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翼を溶かしながら飛べ(最終章)  作者: 葩谷 楽文
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-精油と思索の反転-



 蝟集(いしゅう)した緊急車両よりももっと遠くから4つの目が巨大な飛行機を見つめていた。

『クピドー様に言われました―』イカロスは上下する肩を鎮めるために深呼吸し、神妙な顔をした。『小生がこんなことをできるなんて――』声は微かに湿っている。

『見事だ』

『夢にも思いませんでした。クピドー様のおかげです。小生が間違っていました』

『さすがだったよ。イカロス―』

 イカロスの背中をぽんぽんと叩くと、イカロスは、はにかんでみせた。

『まさか……夢にも思いませんでした』

 メフィストは彼の背中から手を離す。

『この私が、なぜ気づかなかったのか聞かないのか? 私としたことが――』

淫魔として卑俗な存在に思われがちだが、メフィストら一家が代々不死の彼を下僕として選んだのは他でもない――影ながらの彼の教養と魔力の高さだった。人智を越えた大擾乱(ハボック)には、切れ味鋭い思想と回転からの助言が不可欠だ。言葉をしっかりと操り、暗躍しメフィストの行いを正しく評価できる。そんな悪魔はどこを探してもいなかった。

『聞いてもいいのでしょうか』

『……正直私にも分からない。これだけの霊的な猛威をなぜ私が感じられなかったのか……理由がおもいあたらない……理由が』

 どんなに呆けた悪魔であったとしても、閻浮提(げかい)であれだけの死の(わざわい)を起こそうとする同類の存在に気づけないわけがない。メフィストは自分の両掌を見つめながら考えを巡らせた―。「理由」……「理由」……「理由」……。そのときシスター・バートウィッスルの顔が浮かんだ。そうか……そういうことか……。

『メフィスト様は昔、小生にこう教えてくれました―《自分を欺かず、卑下せず、できるだけいつも誰かを楽しませる、ということが幸せになるコツだ》と。あの言葉、そうなんです、あの言葉を聞いてから、いつでもお道化て生きてみよう。そう決めたんですよ』

彼は自分の頭と樽みたいなお腹をさすって感慨深げに笑った。『見てください!』メフィストの意識を目の前に向けさせる。

『ほら、あの2人。きっと、これから幸せになりますね』

『ああ』

 遠くで橙夏と青年が救急車で運ばれながらお互いの指を握り合っているのが見える。

『謝らなければいけません……。小生は夢物語だと思っていました。しかし、違ったようです……』予告めいた低い声で苦笑する。

 メフィストの心中を察してか、彼は返事を要求することなく、メフィストの心を代弁するような寄り添う口調で予言した。

『誠の恋―それは誰にも定義できず、条件で縛り付けるくらいなら定義なんていうのは品と優雅さに欠けた箇所ですが―をするものはみなバカップルなんです』

 メフィストは思いがけない言葉にふっと短く笑った。

 人間の歴史に思いを馳せるようにして彼は天に手の平を向けた。雨が降っているかどうか確認するようなポーズだ。上空の星の瞬きとおなじくらい、彼の横顔は神々しく、そして眸には並々ならぬ強い意志が感じられた。

 失敗でもいい。また次の機会まで待てばいい。しかし、彼女と別れたくない―。

 メフィストは暗闇の中に溶け込むようにその場から消えて行った。メフィストもまた、橙夏のように、この光を失った暗闇に自分の特異性を見つけたもうひとりだったのかもしれない。


 脱線事故から8時間後。

森川泰世はさいたま市北区のおおみや中央病院の喫煙室にひとりでいた。

玄関と廊下の非常灯のみの院中では、喫煙室の自動販売機の灯さえ消えている。住宅密集地や商業地に電気を供給している配電用変電所のスイッチを優先的に切っていくため、消防署や救急病院などの公共性や人命を預かる施設は、辛うじて明かりがついていた。それでも頼りなく、弱弱しいことには相違ない。自家発電機も利用しているようだが、なるべく電力を温存しようと、廊下の電気は数か所ついているだけで、医師や看護師たちは懐中電灯で足元を照らしながら戦々恐々と病室を移動していた。

病院の周りではロウソクの火や懐中電灯、ランタンなどの灯がちらちらと見え隠れしている。子供の泣き声や女性の悲鳴、怒号、パーティーかのような嬌声をあげる若者たち―。都市全体だけではなく人間までも麻痺しているかのようだ。

 通常、鉄道や大病院、大規模ビルや超高層マンションなどの大電力を必要する施設は 二次変電所が高圧で電気を直接供給している。電力会社では、よほどのことのないかぎり二次変電所のスイッチをきるようなことはしない。しかし、火力発電所が損壊したことを知っている泰世は数時間後を想像すると寒気がした。夜が明けてからの関東一帯の大混乱が手に取るように分かったのだ。

携帯電話を強く握りしめて、胸騒ぎを鎮めるため、心ここにあらずで肺と血液にニコチンを送る。

病院から実家に連絡があったのが8時間前。泰世が花巻の家を不在の中、泰平が運ばれた病院まで足の悪い母を妻の緑が車で連れてきている最中だ。時々、携帯電話で連絡を取り合うなかで、閉鎖中の道路の情報を緑に伝えた。

 通常、新花巻周辺から大宮まで車で6時間ほどかかる。だが、東北自動車道と北関東自動車道が交わる岩舟JCTから奧の東北道は閉鎖中だ。県道と国道を利用しながら病院に向かっているという話だった。おそらく8時間ほどはかかるので、もうそろそろ到着するころだ。

 ピピピピピ! 

緑の車の到着を知らせる着信音だ。「もしもし」彼女は落ち着かせようと必死な声で到着した旨と泰世の現在位置を聞いてきた。


 東京駅18時20分発の秋田新幹線「こまち」31号はさいたま新都心と大宮の間で電力系統の大損害により、数十メートル逸走ののち脱線。そのまま転覆し未曾有の大惨事となった。

 最も近いおおみや中央病院の待合室からは椅子が撤去され、医師や看護師たちは、雪崩込んでくる人波に流されそうになりながらの応急措置に追われていた。

 奇跡的なことは、あれだけの転覆事故に遭いながらもクッション性の高い座席のおかげでほとんどの乗客が切り傷やねんざ、打撲などの軽傷で済んだことだった。

 ところが、妙な現象が起きた。気絶して運ばれてきた人々が口にした言葉だ。

「翼をもった神……が、見えた」

空言の意味を図りかねた医師たちの関心は薄かった。なぜなら、負傷者の身体を触診と、希望者には超音波やPET検査を用いて多くの患者を診断することで多忙を極めていたからだった。

夜中の3時前の緊急病棟は電子音以外物音ひとつ聞こえず静まりかえっていた。さきほどまでの大混乱が嘘のようだ。


泰世がちょうど3階に着いたときには、緊急治療室のランプが消滅していた。執刀医の胸ぐらを掴む勢いで小走りで向かった。すぐに画像を見せながら説明をするらしく、診断室に案内された。

執刀医の話では、急性肺血栓塞栓症、という下肢の深部静脈で長時間の同じ姿勢により血液が固まり血栓ができた後、急に立ち上がったなど姿勢を変えると、血栓が血液の流れに乗って移動し肺動脈を閉塞するという疾患らしかった。いわゆる「エコノミークラス症候群」のひとつらしい。

説明を聞きながら、聞き慣れた名前が出てきたこともあり、安堵のため息を泰世はついた。エコノミー症候群で突然死したなどという話を聞いたことがなかったからだ。無理に笑おうとして、頬のあたりが痙攣したぐらいだった。そのひきつった笑顔は長くは続かなかった。

担当医の説明は続いた。運ばれた時には四肢の組織は既に壊死状態にあった。大量の飲酒により脱水状態となり、しかも酩酊状態のため衝撃の時に受け身をとれなかったせいで、脚がありえない角度で椅子の下に挟まってしまった。

手術が開始されたとき、泰平は心肺停止状態だった―。よって予定されていた手術よりも蘇生に時間を費やした。一度は心肺が蘇生するも、すぐに停止。蘇生と停止をその後数回繰り返したという。

「弟様は致死的血管疾患です。普通なら手術で助かることの方が多いのですが―」

 執刀医は奥歯に物が挟まったような言い方で説明しようとした。

「血液から大量のアルコールと頭痛薬が検出されました」

 泰世の感情の海原に、不吉な波が一気に押し寄せてきた―。

それから先、泰世の記憶はとぎれとぎれになった。薄暗い廊下をふらふらと徘徊した記憶も、階段を降りてきた記憶も、角をいくつか曲がった記憶も、看護師にぶつかって懐中電灯が転がっていく光景の記憶も、たばこに火をつけた記憶すらない。あるのは、耳に残る愛妻の声だけだった。それだけが現実につなぎとめてくれた。

 そしてもうひとつ。杉並に電話をかける。火力発電所の復旧はどれだけの時間を要するのだろうか、という問いが泰世を現実に引き戻した。夜中だが、ただ事では済まされない事態になっているはずだった。10コールしても出ずに、泰世は仕方なく電話を切った―。


