色と油とエマルジヨン
1作品目です!
美術部の部長に恋をする男子高校生の話です。
僕が春先に三階の奥の美術室を覗き込んで、あの場面が眼前に広がったというのは全くの偶然であるし、完全無欠の僥倖なのだった。あの日、君は当たり前のように油彩画を書いていて、僕はその緻密な絵に、けれどどこか彩りが歪な絵に、頭のてっぺんから足の先まで取り込まれていったのだ。
その頃の僕といえば、文化祭のステージ班チーフになったからだとか、成績が低迷しているからだとか理由を付けて、サッカー部から逃れたばかりであった。それで無聊を託つことを快いとまで思っていたというのに、僕は俄かに、美術部と書かれた一葉の入部届を掲げた。
――春色。
高校の美術部は零細で、三年生たちが早々と引退を決め込んだ後、部屋は君の領土だった。そして、今は僕と君の二人の人間が、絵具まみれのフローリングを歩く。それでも僕は君と二人きりで居られる享楽に甘んじることができず、強慾にも君に話しかけて、仲良くなろうと画策するのだった。
幸か不幸か、僕に絵の才能はあまりなかった。そこから僕は、努力を努力で塗り重ね、急激に美術の実力を伸ばしていく。君は僕のそんな過程を、手取り足取り教えてくれた。僕は君にとって、放課後に絵を考える時間を共有してくれるありがたい存在でしかなかったが、それでも会話と会話の積み重ねで、僕と君の距離は確実に縮まった。
校庭には、大きな桜の木が学校のシンボル然として植わっていた。僕の絵が最低限なものになった頃、花が散り始めたその木を二人で描いてみようとなった。僕のキャンバスには、慎重な桜色の斑点が散りばめられていった。そんな僕を置いていくようにして、君のキャンバスは鼠色の水玉で埋められた。
――碧色。
僕と君の美術室は、新入生を迎えて随分と騒がしくなった。君は絵を教えるのに凝ってきたとみえて、毎日えくぼを作っていた。もちろん僕も君に絵を教わったし、僕が少しの先輩として絵の学び方を伝えることもあった。
そして今年は珍しく人数が増えたとかで、夏に合宿が行われる運びになった。顧問の美術教諭は、昔は毎年のように行っていたんだけどね、と地図に書かれた海辺の一箇所を指差した。
あの日々は、今も生き生きとした映像として、僕の脳を駆け巡る。バスが寄った道の駅で食べた海鮮丼に、夜中、先生に見つからぬようこっそりと抜け出してした花火に、まだ眠いと目を擦る君の顔に、僕の青春は溶けていった。
そして、最も青い思い出が、君と岸辺に並んでした、碧海のスケッチだった。油彩でスケッチをする君に見惚れながら、僕のキャンバスは白と青の二色に分かれていった。どこまでも広がる大海原に、照りつける太陽を支える青空、そして遠くにのぼる入道雲。いつまでも夏であるその世界は、僕にとっては本当に青でしかなかった。それでも、君の描く海はどこかくすんでいて、まだ夕陽が落ちるのには早いのというのに、どこか赤みがかっているような気もして、僕はまた君に惹かれていくのだった。
――紅色。
天高く馬肥ゆるといわれる秋が訪れて、僕たちは紅葉の写生に向かった。麓の駅からロープウェイで崖を越え、美術部一行は山頂のベンチに腰を落ち着かせた。
僕は鞄から赤と黄色の絵具を出そうとして、先に幹を塗るかと思い留まり、ふとその逡巡に昔描いた桜の絵を思い出した。
「あの灰色は、雪桜でもイメージしていたの」
僕が何気なく問いかけると、君は山々の赤を映すように頰を染めて照れた。そして、沈黙した。君は葉緑を思わせる色をこしらえて、キャンバスに筆を置いた。照れの中に、不安も見え隠れしているようで、緑を塗っている間、君はずっと寂しい目をしていた。その表情は僕に訴えかけているようでもあって、僕に君への恋を改めて認識させた。僕は想いを告げようと決心した。
――銀色。
師走になると、あちらこちらで恋慕の情が走り出す。僕も負けじと、君に告白するその日を迎えた。終業式も近づいた美術室で、僕は君と二人きりになった。
君が好きだ。君の絵の彩りが好きで、それを描く君自身が好きだ。
想いを言い放った。正確にどんな言葉で言ったかは、緊張していたために憶えていない。それでも、君の返事の言葉は一言一句違うことなく憶えている。
「彩りが好きっていう期待には答えられないな。実は、私、色盲なの」
盲点だった。君の絵は、君がみている世界をありのままに描いたものだった。だから君の絵は、もののかたちが丁寧で、ものの色がひずんでいたのである。君が見ている世界は、澄んだ水の世界ではなく、君が愛している油絵具のように濁った世界だったということか。
「あなたが見ている世界との間には、境界があるの」
君はそう言い加えた。
――乳白色。
エマルジョンという言葉がある。水と油とが別の存在を介して混ざり合うことがあって、その液体を指している。僕は、君を水の世界へと誘うことにした。繁華街や電飾で飾られたオブジェに人々が集まる聖なる前夜、僕は君を雪に覆われた公園に連れ出した。
乳白色の雪原には、ただ一本、もみの木が聳えていた。こういう場所も趣深くて良いね、と君は僕に微笑みかけた。僕は、それに返事を言う代わりに、小包を取り出した。
プレゼントを手渡された君が包装紙を開けると、中には眼鏡が一つ存在していた。僕は君に言う。これをかけると、色が、本当の色が見えるんだって。
君は、僕と、僕がめかし込んだクリスマス色の服とを交互に見て、涙をこぼした。そうして数分が経って、君はようやく少し笑って、口を開いた。
「こんな真っ白の原っぱじゃ、色が変わったの、見えてこないよ、ばか」
辺り一面のキャンバスは真っ白で、その白は僕も君も同じで、踏みしめると、これからの色彩を予感して、キュッと音を奏でるのだった。
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