赤と左とコンフリクト
13話目です!
好きになった女性とサークル活動について思惟を巡らす男子大学生の話です。
燈が三浦彩都子と出逢ったのは、佐季乃と別れてから一月も経たない晩のことだった。勿論、燈が佐季乃の重たさに辟易していたのは事実だし、嫌気がさして振ってやったことに彼は後悔もしていない。しかし、押し売りのような愛を喪ってからというものの、自分を肯定してくれる存在を茫漠と求め続けていたこともまた、燈には否定できなかった。その晩もまた、この間までなら佐季乃とディナーにでも行っていたのに、なんて哀しみを、いや僕は勉強をしなくてはいけないんだ、という義務感でもって心の片隅へと追いやるために、大学の図書館に足を向けていたのだった。そして、そのいじましい忘却の努力を踏みにじるかのように襲いかかってくる、閲覧室の仕切りが見せつける孤独の空虚を振り払うように、燈は閉館を前に学食へと移動した。しかしおひとり様の食事では、近くでワイワイとはしゃぐ学生たちが眩しく見えるだけで、いくら周りに人がいても、心の隙間が埋まったりはしない。そんなとき、燈の目に留まったのが、三浦彩都子である。彼女もまた騒ぐ学生たちを独り眺めていたが、燈とは違って羨望の眼差しを向けていたわけではなく、何処か落ち込んでいるようなふうで、ただぼんやりと彼らを見つめていた。
「相席よろしいですか」
興味を持ったままに声をかけたのは、燈だ。自分と同じ一人の彼女に親近感を覚えたのか、眼差しの理由が気になったのか、それとも中学の頃付き合っていた凪に少し彼女の髪型が似ていたからか、その興味の理由は彼の胸中にも判らないことだったのだろうが、とにかく、燈は彩都子の前に腰を降ろした。
「相席……。これ、受け取ってくれるなら良いですよ」
彩都子はぶっきらぼうにビラを差し出した。この一連の雰囲気が、彼女が落ち込んでいた理由を描き出しているようだった。
「サークルの仕事で、今日中にノルマを配らないといけなくて。でも、突然こんなものを渡されたって要らないですよね。スポーツの試合とかならまだしも、政治について議論する集まりなんて、危ない匂いもしますし」
政策討議会、そのビラの見出しは政治学部の周りではよく見かけるもので、かといってビラを受け取る人は確かに少なそうなもので、燈も首肯する。
「なるほど。これを配りきるのは大変そうだな。でも、最初から人が大勢来るのも想定していないやつでしょ。俺が行くってことで許して貰えたりしないかな」
ただの同意に一言付け加えてしまったのは燈の癖で、でもそこに、何か新しいことを始めたいという彼の想いが作用していたのは事実である。少し疲れていた彩都子の顔は一気に綻んで、笑顔でサークルの説明を始めた。勉強しなくてはいけないと思っていた燈である。政治系のサークルに勧誘されたのは、渡りに船だった。かくして二人は、ウィン・ウィンの関係になる。学食を追い出される頃にはすっかりと意気投合していて、今の日本は向上心を失っている、だとか、医療と教育は金策を練らないと衰退するのではないか、とか、そんなようなことを駅で別れるまで語らいあった。
そこからの燈の生活は、まさに一変という言葉がお似合いで、一週間後の討議会でサークルに加入、政治の授業には熱心に出席するようになり、なにより彩都子との関係も上々だった。二人で映画を観に行ったその帰り、予備校の広告を見ながら燈は、まるで昔通信教育の宣伝マンガで読んだようなサクセスストーリーだな、と自分の生活に笑っていた。事実は小説よりも奇なり。バイロンが書いた文句は、クリスマスを控える燈に、期待の青写真を現像させていた。