「あなた!」突然呼ばれて、全身の毛が逆立った。振り向くと、母を後ろから支えるようにしてこっちを緑がすがるような目で見つめている。

「おふくろ……」

 二の句がつげないでいると、母の泰未(たいみ)がぼそりと、しかし確信を持った口調で訊ねた。

「んで、お医者さんな、なんて語っとる」

 呼吸がうまくできない泰世は胸を押さえながら、言いたくもない、聞かせたくもない言葉を言う準備をした。

「おふくろ、落ち着いて聞いてくれ……泰平な……もぅ……」

「もう無理なのはわかっとるよ。さっき車でおまえの嫁っ子の緑さんとここまで来るとき、現れたべ。泰平が。笑っとった……」

「縁起でもないこと言うなって……」

「あんな笑顔は子供のとき以来だったから、うれしくてうれしくて」

 腰の折れた老女は長男の肩にそっと手をのせた。

 目から堰を切ったように涙が溢れてきた。考えたことがなかった。覚悟したことがなかった。自分より先に弟が死ぬなんてことを。最後の会話はあれでよかったのだろうか―。

止まらない涙は少年のように無垢なまま、病院の床に落ちていく―。どれぐらい泣いていただろうか。緑は静かに夫の肩を抱き、自らも夫の肩で泣いた。それから3人で担当医の3階まで階段で上がった。家族が集まったことを知らせると、もう一度泰世に説明したことと同じ事を3人で聞いた。ハンカチで涙を抑える泰世以外の2人は黙って医者の説明を聞いた。

「もう、ご自分で、呼吸することは、困難な状態となりました……」

 つっかえながら担当医が言う。

「呼吸器で、無理に、呼吸させている状態です。お別れのご挨拶を……ご案内いたします」

 画面から目を離し、椅子から立ち上がると、3人は黙ってついていく。病室の前で備え付けの消毒スプレーで手を殺菌してから、強い消毒液の匂いがする病室へと入っていった。

 ベッドの脇のモニターのアラームは断続的に鳴り続けていた―。

無機質なそのモニターでは、血圧の数値は上も下も低いばかりか、呼吸の波はほとんど隆起していない。病室の漂白されたような白い壁を背景に、弟は苦しそうに呼吸を強いられながら横たわっていた。

ベッドに行こうとした緑を泰世が止める―。

死に行く人間の匂いとはなぜにここまで独特なのだろうか。無味無臭というわけでもなく、バスタオルの生乾きのような匂いと、身体の口という口から滲み出てくる体液の匂い、そしてリネンの強烈な消毒された匂いが混じって、まだこの後の人生を生きなければならない人間たちを圧倒する。

 泰未はモニターの傍に寄ると、息子の顔ではなく、しばらくモニターを見つめた。息子が生きている最後の証を確認しているかのように、モニターを撫でた。震えている手からは血管が浮き出て、我が子を最初に抱いた時からの年月を語っているかのようだ。

それから、死に行く息子を静かに見つめた。取り乱すことなくぼそっと言う。

「わたしは呪われているのね。きっと」

 涙がぽつりと乾いた肌をつたった―。それから、ゆっくりと入口のあたりの廊下でたたずむもうひとりの息子に向かって言った。

「お兄ちゃん、明日死なせてくれないが? いますぐでなくていいんだよ。 明日でいいんだ。明後日でもいい。死なせておくれ」

 何を口にしたらいいのかわからず、泰世は自分の崩壊間際の心を守るために、冗談だと思うことにして薄く笑った。

 その時、医師と看護師が部屋に入ってきた。

「この子が助かるんなら、いますぐ死なせてください!」

 泰未は、額からの汗をそのままに涙を流しながら、しかし嗚咽に負けることなくしっかりとした口調で嘆願した。

「わたしが悪いんです。この子は、この子は何も悪いことはしてない……何も悪くない。誰かがこの子が悪いから命ば奪ったのなら、わたしはそいつの目ん玉をひんむいてやりますよ……いつもわたしの膝の上に座っていたんです―」

息子の青白い手の甲をさすりながら、腰をかがめた。親子の顔が目と鼻の先の距離になると、呼吸の波が気のせいかもしれないが一段と隆起したように泰世と緑には見えた。

「よく、がんばったね。えらいよ、泰平。どうしてね? 起きたら朝ごはん一緒に食べようね。泰平の好きな味噌汁作って、裏の畑からとったきゅうりは浅漬けにしてあるから、食べようね」

 そこに居合わせた一同が一斉に咽び泣かずにはいられなかった。

「無理してきたんですよ、先生。わたしの膝の上を離れてから、この子はずっと所在なさげでした。不安な目をしていつもわたしを覗き込んでいました。今もそんな顔している。子供の時に、ぼそっと言ったんですよ。『大きくなったら僕がお母さんを守るから』わたしは笑いました。すると、この子が怒ったんです。敏感な子なんです……」

 今度は足の方に回って生白い足をさすり、それから丁寧に脚の指を一本一本もみほぐした。

「泰平……お母さんの時間あげるから、帰っておいで。上京する時にあんた何言ったか覚えてるね? 『オレは、ただ母さんのために生きているだけ。でもそれで十分だって』」

 廊下から足音が聞こえる。

「あのときみたいに、もう一度神様は奇蹟を起こしてくれたら……もしそうしてくれたら、いますぐお母さんは死んでもいいんよ……」

―どれくらいの沈黙は続いただろうか。モニターの動きを静かに見つめて、それから泰未は一言も喋らなかった。

 泰未がカーテンを開けると、窓から差し込む東の空から昇り始めた陽光は青白い顔をあますことなく照らした。


【現在からの使者】がこの世を後にした7時間前―。

東京23区は転覆していた。救急車両のサイレンが鳴り響く。耳を塞ぎたくなるくらいの鋭くえぐるような音だった。

そんな騒然たるサイレンの渦中に亜望もいた。

茅場町の自宅マンションから緊急搬送された東京中央区総合病院は、さいたま新都心―大宮間で起きた新幹線脱線事故、全日航空緊急着陸が原因での負傷者など、多くの既に重軽傷の患者でひしめき合っていた。病院入口のはるか先から行列ができており、入口でメディカアシスタントや看護師、臨床検査技師、放射線技師などで構成される医療スタッフが患者の重症度に分けて手術の優先順位を決める選別(トリアージ)が行われているほどだ。

医療チームの連携の会話の中で聞こえてくる濁音は、人が水を飲む音だ。大地震とは異なり幸いにも断水は起こっておらず、集まった人達は、しきりに自分たちを落ち着かせようと備え付けのウォーターサーバーや浄水器から水を勢いよく飲み込んだ。息づまる死闘が繰り広げられていた―。

「こちら、茅場町から緊急搬送! 30代女性。頭を強く打って出血多量で意識不明の重体。階段から転げ落ちた模様」

 スクープストレッチャーから病院のストレッチャーに亜望が移される。

「こんばんは! こんばんは! 聞こえますか! 病院! 病院着きましたよ!」

 医師が意識の確認のために声をかける、目に光を当ている。片方の瞳孔は開いており、顔の半分が麻痺しているようにひきつっている。呼吸も弱々しい。酸素フェイスマスクの中の鼻と口はわずかに動いているだけだ。

 素早く処置室でレントゲンを撮った後、CT検査室に運ばれる―。

 CTスキャンの図をコンピューターの画面で見ながら医師が宣言する。

「急性硬膜下血腫。いますぐオペ室運んで!」

「オペ室に連絡!」

 急性硬膜下血腫とは頭蓋内損傷といって、脳にまで影響が及ぶ外傷を指す。頭蓋骨の下には硬膜と呼ばれる硬く白い膜があり、脳を包み保護する役割を果たしている。その硬膜と脳表との間の急性出血が死への秒読みを無残にも始まっていた。

 寸秒を争う緊急事態の中、ひとりの他病棟からヘルプに来ていた医療スタッフが声を上げた。

「この方! うちの産婦人科の外来の方です! すぐカルテをもってきます!」

〈そえだ〉と書かれたバッジをつけたその女性は、急いで階段を駆け上がった。

 このとき偶然にも搬送先は亜望が子宮筋腫の診断のために通う病院でもあり、稽留(けいりゅう)流産の手術を受けた病院でもあった。

彼女がカルテを持ってくると言った理由は、処方歴を調べるためともうひとつあった――血液型を調べるためだ。大量出血を伴う頭蓋内損傷をしているのだから、当然術には輸血が必要となる。輸血直前の検査をするのだが、この混乱の中おそらく通常の2倍の時間がかかってしまう恐れがある。大量出血による2次的なショックを引き起こしてしまえば、命が助かる見込みはかぎりなく低くなるのだ。

―息をきらしながら処置室に戻ってきた彼女が医師にカルテを渡す。

血液型はO型Rhマイナス。他の3タイプの血液型と違って、血液の互換性をもつ供給者の血液型はO型のみが可となる。

さらにカルテを見ながら医師が眉根を寄せて重々しく呟いた

―血管性紫斑病か……。

「オペ中に輸血が必要になる可能性あり! 輸血準備!」

 最悪の場合、輸血用の血液が足りなくなり、他からの手配を頼むことになる。一刻も争う状況でのその選択は医師にはなかなか難しい。  

血管性紫斑病とはいわゆる出血傾向を示している。事実亜望はちいさいときから一度外傷を被ると出血がなかなか止まらない症状と闘っていた。

急性硬膜下血腫の手術は、全身麻酔下でまず血腫を完全に除去し、次に出血源を確認して止血しなければいけない。しかも……日常生活に戻れる可能性は、後遺症の残る確率と真逆の甚だしい低さだ。


 オペ室―。最後の一滴の血液が太いチューブに落ちる。輸血用血液の入ったプラスチックのボトルは空。手術前と手術中亜望の側で声を掛けていた「外回り」看護師のそえだは無力さを覚えた。

