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紫陽花と乳とシンギュラリティ

4話目です!


乳がんと闘う夫婦の話です。

 「わたしが病気になって、嫌いになった?」


 昨日の仕事終わりにお見舞いへ行って、妻がそう言ったのを繰り返し思い出す。何か悪いことしたかな、隣を歩く後輩にそう尋ねる。


 「先輩、お花とか持っていきました?」


 ちゃんと紫陽花を持って行ったと言うと、詰めが甘いとなじられた。


 「紫陽花は、色褪せていくから縁起が悪いって言われているんです。それに、多分……」


 多分なんだ、と私は語気を荒げる。普段の尋問癖を後輩に向けてしまうとは情けない。


 「色が変わるあの花を、心変わりの象徴と捉えてしまう女性は意外と多いんですよ」



 妻が乳癌だと判ったのは、三ヶ月前のことだった。私も妻の検査で知ったのだが、日本人は欧米の人に比べて、乳腺の密度が濃い場合が多い。近年ようやっと市井が啓蒙されつつあるが、この乳腺が濃い胸はデンス・ブレストと呼ばれ、注意が必要なのである。なぜなら、デンス・ブレストがマンモグラフィ検査を受けても、癌の初期症状が乳腺に隠れて発見されにくいからだ。妻がまさにそれだった。主治医が変わって若い先生になったおかげで、デンス・ブレストなのだと伝えてもらえた。そして超音波検査をして、乳癌が判った。しかし、それでも検査で確信を持ちにくい体質である。MRIを待って、入院できるのを待って、としている間に数ヶ月経ってしまった。待機児童問題は取り上げられるようになってきたが、検査難民問題ももう少し報道されて然るべきだと思う。


 検査を待つ間に不安にさいなまれて、妻はうつを抱えた。夜は私が支えて、昼はピア・サポートをしているNPOを頼ってと、左に倒れ右に倒れ自転車を漕ぐように入院までやってきたが、ついに入院しても孤独がまた妻の心を巣食った。


 そんな折の紫陽花事件である。



 妻の病態がどうだとかいう話を後輩に付き合ってもらっているうちに、現場に着いた。今日は、先日あった園芸会社社長殺しの聞き込みだ。捜査は足で。小さい頃憧れた刑事ドラマで何回も聞いたセリフだが、三十路も近くなってくると足での捜査というのは些か厳しいものがある。近隣の住民に、走り込みをしていた中学生に、社員にと話を聞いていると、後輩がいつにない神妙な面持ちで近づいてきた。


 「先輩、黒い紫陽花って知っていますか」



 数年前、日本の会社が不可能とされた青いバラを開発したというニュースが世界中を駆け巡った。その衝撃を紫陽花で実現しようとしている企業が、目の前の中小企業なのだというから驚きだ。


 紫陽花は、土壌の酸性・塩基性に応じてその花に赤・青を纏わせる。さらに変種や病気の症状として、緑色のものもある。こうした色を掛け合わせることで、市場には種々の色の紫陽花が寄せられる。


 話は変わるが、プリンターのインクにその名が冠せられるCMYKとは、シアン・マゼンタ・イエロー、そしてキー・プレートの略である。このキー・プレートとは通常黒であり、これら四色を減法混色すると、あらゆる色を再現できる。


 この園芸会社は、そこに着目した。元からあるシアン・マゼンタの紫陽花と、緑色の紫陽花を改良したイエローの紫陽花、そして完成の目処が立っている黒の紫陽花を使って、全色を再現する。具体的には、AIに学習させて遺伝子を操作し、各色を配合するのだという。この技術は、世界に革命を呼ぶ。各色の紫陽花をこれまたAIの指示通りに配置すれば、紫陽花印刷が完成する。例えば、建物の壁面に敷き詰められた緑のカーテンは、紫陽花印刷によって広告ポスターへと早変わりだ。


 緑地開発のシンギュラリティ、来たれり。



 「それで、技術を狙う他社が、社長の殺害を試みた、と」


 後輩が驚いて尋ねると、研究者は、機密なので言うべきか迷ったのですが、とばつが悪そうに答えた。これで捜査線の行く末は様変わりだ。とりあえず本部に報告してから再捜査だな、と私は今日の聞き込みがもうないことに安堵した。


 「AIが花壇をキャンバスにする時代なんて、考えても見ませんでしたよ」


 後輩も安心したようで、刑事らしからぬ穏やかな口調で研究員に語りかけていた。研究員も気が緩んだようで、我々に向かってはっきりと口を開けた。


 「案外、AIが人間の遺伝子さえも操作する時代っていうのは、すぐやってくると思うんですよ。人間の個性というのも、紫陽花と同じで十人十色でしょう。それらを掛け合わせて、もっと色んな人が産まれて、そんな人たちとお喋りができる時代が来たら、きっと楽しいでしょうね」


 後輩も、完全な雑談モードに入る。


 「しかし、機械に運命を委ねるのって、怖くありませんか」


 研究員は遠くを見たまま、でも心をしっかりと込めて返事をする。


 「いやあ、そんなことないですよ。神様だとか、コウノトリだとかに天命を任せて来た我々じゃないですか。それが自分たちの手中にあるAIによって世界が確定する未来へ変わる。安心すべきことです。とはいっても、私はクリスチャンなので、神への冒涜にならないことを日々祈っていますけどね」


 滔々と話す研究員が、まるで神父様のように思えてきて、私も一つ悩みを相談してみた。


 「そんな紫陽花は、やっぱり変化の象徴ですか」


 研究員は、私に運命のレールを引く。


 「いいえ、紫陽花は、何色になっても、雨に耐えて咲くのです。その姿は、小さな花々を集めたような温かい姿です。花言葉は、『辛抱強い愛』、そして『家族』、なんですよ」



 「なんだ、そうならそうと早く言ってよ。胸がなくなる私を想像して、幻滅しちゃったのかと思った」


 妻に紫陽花の花言葉を伝えて謝ると、笑って許してくれた。その笑顔がやっぱり可愛くて、辛抱強い愛を、妻に全身で伝えていこうと決意を固めると、看護師さんが呼びにきた。主治医が、話があるようだった。


 妻の手術が来週に決まった。予定通りの、左乳房全摘手術である。この手術が成功しても、右乳房で再発する可能性があるので、退院後も年に一回MRI検査をするのだという。先生、私たちはずっと怯えていなくてはいけないのでしょうか、と私はつい不安を口に出してしまった。


 「いいえ、むしろ毎年早期発見のチャンスが訪れるのは、幸せなことなんですよ。奥様と同じデンス・ブレストの方々は、今も知らない間に乳癌が隠れている可能性と戦っています」


 まだ矛盾の多い時代である。検査体制の拡大は、最新の学識を持った医師の総数を追い越した。


 新しい若い主治医は、最後にこう付け加えた。


 「近いうちに、親族の罹患率からAIが癌の可能性を割り出してくれる時代が来ます。全国民が疾病を早期発見できる時代が来るのです。そしたら我々が、全力で直します。その時代、病気なんてもはや個性ですよ。近所の神社に緑色の綺麗な紫陽花が咲いているのをご存知ですか。あの色、葉化病っていう病気によるものだそうです。そういうことです。緑色の紫陽花も、毎年見事な花を咲かせるのです。それでも紫陽花は、雨に耐えるのですけどね」



 機械の未来は、千紫万紅の紫陽花が全地に咲く。

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