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秋と愁とアンチノミー

17話目です!


ある男子大学生の悩みの話です。

 秋の日は鶴瓶落とし、とは良く言ったもので、夕方急速に沈みゆく陽の光を見ると、茫漠とした無常観に襲われる。秋は、紅葉の季節であり、落葉の季節でもある。生きとし生けるものに訪れる臨命終時を嫌でも実感するときがある。特に私の死を想う頻度たるや、友人達に引けを取る気がしない。


 昨年、祖父と、祖父の姉――私から見れば、大伯母とでもいうのだろう――が亡くなった。ここ数年、二人は老人ホームに居て、私が直接会う機会は少なかった。むしろ、表には言わなかったけれど、親戚に会うよりは自分の時間を大切にしたいとさえ思っていた。しかし、死は重かった。葬式で見る白と黒の鯨幕にも慣れてきた頃、私は他の人の死すら怖くなった。恐らく、二人が亡くなったことは、私が思っていた以上に哀しくて、他の大事な人を喪うことにも怯えるようになったのだろう。そしてもう一つ。自分を確かに愛してくれていた人が、一年に二人も居なくなってしまったことは、心の底に影を落としつつあった。家族だからこその、無条件の愛。それは遥かに大きいもので、同じ大きさを埋められる愛なんて、そこらには転がって居なかった。


   **


 私は明るい少年だった。人を笑わせるのが趣味だった。小学校では、リコーダーをあらぬ音色で奏でたり、それに算盤でリズムを加えたりなんかして精一杯の道化を演じた。


 中学校に入っても、それは変わらなかった。成績も上々で、自分に自信も付いていった。もちろん、授業は皆勤である。優等生でも、毎日を全身全霊でエンジョイする。ただの真面目くんにはなってやらない。私のポリシーは、如何にも中学男子然として居て、かつ誇らしさにも溢れたものだった。


 この無敵感は、今となっては懐かしい。そのとき、私は体育の授業を受けて居た。中学二年生の、剣道の授業である。素振りの練習を終えて体育館を出ると、担任の先生が待って居た。白いガーゼのマスクがトレードマークの先生は、穏やかに私に話しかける。お家の方から電話があって、今日は早く帰ってきてね、とのことです。先生の口調とは裏腹に放課後が安らかではないものになることは、十四を迎えようとして居た私には十分察せられることだった。


 家に帰ると、私は母の車に乗せられた。祖父母の家に向かうのだという。私は、もう何となく分かって居た。祖母が、死んだ。どこか懐かしい匂いのする祖父母の家の居間には、白い布を被せられた祖母が居て、その前には蝋燭が置かれて居た。


   **


 我が家は三人家族である。父と、母と、私。本当は、母にとって私は三人目の子供なのだが、私は一人っ子だ。兄と姉は流産した。仮死状態ながらも何とか産声を上げた私は、出産の適齢期を超えつつあった母にとって、待望の子供だった。


 しかし、私にとっての三人家族は、母と、私と、祖母の印象が強い。いや、決して両親が離婚などをしたわけではない。けれども、私にとって両親は離婚して居るのも同然だった。父は、頑固な人間である。他人の為に阿ることはしようとしない。そして、父は亭主関白だった自分の父――私の祖父――を見て育ってしまった。育児は、母親がしてくれ。家事は、俺はしたくない。漸く産まれた子供のために、大手の航空会社を辞めた母にとって、それ程感情を揺さぶられる否定はなかった。私の物心が付いた時、とうに夫婦関係は破綻して居た。しかし幼少の頃は、今より仲が良かったのは憶えて居る。私の記憶の中の両親は、不和を重ねる一途だった。週末の外食に、家族旅行。一度だって父親が一緒に来た憶えはない。代わりに居たのは、母が頼った母の母――私の祖母――だった。ここに私の三人家族が形成される。