「輸血用血液の配送、お願いしてきます!」

 そう言って、外に大急ぎで出ていって、廊下の角を曲がったその時。バタン!「すみません!」誰かにぶつかったようだ。

『彼女は』

「…………えっ」

『真琴……亜望はどうなりました』

「ご、ご家族の方ですか」どこかで見たことのある顔だった。『そうです』彼の震える声が、血管が浮き出るくらいに強く握った拳の揺れと共鳴する。

「すみません、今急いでいますので、後で執刀医が説明いたしますので、待合室でお待ちください」

『緊急事態だな』

「……とにかく、とにかく、そちらでお待ちください」

『何か役に立ている事があるかもしれない―』

 そえだは咄嗟の判断で一か八かで聞いてみることにした。いつしかのある女の子の言葉を思いだした。頬の涙を手で拭った。守秘義務などこの際気にしている場合ではなかったのだ。

「すみません! 血液型分かりますか? ご自分のです。それと――」

 互換性を判断するための交差適合検査を行ってもらわなければいけない。その検査には数分かかるが、それでも他の病院からこの大混乱の外で緊急車両が迅速に病院に到着できる見込みは限りなく少ない。

『私の血液型は……』

 そえだが両手を祈るように組み合わせて答えを待つ。

『―Rh null型』 

 そえだは膝から崩れ落ちた。助かるかもしれない、と安堵の涙が溢れてきた。


亜望は病院のベッドの上で静かに眠っている。

―わたし、何が起きたの?

『もう、何も心配いらない』

 ―死んだの?

『まださ』

―死ねばよかったのに。わたし……。

亜望は悔しくてたまらなかった。淡々と無難に生きてこれたはずだった。それが、いつしか幸福を真剣に考えるようになってきた。一日の最後のお喋りができる相手が必要だと―。

『喜びは若いから権威がなく、悲しみは王座にあっていつも尊敬され過ぎている』

―え?

『悲しみには抵抗しなければいけない』

哀艶な言の葉の海に沈んでいくように亜望には返す言葉が見つからない。

―ねぇ、なんか香水つけてる?

亜望の嗅覚は暗澹たる重みとは遠くにある深切な香りに気をとられていた。

『何も』

―だって、いつもと違う香りがするよ。なんか、花のような、中国茶みたいな……ジャスミン?

『なるほど。君にもようやく……』

 そう言うと、一度振り向いて廊下の方を向いてから、未だ眠っている亜望に向き直した。

『君の言うとおりだよ。ジャスミン。さっきまでいたんだよ。ここに』

―誰が?

『言っても信じないと思うけど』

―ためしてみて。

『分かった。彼もわたしの調合したジャスミンのオイルを持ち歩いている。さっきまで、ここに天使がいたんだよ―。正確に言えば神というか』

他愛もない微笑が亜望の口角にあがった。そして、ゆっくり瞼を閉じてまた開けた。「分かった。信じるよ」という合図のように。

―ねぇ、喉かわいた。

『なんか買ってこようか』

―この状況視てわからないの? 飲めるわけでないでしょ。

『しゃべれない君もとても魅力的だよ』

―元気になったら蹴ってやる―。

『買ってこの冷蔵庫にいれておこう』

―分かった、そこの引き出しの中にある財布取って。

亜望は何重にも折り重ねた紙幣をカードフォルダーのひとつから抜き出すように指示を送った。

―これで買ってきて。

メフィストが亜望の財布に手を差し込んでもぞもぞと探すと、まるで(くろつち)でも拾うようにとると、くちゃくちゃになった新渡戸稲造の札を眺めた。

―それね、おかあさんのなの。それね、昔、お母さんもこうして病室にいる時に、わたしにこの5千円札渡したの。『おむつ買ってきて』って。でもね、自販機に5千円札入らなくてね。

―それがわたしの……罰、なの。そのふくらみは、呪い。幸せにはならない……なれないよ。だって、あの人はわたしに側にいて欲しくなかったから……そんなこと、分かっていて……渡したのよ……

『聞いているから、ここで―』

―お母さんに愛して欲しかった……。

大粒の涙が後から後から落ちていく。閉鎖していた感情が解放されていくかのように。自己完結してきた感情が誰かに伝わっていくように。眠りながら涙を流すので、みるみるうちに耳のしたのあたりのベッドシートの部分だけ水たまりができた。

「すみません―。今夜夜勤を担当します、そえだです。奥様目を覚まされましたか」

 メフィストが首を振ると、彼女は肩をおとした。

「もう面談時間は終了いたしておりますので、そろそろよろしいでしょうか」

 時計をみると、面談終了時間の8時を10分ほど過ぎていた。

『分かりました。すぐに出ます。後15分ください』

 そえだは快く承諾した。

『亜望』

 ―なあに?

『君が統計の中に加わるのはいやだ。君を死なせるわけにはいかない。淋しさは身体によくない』

―探しても見つかりっこないと諦めていた。

ずっと自分が望んでいたのだ、これは自分が全身全霊で望んでいたことなのだと、強く亜望は自分の胸の中で柔らかく力強いものを感じた。それはやがて体中に温かいものを巡らせた。きっとこのまま死んでしまうのだなと分かっていた。

―でも……できない、わたしには許せないから。自分が。わたしね、一度子供を殺したの。ありえないでしょ? 命を殺したのよ。犯罪者なのよ。どうせ死ぬなら外国がいいかなと思って、それでパリに行ったのよ、実は―。

滲んだ涙越しに見える風景は全て壁も電気も自分のように涙を流しているように亜望にはみえた。だから、メフィストが本当に涙を流しているのかどうか分からなかった。が、自身の涙の色と少し違う色のものが頬を伝うのを視たような気がした。

『どうした』

―こんなわたしとでもうまくやってくれる人。今まで、男なんて最低の生き物だった。ただの嘘つきでしょ。偽善でしょ。大嫌いなの、そういうの。できないのなら言わないで欲しいの。できるんだったらずっとできて欲しいの。愛してくれるなら絶対ずっと愛して欲しいの―。

そっとメフィストは手を彼女の胸に置く。

『胸のあたりが苦しいってどこかで読んだ気がする』

 メフィストは小さく笑った。

無艶の泥をかぶせたようにやつやつしかった亜望の顔に血色が戻っていく。

『かつてエミリー・ディキンソンは〈希望とは羽あるもの 言葉なき節を絶えず歌う〉と詩に込めた。その羽よりもっと巨大な黒々とした羽が生えるのが不幸や絶望だよ。だけど、君の羽を白く染められるのは私だと……思う』

返事をまたず、持っている力全てでメフィストの人差し指を力一杯つかんだ。

メフィストは亜望の手をぎゅっと握った。2人は一つの「身体」を「共有」していた。そこには、確かに、他人との物理的な隔たりは存在しなかった。

―ねぇ、もうひとつきいてもいい?

『いいよ』

―今日の香水。精油(オイル)かな……すごく好き。消毒液の匂いきつかったから。

『会ったときからずっと私が身体に塗っている精油(オイル)は変わらない』

 ―そうだったんだ。

 亜望はお喋りを止めて、自分の中に閉じ込めた箱をあけるマスターキーをようやく見つけたように安心して深い眠りに落ちていった。

「あなたは」

 突然背後から医師が質問した。

内縁の夫であると告白すると、医者は予後不良で意識の回復の見込みは低いということ。このまま植物人間としていつ目が覚めるか分からないということ。明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、1年先かもしれないこと―。

『魂の契約を結んでいます。自分の魂をかけてこの女性を救います』



亜望は中秋の名月を越えて晩秋の頃、メフィストのもとに戻ってきた。

インキュバスが都心に混沌をもたらした後も、夏は終わり、秋雨前線と大型台風が襲来し自然の猛威を容赦なくみせたかと思うと、傷ついた体も心も黄金色に輝く稲と同じように、静かにしかし力強く生きることを後押しするかのような秋風。昼に鰯雲が空に鱗を広げ、地上では金木犀が香りを放つ。全国各地で復興と豊作を願う祭りで賑わい、日が沈めば花鳥風月を謳歌する。月を愛で、秋霖(しゅうりん)を経て、雁渡しの季節を迎えた。

驚きを隠せない医師たちを尻目に、メフィストはそっと精油(オイル)の瓶たちを鞄に片付けた。 

1週間後―。合併症が起き易い段階も過ぎ、管が全部取れた亜望は十分動けるようになった。感染や発熱の兆候、痛みはほとんど感じず、消化器系統の機能も回復している。

 何よりも記憶に何の影響もないことが奇蹟だった。翌日、メフィストの付き添いで亜望は自宅に帰っていった。

 火力発電所の停止、鉄道事故、大型旅客機の着陸事故、大雨による土砂崩れ、その他さまざまな場所で負傷者を出し、都市機能は完全に崩壊した。専門家、有識者の見解によれば、復旧には数年かかると見込まれた―。未だ電気が通らない箇所もあるが、それでも地球は周り、日々は過ぎていく。そうした時の中で、着実にどこかが修復され、人々は自分を癒し、他人を癒し、希望を取り戻していった。人類の歴史上で悪魔の大悪禍(カオス)から立ち直れなかった歴史は今までもなかったように―。

《どうぞ、あがって。汚くて狭いところだけど》

 すっかり回復した亜望は退院のその日メフィストを家に招待した。

そっとスリッパをフローリングに置く。長い間留守にしていたせいか、少しだけ部屋が埃と黴の匂いがしていた。亜望は、まっすぐに外に向かって天鵞絨(ビロード)のカーテンをあけ、窓をあけた。

《あーー気持ちいい風。ほら、こっちこっち》

 ベランダに出る。穏やかな風と風の間で春疾風(はるはやて)が涼しい風を運んできてくれる。

―あれ?

