魚とアスパラガスとギフテッド
3話目です!
自分の才能に悩む男の子が成長する話です。
(一九九九年四月五日)
私の記憶のいちばん初めは、四つになるかならぬかのときにある。その日、母に連れられて幼稚園に行った。後に幾日も通うことになる学舎の記憶が何故に一日に同定されるかというと、憶えているのが入園式の記憶だからである。無論、園長先生が発したであろう祝辞の台詞などは一句たりとも泛かんで来ないが、彼女の身体の一部分は、昨日見た景色かの如く鮮明に蘇って来るのだ。右手の人差し指。彼女の右の人差し指は、厭に白くて、厭に長く伸びていた。その白さは、入園式だけに着る、お高い紺地の服と対照して、いっそう際立っていた。白魚の手というのはこういうもののことをいうのだな、と幼なながらに思った。
(二〇〇二年六月十五日)
人の指の白さに吃驚していた私がインドアであったことは、さぞ親を噴飯させたことだろう。本の虫、フランスのことばでは図書館の鼠、というのが、私を評価する大凡のおとなのことばだった。
小学校に上がった私を苦しめたのは、運動の時間だ。体育に限らず、昼休みに、名前は忘れたが二限と三限の間の短い休みに、そして放課後に、あの年代の小僧というのは、どうして動き回ることを是とするのであろうか。私はそのころ地図や航空写真に凝っていたから、辺りの風景を俯瞰図のように捉えることができた。それだから、ドッヂボールという遊びでだけは、ボールの軌道を計算して逃げ果せることができたが、それでもガキ大将の豪速球を掴むことはできなかった。そして、空間の距離感覚はあれど、他人との心理的な距離を把捉することは、どうしてもできなかった。
(二〇〇四年四月四日)
小学校も三年に上がって、大分学級には顔見知りが溢れたが、新しいクラスには転入生がいた。担任の司会進行へあわせて自己紹介するためにチョークを握る彼の手に、教室中の視線が寄せられた。私は気付く。白魚の手の彼女と、寸分違わぬ手をしている。勿論、成長というものは感じるが、その本質は全く変わっていないのだ。彼女と級友になれるという喜びと、彼女は男だったのだという一驚とが相俟って、私の心臓はその鼓動を速めた。やあ、久しぶり、またこっちへ越してきたんだ。と何事もないように私の隣へ着こうとする彼に、思わず「あ、あの白い手の」と問いかけてしまった。
「ああ、僕の指って長いだろう。おかげで、ピアノが得意なんだ。男のくせにって思うだろう。でも、それが与えられた才能なら磨くしかないんだ」
それなら君も、体育とか、苦手かい。私はまた衝動的に彼に問いかけていた。
「僕は身体が弱くて運動ができないんだ。それでも先生は参加しろって怒るけど。僕は木陰の土に鍵盤を掘って、ピアノの練習をしているよ。得意に化けるかわからない運動のために、得意なピアノを棄てる義理はないだろう」
(二〇一二年七月二十二日)
高校生の私は、この日マラソン大会に参加した。小学校の大親友の言葉を胸に、私は苦手を棄てて得意を伸ばしていた。大会ではクラスでブービーだったけれど、高校の試験ではいつも一番だった。この世界の教育は、大きい何かに迎合することを強いる。私たちは、苦手なことも、ある程度はこなさなくてはいけないらしい。しかし思うのは、苦手を埋める教育は、得意を伸ばすことをしてくれないということだ。それは、体育のときのように、得意をさせてくれる時間が紡げないだとか、そういう問題だけではない。私がいる世界のおとなたちは、苦手をおとなたちの水準に引き寄せる術は知っていても、得意をおとなたちの知らないところへ連れ出してあげる術は知らないのだ。小学校のときは中学校の、中学校のときは高校の勉強を先取って教えてもらった。それが学識の全てだと思った。しかし私は大学のワークブックなるものを書店で見かけたことがない。さらに深い知は、どこに埋まっているのだろうか。
(二〇一四年四月七日)
結局、高等教育の分野が高校までのそれとは異なることを発見してしまえば、深い知なるものは身近にあったのだな、と大学の参考図書一覧を手にして思う。今日は、入学式である。新しい世界の波と新しい人間の網が私を待っている。隣に座るのはどんな人であろうかと、胸を高鳴らせていると、朧げに見覚えのある男が現れた。彼の人差し指は、相も変わらず白く伸びている。白魚というより、ホワイト・アスパラガスだな。私は自分自身の喩えを、十五年越しに訂正した。そして彼は十年前と同じように、私の隣へ腰掛けながら、私の疑問に答えてくれた。
「ピアニストは諦めたんだ。才能がなかったみたい。パンフレット見たよ、代表の挨拶は君なんだって。君の方は、矢っ張り学問の才能があったみたいだね。どうだい、君はこの先、頑張れそうか」
(二〇一七年十月三十日)
私は、勉強を修めることが何処に収束するかを、何となく感知した気がした。
(二〇二〇年三月十九日)
最近は、何もかもが画面の中に収まってきた気がする。今日も、動画配信サイトに、ある映像が流されていた。私の通う大学の卒業式である。この画面の中に入ることが許される学生は一握りで、各研究科の選りすぐりである。私は、画面の中央へと歩みを進め、免状を受け取った。賞状を受け取る私の指は、長年のあいだ部屋の中で知を探ってきたことを表すように、短いながらも白を誇張していた。
遠い家の中で、私を一番に讃えるように拍手を送った人がいた。その男の手は、人差し指を中心に、長く伸びていた。しかし、白は彼のもとを離れていて、代わりに小麦が住み着いていた。その色もまた、至極美しい色であった。
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