 航空会社に居ただけあって旅行が大好きな母に連れられ、私たちは色々なところに出掛けた。そして、行く先々で、体力が母に比べて弱い私と祖母は、セットで休んでいた。一緒に座って、色々な本を読んだ。色々な話をした。色々な遊びをしてくれた。私は祖母が大好きになった。小学校に上がっても変わらなかった。私は、日々知ったことを、祖母に得意げに話した。祖母は嬉しそうに聞いてくれた。それで私も嬉しくなって、勉強するのが好きになった。家では、両親の仲がさらに悪くなっていった。ある日の喧嘩を境に、二人が唯一話して居た夕食の場すら無くなって、家にはリビングが二つ出来た。私は母のリビング――母の部屋を少し改造しただけだが――で生活するようになった。奇妙な話である。一つ屋根の下に、テレビにソファ、冷蔵庫まで二つずつあるのだ。そんな生活にあっても、祖母との三人家族は消えないままだった。


   **


 亡くなったのは、その祖母であった。私は悲嘆にくれた。とはいえ、変化があったのは私だけではない。心の拠り所がなくなったのは、母も同じだった。母は、これを機にと、祖母に怒られる心配が消失した遊びを始めた。高校の時の友人と夜な夜なホストクラブを遊び歩いた。恐らく、浮気もした。私には、何人と付き合ったかは分からないが。寂しさをかき消したかったのは分かる。でも、専業主婦の母に寵愛されて育てられた私に、この変化は堪えた。


 優等生だった私は、九月に入って、一回遅刻をした。もう歯止めは効かなかった。それから半年で遅刻の回数は四十回を超えた。成績は落ちるまでややタイム・ラグがあるようで、目に見える凋落は中学三年の赤点を待つことになる。とはいえ、かつての私は段々と姿を消していった。


 その頃、人生で初めての彼女が出来た。祖母を亡くしたばかりの私は、自分のことを好きだという彼女に、まるで雛鳥の刷り込みのように恋をした。自分に好意を向けてくれる存在に、心の穴を埋めるモルタルのような役割を、どこかで負わせて居た。しかし、三ヶ月も待たずに彼女とは別れることになった。悪餓鬼だった私が友達とした悪ふざけの一端を彼女が誤解したことが原因なのだが、誤解が解けて彼女から謝罪を受けても、二人の関係はギクシャクしたままだった。


 私も男である。最初は恋愛を引き摺るのが悪いことだなんて知らずに、大いに後悔した。未練を目一杯残した。隙あらば復縁をしようとした。しかし、だらしがなくなった自分に自信はもう無くて、なかなかそれを直接言い出せなかった。


 部活で大きな大会があった。彼女もその大会の存在は知って居て、活躍したら告白しようと心に決めて居た。しかし、私に活躍の場が訪れることはなかった。私はあと一歩の詰めの甘さで、取れたはずのレギュラーの座を逃した。


 後ろ髪を引かれ続ける男ほど、みっともないものは居ない。しかし、私はそのみっともない男だった。その頃には彼女とも大分疎遠になって居て、最初の悪ふざけの一件と、例の大会の、二つの「たられば」を嘆きに嘆き、毎晩枕を濡らした。彼女と今も続いていれば、どんなに毎日が楽しかったろう。彼女にもう一度「好き」と言ってもらえれば、どんなに救われることだろう。私は幸せに飢えていた。愛に飢えていた。いっそ、どうしようも無い束縛女に好かれて、愛されたまま殺されたいとさえ願った。人に愛されるのはこの上ない喜びだと信じていた。


 そして、そんな私を愛してくれる人が出来た。時は流れ、高校二年の夏である。しかし、私は全くその人のことが好きではなく、ただ愛を埋める存在として、友人として関係を留め置いていた。


 ある日のことである。私のもとに、一本の電話が入った。その友人からの電話である。友人は精神を病んでいたらしく、自殺をすると言い放った。私のラインの画面には、既に完成した首吊りのロープの写真が届いていた。すぐに助けに向かった。鍵の掛かっていないアパートのドアを開けると、友人がまだ生きていることを確認できた。私は数時間に及ぶ啼泣を慰め通し、友人を救うべく説き伏せた。友人の悲傷が治ることはなく、私は夜通し話をした。友人は私に、一緒に死んでくれ、と頼み込んだ。そして、私を殺そうともした。かと思うと、生きても良いと言ってくれもした。ただその条件は、私が友人と付き合うことだった。私にとっては、かつて心の底から願ったことであった。私を愛してくれる人と死ぬ。あるいは、私を無償で愛してくれる人と全ての時間を過ごす。しかし、何故か私には、その友人を好きになることが出来なかった。