『どうした』

《蛙の鳴き声が聞こえたような……》

蟇蛙(パドック)だな、おそらく。君の退院祝いかな。それとも――』

かすかだが遠くの木が茂った地域から蛙の鳴き声がまたきこえてくる。

調子から推測するに一匹のようだ。緑化運動が進んでる地域なので珍しくないと言えば、珍しくはない。

『―魔女が誰かに呼ばれたかもしれないな』

 何か愉快な企みを考えている子供のようにメフィストは目配せした。

 言葉に頼らないそのまぶたの合図につられるように、亜望も頬にかかった髪を耳にかきあげながら外を見て小さく笑った。

 その時、思いに耽る散歩道を歩く秋風がふわりと部屋の中に入ってきた。その風は机の上にあの日のまま置いてある原稿用紙をほわっと舞わせた。


第一稿(ゴミ)は捨てないで

追記(あとがき)はラブストーリー


 誰かと出会うと消したくなる。

 誰かと別れると消したくなる。

 誰かの言葉で消したくなる。

 誰かの無言で消したくなる―。


 いつだって書いて消して、また書くことができる。

だから、わたしたちはいつも追記(あとがき)の場所で待ってます。

追記(あとがき)ができる場所ぐらいあってもいい。

 道西の(ブルー)はあなたと共に歩みます。

 だから、あなたの第一稿(こころ)は捨てないで―。


 目を開けると、亜望はメフィストの視界から消えていた。袖を誰かに引っ張られたような気がして反動的に後ろを振り向くと、亜望が悪だくみをする子供の様に顔を近づけて、メフィストの唇に真紅のもうひとつの唇を重ねた。手加減して欲しくなかった。亜望は力いっぱい抱き締めた。

2人の間に「理由」は侵入(はい)る隙間はなかった。身体を密着させた2人はお互いの「理由」を相殺した。自然でありのまま。そして、接吻の雨。幸福が心に殺到していくのを捌くののに苦労するほどだった。

《魔が差しただけよ》

 しとしとと降る秋の雨のような静けさと物悲しさを湛えて亜望は笑った。

快哉の鐘を意思と裏腹についてしまったかのように声が漏れてしまった。気恥ずかしさに亜望はぽっと顔を赤らめながら、何も言うなといわんばかりにふざけてメフィストを睨んだ。

明日から、雨が数日続くとテレビから聞こえてきくる。

 突然メメフィストがそれまでの濃い視線を外す。2人の足元には、さっきの風で机の上から落ちた一枚の写真が―。

《どうしたの》

『写真が―』

《お母さん。実家に帰った時にどうしてか気になって……もって帰ってきたの》

『何か気になった』

《たいしたことじゃないのよ―》

 亜望はメフィストの胸から両手を離す。あれ以来常にデスクトップの隣の目の届く位置に置いておいた写真。なぜだか思いあたる事こと必死に思い出してみようと何度も試みたが、結局なぜ気になるのかは釈然としないまま放っておいた。

『ちょっと見せてくれ』メフィストが言うと、亜望はしゃがんで落ちている写真を取り彼に渡した。

 みるみるうちに険しくなっていくメフィストの顔に亜望は後ずさりした。『こ、こ、こんなことが……』初めて見るような狼狽した姿に、所在なさげにおどおどしていると、『そういうことだったのか』と彼が呟いた。

《どういうこと》

『亜望、これから全てを説明する。なぜわたし達が出会わされたのか……それでも、忘れないで欲しい……私は、君から離れたくない』

《わたしも一緒よ……》

 亜望は息ができないくらい心臓がびっくりしてしまって、それでも精一杯伝えなければいけないと思って、手を動かす。躊躇はない。



第9章 運命の車輪:The Wheel of Fortune



 ルカ伝10章18節―イエス彼らに言ひ給ふ『われ天より[閃く]電光のごとくサタンの落ちしを見たり。


1972年5月13日は、一言で言えばこの物語の全ての始まりであって、全ての終わりであった。

 名残惜しそうに、松原(まつばら)早紀(さき)は後ろを振り返った。

 お化け屋敷と喫茶店を組み合わせた、松原一家が後にした店の入り口には、スタンド型の看板がいかにも不気味なフォントで―『皮肉』という言葉では収束つかない事件となるが―書かれた〈サタン〉の文字が並んでいた。松原家は地下一階から7階の「プレイタウン」に向かった。


7階の「プレイタウン」では。森川泰未(たいみ)を含むホステスが70人ほど巣の中の働き蜂のように忙しくしていた。客が60人弱。

泰未は1歳になったばかりの長男を実家の宮城県の実母の家に預け、バンドマンである夫の出稼ぎのために1カ月前からプレイタウンで働いていた。夫である一郎(いちろう)がアルトサックス奏者としてステージでの演奏バンドに参加していた。


「―お父さん、僕はあのあたりで勉強してます」

 喧噪を離れられるカウンターの端っこの暗がりの席を指さしながら、青年が言った。

 カウンターでは妊娠しているのかただ太っているのか分からない女性が、自分より若いホスト風情の男にまとわりつくようにじゃれている。どうみても夫と妻との関係ではなさそうだ。しかし、この際不埒な男女が近くにいても、父親の見たくない姿をみるよりしょうがない、と青年は思った。

青年は身構えた。一斉に酒が入った大人の注意が集まることは覚悟していた。瞬きの数が多くなる。不安げな表情で、父親の許しを待っている。

「ちょいちょい、こぎゃんところまできて勉強するもんがおるか、ばかたれ。おまえを連れてきたのは、何も学校の宿題をおりこうにやらしたくて連れてきたっちゃなかとばい。周りば見渡してみ。何がみえっとや」

 乱暴に聞こえる方言は九州弁だ。父親らしき男は、息子の愚弄きわまる提案を一蹴する前に、わずかにのこった薄いウイスキーを飲み干した。

「ほら、なんが見えるか言ってみんか、さっさと」

「まぁまぁ、何も怒る事はないやんけ。かしこの子やん」隣の男がその場をひきとろうと前に出る。

「いやいや、ここは親子の問題ですけん。ほら、言ってみんか」

「男と女が酒を飲んでます」青年は平坦な調子で返した。

「ええ加減にせんか! ばかたれが!」

 言葉とは裏腹に父親は笑いながら、赤い5人掛けのソファに座りなおした。

「ここに見えるのは光と闇ぞ。仲良くしとるやろが。そういう場所たい。そりゃ明るい顔したやつばかりでもなか。暗か顔したやつばかりでもなか。明るい話、暗い話、何でも飛びかっとっとばい。借金あるもんもおれば、商談成立で大金が今から入るもんもおんだろ。ばってんな、光も闇もあるけん、生きることは奇蹟っていわるっとばい。わしは、おまえのおっかさんがはよーに亡くなってから、闇ば抱えて生きとるばってんが、それでも何も仏さんば恨んだりすることはなか。光と闇、それがなかと、生きとる意味がなかばい」

 青年は父親の言っていることが分かるような分からないような小鹿のような顔をした。「いますぐ死んでも後悔せんように生きろ、分かったら、そこ座っとれ」

 父親は場を変えるつもりで、「かんぱ~い」と陽気な声で周りにいるホステスと乾杯した。

 青年は、胸に染み入る箇所もあったので、しかたなく腰かけ直す。飲みかけのコーラに手を伸ばした。

「学歴も大事かもしれんばってんが、世の中大事なのは世渡り術ばい、やっぱ」

 この日、高校1年の村沢望は渋々父親の接待に同行していた。熊本から仕事で大阪に出張するという父親に、無理やりついてきたいと言ったのは自分なので仕方がないと思い直した。既に大阪観光は済ませてあるので、ここは大人な振る舞いを見せておこうとした。

「分かりました」

「よーし、それでこそおれん子たい。なあ、明美ちゃん」

「ぼっちゃん、おいくつ」

明美(あけみ)」は泰未の源氏名のことだ。胸のあたりまで素肌が見えるキャミソール型のドレスは、青年をまごつかせるのには十分だった。第一子を生んだとはいえ、泰未には女としての魅力がその首筋から肩にかけてやわらかく剥き出しの鎖骨に宿っていた。

「15歳です」

「じゃあ、ちょうどお姉さんと10歳違うわね。ぼっちゃんは、きっと大きな男になるわね。きっと大きな会社の経営者……」

 望は背中を撫でられるような優しい物言いにこそばゆくなって、顔を少し赤らめた。

「見てますからね」

「えっ」

「テレビ」

「…………」

「きっと大きくなってからテレビで取り上げられるような男になるだろうから」

 さりげない言葉は、生きる指標となり得るときがある。この時の明美の何気ない本心からの言葉は、生涯村沢望という男を折に触れて推し進める言動力となった。

「望くんだったかしら。証明してね。わたしが嘘つきじゃなかったってこと」

 望は耳まで真っ赤に染めた。その場で溶けていなくなってしまうんじゃないかと心配になるくらいに、こくんと俯くだけしかできなかった。

「村沢さん、明日の新幹線で熊本に帰るんですってね」明美が訊ねる。

「そぎゃんたい」名残惜しそうに、貫禄のある太い眉をへの字にしながら嘆いた。

「ほんなこつ、課長さんありがとうございました。日本一の千日デパートさんの婦人服売り場でうちの和服を扱ってもろたら、こぎゃんうれしかことはありません。色々勉強させてもらいますけん、何でもおっしゃってくださいね」

