迷子になるだろう。
俺の心と通信できたのか速度を上げたようだ。やはりこの子も「やれば出来る子」なのだろう。そのせいか徐々に後方の軍団と距離が開き、「お前ら、もう少し頑張ったらどうだ」と言いそうになったところで、1人だけピューンと飛び出してきたではないか。なんとも「和」の心を持たぬ機械であることか、お兄さんは悲しいぞ、そんな娘に育てた覚えはないぞ、と思っていたらそれも通信できたのだろう、一気に差が開いたぞ……ううん? 立ち止まってしまったではないか。そうかそうか、戦意喪失、諦めたのじゃな、懸命な判断だ、褒めて遣わそう。
「飛び降りるよ、覚悟して」
「なにっ!」
我々の行き先、その先は遥か遠くまで続く一本道……のはずが、目の前で途切れているではないか。しかもその先は……何も無い、いわゆる「崖っぷち」というものらしい。なんで工事を途中でやめたんだっ! と責任者を問い詰めたいところだが、なにせ急ぐものでな……「飛び降りる」だとぉぉぉ。気は確かか壊れたか。やはり、機械は肝心な時に壊れるものだ。
「あぁぁぁあぁぁぁ、あああぁぁぁ」
もともと重力が低いせいか、落ちているという感覚がしない、しない、しないが取り敢えず気合を込めて叫んでおこうと思った。こんな機会はそうそう有るものではないだろう、多分。
たぶん序でに言えば、飛び降りたからには其れなりの算段があってのこと、だと思われる。だから、……さあ、次はどうする、どうするのだぁぁぁ。
落下運動により深い谷のような、まさに奈落の底へと真っしぐらの我々である。見える先は闇ばかり、掴むのは空虚な希望か、それとも幻の奇跡か。運命の糸を操るのは俺かお前か、それとも俺を愛してやまない全人類か、……誰でも何でもいいから何とかしてくれぇぇぇ。
地獄への入場券を買う寸前、ツレが俺を手繰り寄せ、こんな時にナントいきなり抱きついてきたではないか! これが噂の「ハグ」というものか、こんな時に……こんな時だからこそなのか。これがせめて機械ではなく生身の……と思った瞬間、体に激痛が噴火する。なんとっ! こいつが俺を蹴飛ばしたではないか。そのせいで一気に別れることになった俺たち、いったい俺がお前に何をしたって言うんだよぉぉぉ、と怒りやら痛いやらで大忙しの俺は……どこかのどっかに激しくぶつかり、ゴロゴロと回転した挙句、どこかに強制着陸を果たしたようだ。そしてアイツは……奈落の底へ落ちて行くではないか。
「お前は、……誰なんだよぉぉぉ」
「私は……リンダ、……」
誰が名前を聞いた? そうして俺を助けたつもりなのか。死んでしまったら……そこで人生は終わり、終わりなんだ。それは機械だって……同じことだろう?
◇
「隊長! 生きてます、『生きて』います」
誰かが俺の目の前に居る。その声がヘルメットの中でガンガンに怒鳴っているように聞こえるのは気のせいだろうか。
月面に落ちた宇宙船はバラバラになり、堪え切れずに俺を放り出した。そうして月の砂と成り果てるはずだった俺を救ったのがオリバーだそうだ。四角四面のオリバーは、その形ゆえコイツもバラバラになったそうだが、唯一残った機能で遭難信号を出し続け、こうして救助隊が駆け付けた、ということになる。
では、俺が経験した月面基地での出来事はなんだったのか。あれは極度の酸欠で見た幻または夢だとするのが妥当だろう。それは墜落してから救助されるまで10時間程度しか掛からなかったとすれば、少なくとも数日いたことになっている月面基地と辻褄が合わないからだ。そう考えれば、実に奇妙な夢を見たものだと納得できるだろう。第一、隕石の衝突で廃墟と化した最初の月面基地に居たこと自体、有り得ないことだ。
だが、こうしてまた白い天井と白い壁に囲まれていると、短期間で二度も入院した気分になるのは頂けない。ましてここの看護師が全員「男」だということも頂けない。せめてそこは夢の続きであって欲しいものである。
「ほれ」
誰かが、丸いボールのようなものをベッドで休息中の俺に投げてよこした。それは新装開店し四角から丸に転身したオリバーだという。コイツは俺の命の恩人としてチヤホヤされ、まるで英雄でもあるかのような扱いだ。全く機械のくせに……それよりもコイツを作った本人に感謝すべきだと思うが……誰だか分からないので取り敢えず、そういうことにしておこう。
「おい、オリバー。……よくやったな。次も頼むぞ」
「オリバー? 私はリンダ、……忘れたの?」
「なっ!」
まあ、いいだろう。そういうことにしておく。