ある日のサークルで、燈が持たされたのは、赤いペンキだった。幹部の先輩から、「今度デモに参加しようと思って、これはその宣伝パネル」との説明を受ける。事実は小説よりも奇なり。布石や伏線なんてどこへやら。燈は俄にサークルに滲む危うさを嗅ぎ分けた。政治家や官僚は、大学時代に政策を分析するゼミで人脈を築いているのだという。燈はサークルを、そんなような活動だと考えていた。事実、サークルでは保守だの革新だのの色を帯びた活動はなかったし、みんなで日本の未来についてただ語り合っていたつもりだった。しかし、目の前にあるのは赤いペンキである。燈は、とりあえず何も考えように自分の心を言い包めて、看板を赤に染め上げた。先輩は、黄色いペンキで文字を入れていた。立てた看板は木組みが甘くて、少し左へ傾いていた。
帰りに彩都子を夕食に誘って、燈は確認する。
「今日のアレ、うちってそういうサークルだったっけ」
「うーん、先輩がそういう感じなのは何となく知っていたけど、サークルは、そんなことないと思う」
彩都子は、自信がなさそうに否定してみせるが、燈との会話は進んでいく。
「ねえ、やばくなる前にサークルを抜けないか。デモとかノリで参加して、警察に目を付けられるのとか面倒だよ」
「でも、私はサークル以外なんもしてないし、今までお世話になってきたのに悪いし」
燈は、上京してきたばかりの頃に勢いでサークルに入った彩都子が、他にコミュニティを持てずにサークルを拠り所にしていることを知っていた。それだけに彼女をサークルから引き剥がすことに躊躇いを覚えたのだが、同時に、危険な活動から彼女を引き戻してやれるのが自分しか居ないということには、不確かな確信を抱いていた。そんな夜である。燈は、彩都子との関係を深めることを決意した。自分が、サークルに代わる拠り所になれれば。そんな使命感に酔い始めた燈だったが、彩都子との距離を詰めようと考えるとチラつく思いもある。佐季乃は重い彼女だった。彩都子にとって、重い存在になってはいけない。
「なあ、この後空いているの」
とはいえ、デートに連れて行くくらいは問題なかろうと高を括って腹を括って、食後の散歩へと誘った。恵比寿での夕食である。あんまり行ったことない辺りも歩いて見ようぜと、まずは品川に移動する。ほら、こっちに人が多そうだよ、なんて知らないふりをして歩みを進めて、気がつけば夜まで営業している水族館だ。彩都子は、終始嬉そうだった。燈は、幼馴染の悠彰が言っていた「水族館に寿司屋を作れば儲かると思うんだよなぁ」なんて冗談は胸にしまって、夜の水面に浮かぶ幻想的な魚たちを彩都子と観て回った。一転してデートムードの二人である。恵比寿に戻ってイルミネーションを前にしても、その熱が冷めることは無かった。燈は、今まで曖昧だった彩都子との関係を明瞭にすることを改めて決めた。電飾の光は、二人の影をはっきりと映し出している。彩都子の影法師は、頭を縦に振った。
愛を翳して彩都子から政治活動を引き離すことは正しいのかどうか、それからというもの燈は四六時中思索にふけっていた。自分とくっつくことが彩都子にとって幸せだなんて盲信して、元から入っていたサークルを辞めさせるなんて、偽善ではないのか。しかし、急進的な政治デモで停学や退学になった先輩も居ると聞く。彩都子には、そんなことになって欲しくない。いや、「そんなこと」と思うことさえ、僕の独り善がりな考えではないのか。活動をしている人たちにだって誇りはある。もしそれを無視して自分が彩都子と円満に過ごしたいだけで何かをしようとしているのなら、その愛は、佐季乃より重いものに成り果てるかもしれない。燈に答えは出せなかった。一人で出ない答えは、二人で出すしかない。燈は彩都子をデートに誘った。付き合ってからは、初めてのデートにだ。
左傾したあの看板を塗った赤いペンキは、燈の左胸を駆け巡る情熱へと蒸留されている。彩都子が持つ「左に宿る赤」が、赤いペンキのままになるのか、燈へと迸る血脈に変化するのかはわからない。彼女と彼の行く末がこのデートに左右されているのは、恐らく確実なのだろう。
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