 明美を促して、社長とよばれる男性の空いたグラスにウイスキーの水割りを作らせて、せて、自分は豪傑に笑った。


「隆太郎に顔向けできんぞ」

 カウンターのホスト風情の男は格好に似あわず、曇った表情でワイングラスを手にとる。

「何よ、この場におよんで、墓場までもっていくんだから、よかとよ。苦労して岡山からでてきたのよ」

女は、愛情の中に憎悪がちらりとゆらめく艶やかな眼差しを男に向けながら、不服を表した。

「すぐ近くじゃないか」男が正論を言うと、自分のお腹に顔を埋めるように俯きながら、言った。

「何言ってんの。心臓いま2つあるんだから」

「何カ月だっけ」急に周りをきょろきょろと男は見渡し始めながら訊ねる。

「6カ月よ」女は平素に返した。

「明日の新幹線何時」女がたっぷり間をとってから訊ねた。

女は用心深そうな男の表情とは対極だ。悪戯っぽく笑った後、グラスに入った赤ワインをすすった。舌にのこったサラミの油を拭い去るように目を閉じる。

 梅に鶯とはとても言いがたいその組み合わせを、バーテンダーは勝手知ったる顔で淡々と受け入れ、グラスワインのおかわりを促した。

 女の野性的なその仕草に男は蜜欲をかき立てられずにはいられなかった。この場で抱き寄せてキスをしたいが、世間がこの2人をくるむような悠長さをもちあわせていないことは十分理解できるほど十分には酔っていなかった。夫の目を盗んで、こっそりと人妻を独占する不貞に武者震いした。男の気持ちに呼応するように、するりとグラスの水滴がコースターに落ちていった。

「大阪駅を18時12分発で、大分に7時10分ごろだよ。それから、別府の温泉まではタクシーで移動しよう」

「ゆっくりできるわね」

 ステージでは、男女の絡まる指と指を余すところなく語るようなアルトサックススとコントラバスの重く跳ねるような音が重なり、金色の楽器がスポットライトの下で光を反射していた。

美沙世のこの言葉(カレス)の裏には2つの意味が隠してあった。

 当時の大阪と九州を結ぶ新幹線ではブルートレインと称された20系寝台列車「富士」を利用するのが定石だった。ところが、()えて停車駅の多い急行「高千穂」の切符を男に取らせる手筈を踏んでいたのだ。いわゆる日豊本線経由の日本最長距離列車の「高千穂」を利用することで、少しでも元交際相手の男との浅瀬を愉しみたかった。

 もうひとつは別府の老舗温泉旅館で水入らずで1泊することを指している。

 出産日まで半年もない。当時23歳の美沙世のお腹にいた「亜望」と名付けられる女の子は生まれつき耳に若干の障害を持たされてしまうことをこのとき知る由もなかった。

 それぞれが土曜の夜を満喫していた。時間が過ぎるのも忘れ、腕時計に目を遣ることも忘れていた。が、壁の時計は刻々と時間を刻んだ。そうして、巨大デパートが平常通りの閉店時刻9時を廻ったのだった。閉店時刻を過ぎても営業が許されていたのが、雑居ビルの最上階にあるキャバレー「プレイタウン」だった。


午後10時30分。惨禍(カオス)は人々の(きょ)()いた。その惨禍(カオス)の着想の主はインキュバスだ。

相対性理論、方程式、半古典型のシュレディンガー方程式など数々の業績を残した理論物理学者には申し訳ないが、天使や神々はサイコロ遊びをするものと決まっている。それに対して悪魔の中には「はずみ」や「気紛れ」によって天使や神々のように事を起こす者はいない。明確な理由があって、常に演繹と帰納を使って「その地」を選ぶ。

丸にSのシンボルが掲げられているビルの正面を見ながらメフィストは静かに目を閉じた。まるで時間軸を往復しているような瞑想の時間が冷たい川の下で流れるように。インキュバスは、自分の提案が採用されたことの喜びをかみ殺すようにしてその場に仁王立ちにした。

千日デパートがなぜインキュバスによって選ばれたのか?それは、彼独自のヘブライ文字による文字認知方式による。

 ヘブライ文字とは、今の算用数字、つまりアラビア数字が伝来する前の時代の、アルファベットそのものを「数」と置き換える文字のことだ。アルファベットをヘブライ文字に置き換えて悪魔同士で暗号を閻浮提(げかい)で分かち合うのは珍しいことではないし、実際メフィストも頭の中で置き換えることができる。

 キャバレーの名前は「プレイタウン」という。これを順に「6」の倍数で当てはめていく。すると―。【Playtown】のWをMとすると、P=96、L=72、A=6、Y=150、T=120、O=90、M=78、N=84―全て足すと696となる。

インキュバスにはある特定の文字が移る。それは数字をアルファベット順に6の倍数でみる、ということだ。6は代々悪魔の世界で重宝されている並々ならぬ愛着をもつ数字で、インキュバスは自分の興味のあるものとなると並々ならぬ集中力と理解力を示すところがあった。

インキュバスは「6」と「9」が同じ「6」に見えてしまうのだ。9を180度反転させた数字が「6」なわけだが、これは、鏡文字とも言われる。どうしてこのようなことが起きるのか?

実は、目で見た文字は目のレンズを通して脳に反転して写る。通常であれば文字を書く時、脳に写った反転字を左脳が無意識のうちに変換する。が、インキュバスの場合、右脳と左脳の機能が非常に不釣り合いで左脳が著しく発達していない。よって、変換することをしないで、脳に写った文字をそのまま理解する。

よって「696」が「666」に見えていたのだった。



 明美が頭を押さえながら「ごめん、ちょっと、夜風にあたってきてもいい? 今日は早いわ」と同僚に言った。

 非常階段を降りる。風は気だるくなるくらいにぬるい。時折温度が少し低い風が吹いている。全ての音は時間差で遠くから空気が運んでくるだけだ。デパートはひっそりとて、閉店時刻を過ぎると、日本の地図のどこかに浮かぶ孤島に自分がいる気がしてならなかった。ため息をして、明美は泰未に戻ろうとする。さきほどの青年のことを考えた。長男にも弟が必要だろうか、そんな思考にいつまにか結びついていた。

突然異臭がした。煙臭い。咄嗟に一周見回した。泰未の脳裏をある記憶がよぎった――以前地下1階の「サタン」の近くにある喫煙者エリアに設置されている灰皿からたばこの不始末が原因で燃え上がり、対処が遅れて7階のエレベーター付近まで煙がきたことがあったからだ。

 また? と別段気にも留めない様子でつぶやくと、突然、後ろのドアがバンと開いた。

「明美ちゃん、ごめん、気分よくなった? さっきの少年連れの地方からのお客さん帰る前にあけみちゃんに挨拶しておきたいって」

「すぐ、行きます」

「贅沢にお金使ってくれたみたいで、店長大喜びだったわよ。これで、あけみちゃん、また株があがったわね。今度、話術勉強させてね」

「たまたまよ、たまたま」明美は照れ隠しにはにかんでみせた。

ぎこーと音をして非常ドアを閉める刹那に白い煙が遠くに見えた。


「おおー明美ちゃん、ここにいたのか!」

 大柄な男が屈託のない笑顔で迎える。明美はうれしさを隠そうとしても笑顔にこぼれてしまう。どんな形にせよ、誰かに待たれている、というのは悪い気持ちはしない。そんな母親に、子供のためにわたしもならなければ、と感じた。

「長い旅路になりますが、無事に望くんと帰れるようにお祈りしております。また元気なお顔を見せにいらっしゃってくださいね」

「あたり前田のクラッカーたい!」

「今の時間帯はこのフロアと地下1階しか空いていないので、そこまでエレベーターご一緒させてください」

 ボーイが呼んだエレベーターに3人で乗り込んだ。

 明美と村沢親子の3人は、地下1階へと向かうエレベーターの扉が閉じられる間際、女と男が腕を絡ませて歩いてきた。

「しばらくおまちくださいませ」

 ボーイが2人に言うと、男がさっと女の腰を抱いた。今にも社会が簡単にはその胸に受容しないであろう2人の隠微な口づけが始まりそうな予感だった。ボーイ2人はなるべく自然とエレベーターの方向に向きなおす。

エレベーターで地下1階に下りた村沢親子と明美だが、明美は「ちょっと」と言って喫煙エリアまで小走りした。

「どぎゃんしたとねー」

明美の予期しない行動にたまりかねて、男が声をかけた。望は黙って返答を待っている。

「何でもないんです、すみません、あの、お見送りします。何でもないんです」

「なんか、妙やないと、なんか隠しとるんじゃなかとね」

「いえ? 何でもありませんよ。ほんと、何でもないんです」

「あけみちゃん、わしは商人ばい。嘘をつくのも得意やし、嘘を見破るのも得意たい」

 男はじっと明美の目を近づいて見つめた。

「まばたきの数が多くなって、あんなに目をちゃんと見て話しとったあけみちゃんが、いま目は合わせんもんね。それに、同じフレーズ場何度も繰り返すのも、証拠たい。どぎゃんね」

