色と光とリトル・マーメイド
14話目です!
人魚姫に憧れるOLの話です。
神は「光あれ」と言われた。
天地開闢から幾億年、その後生命誕生から幾億年。最初のご先祖様から私まで、遥々何代を経てきたかなんて、皆目見当も付かない。でも私が次の世代にバトンを渡せる自信は、正直ない。5年連れ添った彼氏と別れてまだ一ヶ月、もはや涙すらすっからかんの28歳OLの耳には、「婚期」なんて言葉は入ってこない。ごめんなさい、ご先祖様。私はどうやら出来損ないの生き物のようです。ただの独り身ならまだ良かった。ここ最近の私をより憂鬱にさせていたのは、私を好いてくれているらしい別の殿方が存在することだった。しかし厄介なのは、私が、その方が誰かを全く知らないことである。畢竟は、ストーカー。それが、私が知る彼の唯一の属性なのである。
その晩、私は自分の体がアルコールに弱いことなんて忘れてしまって、「ヤケ酒」なるものを試してみていた。案の定、酔った。世界が回り、千鳥足。いや、千鳥足ならまだ良かったかもしれない。しっかりと歩けていたかどうかさえ、憶えていない。しかし、そんな酔いも吹き飛ばしてしまうような鮮烈な出来事が起きたのも、あの晩であった。
意識が冴えてきたとき、私の目の前に居たのは、如何にも魔女というような格好をし、でも身体つきは男性らしさに充ち満ちている、怪しさ全開の人物だった。服装に加えて怪しさを際立たせていた極め付けは、彼がつけていた仮面である。オペラ座の怪人かよ。私は心の中でそう思わず突っ込んでしまったが、それと同時に、そのようなことを考える余裕がまだあったことに、少し安心した。しかし、その余裕は逃避の一角だったのだろう。私の身体は徐々に恐怖に固まっていく。彼が声を発そうとした時には、もう私の芯は金縛りにあっていた。
「まあ、そんな怖がらずに。この格好は、様式美ですよ。美しい姫をお迎えするためのね」
男の声は、低く落ち着きがあって、どこか安心感を覚えるものであった。顔が一瞬ほぐれた私を見逃さなかった彼は、少し勝ち誇ったように、二言目を続けた。
「そう、あなたは姫。暗く冷たい水底に落ちている人魚姫。そして私があなたの望みを叶える魔女というわけです。あなたの望みはなんでしょうか」
「彼氏が……欲しい……」
こんな時ですら脊髄反射のごとく願いを口にしまったのは、一ヶ月泣いてきた夜毎、このフレーズが私の口内に馴染みすぎてしまったからだろう。彼の唇が三たび開く。
「姫の御意の儘に。代償は大したことはありません。色です。赤・緑・青、喪う色は何が良いでしょう」
「青……」
憂鬱なブルーは、もうこりごりだった。
**
朝、自分の部屋で目覚めた私がまず覚えたのは、焦燥感だった。なにせ、カーテンの奥に見えたのは綺麗な夕焼けだったからだ。しかし、目覚まし時計が鳴り出して、今がまだ朝であることを知る。ベルの音が頭を晴らす。明晰になった私の頭脳が導き出した結論はひとつ、昨夜のアレは現実で、空は青を喪った。
会社まで出てきて、どうやら私が「青」を感じなくなっただけであることに気付いた。そして私の目は、青を他の自然な色に変換してくれているらしく、日常生活に致命的な影響はなかった。お昼休み、赤いマークの男性用トイレに間違えて入ってしまったが、それもなんとかバレずに済んだ。ったく、この御時世なんだから、赤・青に塗り分けるのはやめて両方黒に染めとけっつーの! とはいえ、トラブルと言えるトラブルもそれぐらいだ。先刻のプレゼンも上手くいった。これなら我が部署ご自慢のハイスペック王子を倒して営業成績一位も戴きかもしれない。
そんなお花畑にいた私は、三ヶ月後の今、菊の花に囲まれている。退職願、それはOLにとっては死亡届だ。私はこれを書いて提出しないといけないらしい。青を喪ってから小さなミスを繰り返してきた私に訪れた、当然の結末だった。
これで彼とも御破算である。そう、あの魔女風ファントムはペテンではなく、私にはちゃんと彼氏が出来ていた。相手は弊部署の王子。彼との一冬は、本当に幸せだった。
この幸せを手放したくはない。再び眼前に現れた魔女に縋って、私は復職を願った。緑を喪っても、愛の赤は譲りたくない。
**
この前と違って、赤だけの世界というものは、想像以上に辛かった。例によって復職は叶ったが、すぐにまいって職場で倒れてしまった。しかし、さすがの王子である。彼は息抜きにと、私をデートに誘ってくれた。
生来、人間というのは水を見ると落ち着くのだろう。我々は海から生まれた。先祖もそうであろうし、私たち自身も母親のお腹の中で、愛に泳いでいたはずだ。王子が考えた完璧なデート・スポットは、当然水族館だった。
彼は私の体調を気遣って、水族館の目玉らしい大きな水槽の前の、開けたところに移動した。そして流れるように私をベンチに促した。
魚たち、綺麗だね。ちょっと落ち着いた? 僕は少しドキドキしてきたなあ。君と付き合ってしばらく経つのに、まだ慣れないや。魚に囲まれて、君はさしずめ人魚姫……ごめん、キザすぎた。
人魚姫。頭の中にあいつがよぎる。あのファントムだ。いくら願ったとて結局、この状態では幸せになんてなれない。もちろん、幸福を目の前にチラつかされ、飛びついてしまったのが悪いのは分かっている。しかし、この水族館でさえ、今となっては血の海だ。私はパニックになって咄嗟に彼を突き飛ばし、建物の外に逃げ出した。
あの怪人は、都合良くそこに居た。そして、こう囁く。
「人魚姫は『音』を喪って幸せを手に入れたんだ。『色』では釣り合いが取れないだろう。幸せになりたいのならば、『光』を捧げな」
**
盲目になった私に、また彼氏が出来た。彼氏は優しいやつで、日々こんな私のサポートをしてくれる。結局仕事は続けられなくなったが、生活に不自由はしていない。労働時間はそんなに長くない割に、彼の稼ぎには余裕があるらしい。私は彼の恩恵に預かりきっている。
「なんで私にそんな優しくしてくれるの?」
愛しい彼の顔すら見えない私はある日、常々抱いていた疑問を何気なくぶつけてみた。彼は、魅力的な低く落ち着いた声でこう答えた。
「僕が優しいって? 当たり前だよ。漸く手に入れたんだもの。僕の綺麗なお姫様」
神はその光を見て、良しとされた。
光を喪った姫を手中にしたその男の顔は酷くただれていて、夕闇のごとく不気味を放っていた。
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