 恐らくそれは、私のタイプの問題などもあったのだろう。仮に絶世の美女に愛されていたら、コロッと心中していたかもしれない。しかし、自分に愛せない人がいるという事実が判明したのは、とても大きな問題だった。十七歳の夏、私は人に愛される気持ち悪さを知った。


   **


 友人と、ある程度の距離を置けるようになるまで、少しばかりの苦労を重ねたが、そんなことは些細なことだった。誰かに愛されたい、しかしどうやら自分は誰彼構わず愛されたいというわけではないらしい。しかし、自分が愛したい人が出来たとする。そこで私から愛してしまうと、相手は――友人に愛された私のように――気持ち悪さを抱いてしまうかもしれない。好きな人にそんな感情を抱かせてはならない。その葛藤が、私を常に苛んでいた。


 結局答えが出ないまま、数年が経った。荒んだ青年に成り果てた私は、十四歳のときに喪った愛を全く取り戻せないままでいた。進路が問われる歳である。将来の夢は、幸せな家庭を築くこと。しかし、自分の未来の青写真は、メランコリックなブルーに染まり続けていた。


 そんな矢先の、祖父と大伯母の死だ。祖父――母方の祖父、つまり祖母の夫だ――はもちろん祖母と一緒に私を愛してくれていたし、大伯母は私の家から歩いて三分のところに住んでいたものだから、あたかも自分の孫であるかのように可愛がってくれていた。その愛は、二つとも消えた。


 祖母が亡くなり、祖父が亡くなり、大伯母が亡くなり、私の家には遺影が置かれている。もちろん、母のリビングに、だ。そういえば、父は病気を患い、仕事を辞めた。少し身体が回復した今は週に数日は働きに出ているが、万全ではない。母も今は、収入を埋めるために仕事を始めている。夕飯を、母のリビングで一人食べるとき、もちろん遺影に見守られながらであるが、ふと思うことがある。私に残された愛は、あと何個あるだろう。


 不安だ。毎日が、ただただ不安だ。もし残りの家族を喪うようなことがあれば、私は壊れてしまうだろう。だから、常に自分を落ち着かせている。それでもやはり、そんな最悪の未来が脳内に明滅する。そして、まだ元気な家族にそういう想像をしてしまう自分が、たまらなく嫌になる。


 彼女でも出来れば、あるいは自分が家族を作れることが確かになれば、気持ちの少しでも晴れるだろう。しかし、私には高二から抱え続けている葛藤がある。それに、こんなに愛が重く膨れ上がってしまった私を、気楽に支えてくれる人は、そう簡単には見つからない。


   **


 これが私の愁いだ。嘆きだ。


 愁いという字は、なんとよく出来ていることだろうか。哀惜を担う秋という季節の下につく部首は、したごごろなのだ。秋の心は愁いだと、この字自体が叫んでいる。思えば、人生の晴れ舞台は春に訪れる。秋とは対極の季節に、青春は訪れる。私の人生の春は、いつ来るのだろうか。早く桜の向こうの蒼茫たる空に、快哉を、叫ばせてくれ。


 読者諸君に告ぐ。もし、私の愁いを解決してくれるような聡明な考えが浮かんだら、私に教えて欲しい。この文章を書いているのは、もしかしたら、これを読んでいる誰かが、私の悩みを解決してくれるのではないか、という淡い期待を抱いているからでもある。


 そう、この文章こそが、私の秋の下心。愁いを載せた、愁ではないもう一つの秋の下心である。秋の陽は落ちるのが早い。夜がやって来る前に、誰か私に答えを教えて欲しい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


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