 明美は小さな隠し事のつもりだったが、楔形の分析眼にどこかたじろいでしまった。

「わけは後で話せばいいけん、とりあえず、わしらあけみちゃんについていくけん、これからどぎゃんすんね」

「じゃあ、保安員がいるはずなんです。探します」

「分かった。望、保安員ば、さがぜ。あっちば、探せ」望は父親の主導で何の疑問も持たず、とにかく走り回った。

 ――プレイタウンの壁時計の長針は30度進んだ。

「おーい、1階、1階にいるよ!」望が強風の中でも聞こえるくらい大きな声で叫んだ。

「よーし、今から階段であがるけん、そこおれ!」

 明美たちは1階に上がり、眠そうにしている保安員を捕まえた。非常階段での異臭、白い煙と何の以上もない灰皿……の話を話し終わるまでに休憩室で監視カメラを確認していた別の保安員が口を挟んだ。

「火事です! 3階で!」


7階のエレベーターホール前では、人だかりができていた。地下から昇ってくるはずの途中で、2台あるプレイタウン専用の直通エレベーターが両方停止していた。「点検作業にとりかかるので、もう少々おまちください」と自信なさげにボーイが言うと、露骨に美沙世たち2人は我慢ならないという顔をした。

数分後、殺気を後頭部に受けながらエレベータの下を覗いていたボーイが異常を察した。尋常ではない煙の量。その時! 白かった煙が黒い煙に変わった。そこで初めて、エレベータの故障ではなく火事だと気がついた……。

「火事だ! みんな早く逃げろ!」

 店内は一瞬水を打ったように静まり返った。

 早紀はこの時、ステージで演奏されるアルト・サックスとピアノの音色に夢中になっていた。叫び声が聞こえて、バンドマンたちは演奏を止めて控室へと戻って行くのをおもちゃを取り上げられた子供のような目で眺めていた。

「早紀!!」

 けたたましく自分の名前が呼ばれるのに振り向いた瞬間、父親に痛いくらい力で掴まれていた。それから数十分の間の記憶が、早紀の頭には残っていない。



 人間の集塊(かたまり)がエレベーターホールに増殖していた。松原家3人を含む多くの客とホステスたちはボーイの声を耳にして急いでホールまでやってきた。

同じように殺到してきた客とホステスの中には、既に何らかの理由で惨たらしいほどの血を上半身から流している者や、涙で化粧が崩れ、黒い涙を頬につたらせるに任せている者、そして暴発した不安を制御できずに奇声をあげる者もいた。

 息が詰まる。内臓が圧迫される。

 他人にかまっている余裕はなく、早紀は大人にもみくちゃにされながらも父親にしがみながらエレベーターに進んで行った。母親の姿は見つけられないことが一層不安にさせたが、それ以上何かを思考していることは9歳の女の子にできるはずもなかった。

その頃、プレイタウンには階下の保安員からの電話を受け取るものは誰もいなかった。我先にと押し寄せる人数はおよそ100名……大混乱は容易に想像できるだろう。しかも、エレベーターの扉の隙間からは勢いよく煙が噴き出し、その勢いはそこに居合わせた全ての人間の理性を完全に奪った。息もできないほどの一酸化炭素がたちこめて、もはやエレベーターでの脱出は不可能だった。

ボーイの1人が血相を変えて支配人のもとへと駆け寄って事態を報告する。

「非常口だ! 階段を使わせろ!!」

 支配人は非常口を開け、そこから逃げるように指示を出した。野次が飛び交う中を縫うようにして、支配人がエレベーターホール脇の非常口の扉の奥の階段から非難させようと扉に近づいた。ところが、非常口には普段、客の無銭飲食を防ぐために鍵がかけられていた。

「鍵だ! 鍵をとってこい! クロークの中だ!」

 支配人の声を聞き取ったボーイが一目散にクロークを目指した。が、既に暴力性を増した熱と煙がたちはだかった。他の脱出ルート……非常階段等でさえも、容赦なく昇る下からの煙で、閉ざされた。停電……。酒や女性のスカーフや化粧ポーチなどが散乱した赤いカーペットを次に埋め尽くしたのは、次から次へと倒れる人間だった。

 こうして、数十分でプレイタウンは、一酸化炭素を吸い込んだ人間たちの断末魔の叫びが聞こえるほどの、まさに孤島の地獄と化した。

歩ける人たちは、停電になった真っ暗な店内から非常灯と外から漏れる薄明かりを頼りにステージ脇の壁に向かって千鳥足で歩いた。

「美沙世!! 美沙世!!」

「ごほっ、ごほっ、く、く、苦しい…ん…ん」

 心臓が2つある美沙世は意識が薄れかけていた。一酸化炭素に呑み込まれるまで時間がない―。

 生きながらえたとしても不倫が暴かれて近所からも親戚一同から愚弄される恥辱(ちじょく)

 このまま死んでしまえば、身勝手な愛欲から殺人者に成り下がることへの慚愧(ざんき)

 自ら迫りくる火の中に飛び込んで、身元不明者になり果てられるまで焼き焦がれてしまおうかという諦観(ていかん)

 何よりも、お腹の中の子が普通に生まれてくるわけがない……。普通に生まれてきても、母親としては会えないかもしれない、それに、認めたくはないが罰が当たってしまったのだろう。自分は地獄に行くしかない、助かったとしても幸せなど訪れるはずがない。この時美沙世はその後の人生の大部分を諦めた。

「がんばれ、非常灯が見える、あそこまで行けば、なんとかなる!」

 男が苦しそうに必死に声を掛ける。

「もう、いい……一緒に、死のう」

「ばか言うな!! 生きるぞ!!」


早紀が父親に抱かれて地獄の窓から顔を出すと、既に消防車や救急車が蟻聚(ぎしゅう)していた。

周囲を見渡しながら、7階にあるいくつかの窓から助けを求め、手を振る人がいた。中には、停電になったフロアから辛うじて逃げ出した支配人や、必死に自分の子供の名前を叫ぶホステスの姿もあった。何とか生き残り、窓際まで避難してきた人達全員が我先にと助けを求めていた。

「みんな、こっちだ!! こっちから外に出れるから!!」

「ほら、これ救助袋、これを窓から投げるぞ!!」

「おい、ほら、子供だ、この子を先にいかせてくれ!!」

 早紀は他人をなぎ倒してでも前に進む父親に必死にしがみついていた。父のこめかみに仄暗く赤い血管が浮き出るのを見つけて、息が一瞬止まった。この時、親と子の「事情」を汲みとる人間は誰もいなかった。早紀の目に飛び込んできたのは、口から血を流す男性や、顔中血だらけで血のりのように額にこびりついている女性からの突き刺す殺気だった。

さらに、彼らの瞳は煙と炎に(けしか)けられているように生生しくしかも気魄漲(みなぎ)っていた。口元には軽蔑的な笑いがそして炯々たる闇が(おど)っていた。そのように窓に集まった人間たちは皆一様に「故障」していた。

早紀は血の匂いに耐え切れずに口元と鼻を手で手の甲でふさいだ。烈火による死より先にこの人達に殺されてしまうのではないかと感じた。悪魔の見えざる手は人間たらしめる「理由」をじわじわと焼き尽くそうとしていた……。

悪魔に乗り移られたような目の色は早紀の人間たらしめるものさえも凍らせた。

「おまえら、それでも人間か!!」早紀の父親が血管がひきちぎれんばかりに鬼の形相で叫んだ。

 生のような死の舞踏会を繰り広げる彼らの背後には、灼熱地獄(コンフラグレーション)が容赦なく勢いを増すばかりだった。

 救助袋は当時防火対策として装備が義務づけられていた長い袋状になった非難器具だ。4人がかりで「せーの!」で号令をかけて持ち上げて窓の外に放り投げる。救助袋は一直線に地上まで届く……はずだった。最後に残された脱出の術だった。2階のネオンサインにひっかかってしまったのだ。それでもまだ希望はあった。

「おーい、下からひもを引っ張ってくれ!!」望はいち早くその声に反応した。

救助袋の先端部分には砂袋が括り付けられており、下にいる人に引っ張ってもらい設置してもらわなければいけない。そうでなければ、滑り台の様に中にもぐりこんで滑ることができないからだ。

救助袋がぶらぶらと覚束なく揺れる真下に、望は手を振り回して突進していった。

ひもを探す。上からはガラスの欠片や漆喰(しっくい)などが落下し、とても見上げていられる状態ではなかった。望はどこかに必ずあるはずだと思い、諦めずに探し続けた。闇の空に手をかざして、掌を広げたり閉じたりして、夜を(つば)むように続けた。

頼りになる灯は街灯だけではなかった。およそ80台以上の駆けつけたポンプ車、はしご車、放水車、そして救急車のライトだった。人的災害を最小限に食い止めようと、野次馬の避難指示そして消化体制は万全に敷かれていた。

 そして、もうひとり望の背中をそっと支える存在いた――幼い時に家の畳の上で亡くなった母の言葉だった。

『あなたの名前ね、希望の下の字からとったのよ。自分の望む通りに生きて欲しいって、お父さんと話をして決めたのよ。でも、もっと大事な意味がその名前にはあるの。誰かの希望になりなさい。誰かが助けを求めたら必ず助けなさい。あなたは誰かのために生きることで初めてあなたらしく生きれるんだから……』

 強く強く耳朶(じだ)によみがえってくるその言葉ながければ、頭上で蠢昇(うごめ)噴烟(ふんえん)の中心に吸い込まれて、遠巻きに様子を眺めることしかできていなかった。

 泰未の夫はまだ中にいた。お願いだから、救助袋で避難して欲しいと、血眼になって探す望の背中に祈り続けた。

事態はまさかの状況に陥った―。確認の不手際で、砂袋が取り付けられていなかったのだ。当時は防災への意識は低かった。管理する人間も天災は二の次で、とにかく自身の「バベル」の高さを競い合って高度経済成長の波にのってデパートビルを建設会社に発注し続けていたのだ。

 一刻も煙と熱から逃れたいという塊の体の反応は、人間の理性を完全に狂わせた。

「あっ!」誰かが叫ぶ1人だけでなく、窓から身を乗り出している大人全員が声にならない声をあげた。早紀が父親の手から零れ落ちた。

……ブサッ! ガラガラガラ……ボトン。

早紀の父親は驚きで目を瞠った。偶然電線にひっかかったのだ。体重が軽いおかげでその電線は早紀の身体を受け止めるクッションの役目を線をしならせることで担った。が、落ちるのは時間の問題であることは変わりない。

きゃーー!! 

ボトン……ばたっ。


―誰かのために生きることで初めてあなたらしく生きれる。


地面に溶けていくように意識が陰りそうになっている中で聞こえた声。

「望!!」

「望くん!!」

早紀の下になったのは望だった。

 遠くから聞こえてきた声がもうひとつある。『この人が君の将来のパートナーだ。大丈夫、いま別れてもいずれ必ず会うことになっているから。ゴッドブレスユー』



二人は同時に同じ市内の病室で目を覚ました。

望は目を覚ますと、父親がベッド脇の椅子に座っていた。意識がなくなってから今までの間父親がどんな気持ちでいたのか、顔を見れば十分だった。望は父親の顔を少しの間ぼーっと視た後、目をきょろきょろとさせた。

「望、大丈夫か!」

 こくんと頷く。

「あああああ、よかったばい。ほんなこつ。ばかたれが!! ……親より先に死ぬかもしれん行為ばするとは何ごとや! 勉強しとるくせに、そぎゃんこともわからんのか!」

 怒りは、咽び泣く声の中に包まれて、ただただ籠った。

「父さん……」

「なんね。医者はさっき呼んだけん、すぐ来るけんな」

「父さん……じゃないよね」

 望は分かりきった質問をした。毎日般若心経を唱えるような無類の仏教徒が「ゴッドブレスユー」なんて言うわけがない。

 隣からも父親の(むせ)び泣く声が聞こえてきたが、首が動かせないので、できるだけ目を端っこに寄せた。同じような父親らしき人が、隣のベッドで眠る人に優しく声をかけていた。  

 おそらく助けた女の子だろうか……。いや……まてよ……助けたのは……僕じゃない……。望は思い出そうとこころみると、頭に痛みが走った

―落下しても受け身さえとれればなんとなかなる。正気の沙汰とは程遠い思考回路を経て、男性客のほとんどが救助袋にしがみつき25メートル下の地上を目指した。

その〈蜘蛛の糸〉は人間をあざ笑うようにふるまった。試みた人のほとんどが途中で力づき、落下していった。人間の全身の骨が砕かれるこもった重い音が続いた。現場はまたもや静まり返った。規則正しく落ちる人間。

不自然な方向に足が曲がったまま即死した人間もいれば、頭部強打による即死または、病院に搬送されて死亡が確認されたものも数多くいた。

 奇しくも火災があったのは、母の日の前日だった。掛かったままの大きな垂れ幕は、隅と部分部分が虫食いのように焦がされ、愍然(びんぜん)な姿に変わっていた。

泰未の夫を含むバンドマンたち、そして美沙世とその不倫相手を含む50名の人達が何とか飛び降りたいという衝動に打ち勝ったのだった。

 美佐代の右太股の内側は熱傷による皮膚と粘膜の損傷がひどく、大阪市内の病院で2週間の入院の後、もう2週間は地元岡山の病院に通院を余儀なくされた。瘢痕はかぎりなく薄くはなったものの、不倫の証明を一生残す体で生きなければいけなくなった。一方夫の隆太郎は、とうとう一度もなぜ大阪の千日デパートにいたのか問いただしもしなかった。

 事故からおよそ4カ月後、真琴亜望は産声を上げた。



最終章 解脱:Emancipation



 収まりきらなかった。

 不都合な真実が波となり粒となり(あられ)となった。部屋に響いているのは壁の時計の音だけだというのに、その真実の音は亜望の心底の薄く張った膜を突き破った。亜望の震えに合わせるように、時計の針の音の音律も狂っているように聴こえてくる。

 やがて身体から力が抜けた。全身全霊で泣き叫んだ。(むせ)び泣く姿をメフィストは無表情に見つめた。その目にいつもの力は感じられない。

 亜望の切願は残酷なまでに砕け散った。その後のことは亜望は覚えていない――。

壁に頭を打ち続けたせいで記憶が飛んでいるのだ。狂乱状態になり、《死ね!》とぎこち

ない音を連呼しながら、部屋のものというものをメフィストに向かって投げ続けた。瀬戸物から、ガラスから、本から、電化製品まで全部……。

メフィストは亜望が凶暴に振り回した平手打ちを避けもせず静かにマンションを後にした―。

 雨が窓を叩いたのは夜が明けた頃。亜望には朝まで眠りはとうとう訪れなかった。体中の水分がからっぽになるまで涙を流したせいで、頬は涙の塩分で赤くなっている。

とにかく忘れるまで吐き出さなければいけないと思った。涙の河に()てた自画像(かこ)(うご)めくのを怖れていた。

結局昼過ぎまでぐっしょりと亜望は雨に濡れた。

必死に自分の不幸を決して言い訳にせずに生きてきた。はじめから敗残者として生きてきた。

人間は言語のなかにうまれおちるはずだ。そして、生涯のほとんどをその言語のなかで過ごす。言語は交わり繋がり、共同体ができあがっていく。しかし、はじめからその共同体から切り離された。

夢をみた―。分厚い本を脇に抱えて風に(さら)されている。傘もささずに。誰も傘を持ってきてくれない。夢の中の像は必ず音声が伴っていて、現実よりも現実味を帯びて記憶に残ってしまう。まるで数時間前に実体験したような感覚が足の痺れのように身体に残るのだ。

物心ついてからというもの、亜望にとって、夢は消えかかる過去のような幻影的なものとは正反対のよみがえる過去を記憶に焼き映す静謐な鏡だ。「あるがまま」に生きてきたというよりはむしろ「ないがまま」に生きてこらされた。

人の心にもあるかもしれない温かさというものを信じてみたかった。《きっとうまくいく》そう思ったのも束の間、どん底に落とされた。

翌日会社にメールすると、藤島が返信をくれた。会社の無事を確認したら、体から放出してしまった水分を取り戻すために水をがぶ飲みしてから原稿用紙をファックスした。

《もう遅いかもしれませんが、村沢社長にお渡しいただくようお願い申し上げます》

もうひとりで生きていかなければいけなくなった以上、仕事を続けなければいけない。

幸福ごっこは終わったのだ。亜望は自分に何度も言い聞かせた。

 数日間は自宅で安静にしておかなければいけなかった。通院もしなければいけない。やらなければいけないことは、この後もたくさんあるのだ。そう。いつだって、《この後やることはたくさんある》のだから。

亜望は幼い頃からとにかく周りから自分を見つめていた。よって、自分とは何者か、自分の長所は何か、短所は何か、なりたい職業は何か、結婚願望は、家庭観などを、全て諦観の缶かんの中にいれて固く蓋をしてきた。だからこそ、「自分を見つめなおす」や「自分の心に正直にいきる」、「思い描いた事は実現する」などという言葉に全く共感しない。「やるべき事」を「処理」する人生の方が楽だと考えている。(あまだれ)が石を穿(うが)つように、おもむろに亜望は自分の文才を磨き、砥ぎ、削り、そうして物の見方というものを確立してきたのだった。

 外の雨は秋の長雨らしく本降りにならないままアイドリングしているかのように降り続いている。雨が降った隅田川は、亜望の思いをのせて滔々と流れていた。

 それから4日間は必要最低限の外出にとどめ、家の片付けを主に行った。調子が戻ってくると、料理も作り始めた。ちょっぴり「料理酒」をキッチンで飲んだ。久しぶりに胃の中に届いたアルコールは全てを拭い去ってくれるほど強烈で、メフィストのことを思い出さずに済んだのは、そういうふうに亜望が自分のライフスタイルを既に構築していたからだった。

 5日目の金曜日、冬の寒さが厳しくなってきた頃の春のような穏やかな小春日和の朝、亜望は辞表を持って家を出た。

「髪だいぶ伸びたわね……そのワンピかわいいわね……ちょっと、社長があなたに話があるらしいわよ」

出社するやいなや、色々な近況の交換もせずに藤島が声をかけてきた。都心の大混乱でさすがに語り口調は優しいものになっていた。張り合う社会というものが壊れたのだ。それに伴って自分を見失うのは当然のことのように思えた。

「真琴くん!」

亜望はドキドキドキッと3連の心臓音を聞いた―。ファックスしたコピーが結局没で、お役御免となったのだろう。

「生きていてくれて本当に良かった! 何度かお見舞いに行ったんだけど、もう君の顔を見ていると胸が苦しくてね。それに、いつも……あれは君の親戚かなんかかな? 男の人がいて……あっそうだ。あの彼ね、あそこの病院の看護師の旦那さんがわたしと同郷で、同郷の飲み会の時に懇意にさせてもらっていたんだが―。その看護師の奥さんが言うには、彼のおかげだそうじゃないか! 彼が輸血に名乗りをあげなければ君の手術は失敗していたかもしれない、と言ってたぞ」

 いつもの村沢の喋り方ではなかった。しかし、もっと驚いたことは彼の輸血の件だ……。亜望は思わず自分の掌を凝視した。

 あの人の血が流れている……やっぱり……。亜望の涙の河は2人の思い出を流しはしなかった。

いつも無意識に思い出すのは、彼と工房(サロン)のエレベーターで屋上に上がる間の、あのなんとも言えない香りだ。病室で初めてフランキンセンスと気がついたのだが、記憶を追想していくとはっきりとその香りがよみがえってくる。そうしてメフィストのことを思い出す度に鼻腔がひくつき、その香りが鼻の中で再現された。どこかが痛いような、どこかが気持ちいいような、どこかが燃えるような、どこかが冷やされるような―。

そんな鎮静と興奮の交配が導いてくれる絶佳(ぜっか)。自分が立っている地面が溶けてどこかにおぼれるような瑞々しい錯覚。

所詮、女子のフィニッシュラインが潔く引けないんだろうなと自虐的に考えてみた。されど、女としの自分は色づいては褪せていくが、ある意味本能的かつ強制的で義務的なもの―幸福への準備はできていた。

彼の正体を知った今、彼との未来はありえない―。が、彼の過去を知ってしまった今でも、彼への気持ちが変わることもありえなかった。

そしてその思いは香りとなって胸に染みついた。

「それで、例の件だが……」 村沢は小さく咳払いをして喋り始めた。亜望の意識が目の前の村沢に戻った。「大手町の例のコーポレートコピーの件だが」誰か代役を立てて既に別の案で進行しているだろうと覚悟はしていた。

「真琴くんのを採用する」

 亜望は寝ていたところをたたき起こされた直後のような放心状態の表情で、一点を見つめた。

「先方が、どうしてもと譲らなくてね。真琴くんの状態を話をしたら、あそこの広報部部長の浅倉さんが真剣な声で電話口でこう言ったんだよ―」

―真琴さんならおそらく目を覚まします。驚くかも分かりませんが、昨日死んだ母が夢に現れまして……それで、真琴さんは必ず目を覚ます、と告げました。どうか、真琴さんの一刻も早い目覚めを心からお祈りさせてください。

「最初は、失礼な話だが、頭がおかしいのか、極度の妄想家か、どれかと思っていたが、案外本当だったのかもしれないな……それはさておき、そういうことだから」

 まだ亜望は目をひよこのように丸くしている。

《じゃあ、これからどうするんですか》

「もう先方には君ので承諾はもらってるんだ」

《本当ですか!?》

「高橋副社長も大いに満足したそうだよ。あんなのは一生かけても俺には考えつかない」

《ありがとうございます!》亜望は深々と礼をした。

「それで、今後のことなんだが……」

 その時、亜望の右手がするりと、裾にスリットの入ったワイン色のチェック柄のワンピースのポケットにと伸びた。

 取り出されたものを彼が見た。驚きを隠せない色が浮かぶ。その白い封筒には達筆な字で《退職届》とい字が。

《わたし、専業主婦になるので!》気風のいいパン屋の女主人のような顔を作る。

「…………」

亜望との会話を堂々と後ろで手を止めて聞いていた一同の口があんぐりとしていた。

 しばし時が止まった。遠くからさざ波が近づいてくるように彼は顔全部で笑った。あまりに大きい声で笑ったのでデスクのマグカップのコーヒーに小さく波紋ができる。亜望もその顔を見ていると力が抜けたように笑った。本当に力がすっぽり抜けた。

「それも悪くないな」

それ以上は何も言わずに立ち上がった。容易に丸め込める相手ではないことぐらい分かっていたのだろう。ベージュのキルティングコートを手に取って会社を出ていこうとしながら、誰に話すでもなく「映画でも観てくるか」と言った。

《社長!》亜望にはどうしても訊かなければいけないことがあった。

《どうしてあの時『メールをCcしてください』と先方に言わなかったんですか》

「あの時……」彼は自身の記憶を軽くたたくように親指と中指の腹をこすりあわせて、それから中指でこつんこつんと頭を叩いた。

「あーあの時か。いつもならそう言ってきたが――」

 2人が話をしている「あの時」というのは、道西エステートコーポレーションでの会議の帰り道「最後によろしいでしょうか」と村沢が浅倉が立ち上がる隣の2人を制した後の言葉だった。

去り行く姿を驚きながらも冷静に見送って、亜望はまた深々と礼をした。

―人の心を想像することができる、君は自分の心は分からなくてもだ。

退職届を出すのは2度目だった。流産したあの時期。あの時言ってもらえた言葉を今でも覚えている。あの言葉でコピーライターの仕事をしてみようと決意したのだった。

―開高健が昔こういうことを言っていた。《コピーライターに書くべからざる資質は、人の心を想像する力》だってね。付け加えれば、その力は才能じゃなく感性でもない、勉強して養えるものでもない。

彼が鉛筆を回しながら話すと《勉強して養えなかったら才能じゃないんですか》と亜望は訊ねた。すると村沢の答えはこうだった。

「いや、力とは、傷跡だ。それが残っているから力を発揮できる」


《この後、道西エステートコーポレーションに一緒に行っていただけませんでしょうか》

 亜望は藤島にお願いした。

《ご挨拶をしたいもので》

すると、藤島は「わたしも映画でも観てくる」と言った。《自分の好きにしたらいい》という彼と同じ藤島の隠語だった。

 幸運を祈ります……胸の中で強く願ってからデスクで私物の整理にとりかかった。



道西エステートコーポレーションの建物の入り口から亜望が出てくる。快活に歩く姿は穏やかでしかも頼もしい。暖かな日が並木道の木々との連携によって織りなす木漏れ日が顔を照らしている。

いわゆるノープランだ。何より、相手がどこにいるか分からない。そうすると、さっきの発言は相当恥ずかしいことになる。さらに見つかったところで相手は人間ではないのだから致命的なほどどうしようもない……。「専業主婦」とは我ながら飛ばし過ぎたと、亜望は少し後悔した。だけども、笑い飛ばしたくなるほど難題ばかりで、亜望の中には嬉しさも湧いた。「やること」が「この後」たくさんあるのだから。

背筋もまつげもピンと上に伸びている。シルエットもボディラインもほんのりと幸福感が漂い始めていた。思いのほか短時間で答えがでた。

 猫だ。亜望は工房(サロン)にかけ足で向かった―。


《ご搭乗の皆さま、本日も全日航空081便、成田国際空港発パリ=シャルル・ド・ゴール空港行きをご利用いただきまして、誠にありがとうございます……到着時刻のパリの天候は、降誕祭(ノエル)にはふさわしい雪。摂氏6度でございます―》

 メフィストは胸の奥に閉じ込めた思いの扉に杭を打ち込むようにぽんと胸を叩いた。窓から見える最後の日本の景色だ。

 日本人の復興への速さには舌を巻く。どこの世界をさがしてもあれだけのインキュバスの大悪禍(カオス)からこんな短時間で復興できるという精神性の高さには正直感服さえ覚えた。

 今回も解脱は失敗に終わった。

 さらに掟を破って人間に自分の正体を暴露してしまった。よって、もう二度と閻浮提(げかい)に降りることは許されない。死ぬまで地獄の(ほのお)の傍で生きて行く覚悟がしたかった。

 最後に行きたい場所がパリにはあった―。

ライディングコートの生地のドレープ感がいつか亜望の病院に毎日のように通っている日々で見上げた時に目に入った鱗雲を思わせる。

「パリは初めてですか」

 隣のカーディンガンのようにラフにスーツジャケットを着こなす端正な佇まいのロマンスグレーの髪色をした紳士がメフィストに声をかけた。黒縁の眼鏡がかくしゃくたる姿勢で座席に座る彼の威厳を増しているようだ。

 メフィストは返答しようと紳士に顔を向けた。その紳士の隣の窓側には孫ぐらいの年齢の離れた少女が落ち着きなく座っている。

『初めてでは……』メフィストが途中で話すのを止めた……。黒縁の眼鏡の奥の目が合うとその上品な視線にに圧倒されてしまった。

《この世にはあらゆる種の目がある。スフィンクスでさえ、驚くなかれ、目を持っているのだ。つまりは、さまざまな真実があり―その結果として、つまり真実はない》ニーチェの言葉通り、メフィストは白髪の紳士の目に真実を見た。あらゆる真実を超えた真実。

『そろそろ来る頃かなと思っていました。風向きが変わったようですからね』

 メフィストは左翼のウィングレットの先端部分の動きから察知した。

「忙しかったかな」独特の濁声が年輪を感じさせる。

『静かにこうして本を読みながら空の旅をたのしもうとしているところです』

 彼は何者なのか―?

「おじいちゃん! やっぱり怖いよ!」今にも隣の少女が泣き出しそうな声をだす。

「大丈夫だよ。いいものがある」バックから何かを取り出した。

「手のひらをだしてごらん」

 そう言うと取り出した小瓶を逆さまにする。1滴、2滴、3滴。

「手の平で擦り合わせてごらん。そして、笑いなさい」

「笑えないよ!」少女は俯いたまま顔を上げなかった。

『お嬢さん、笑った方がいい。飛行機は愉しいよ』メフィストが話しかける。

 顔を上げた少女は、それから間を少しとって小さく笑った。紳士は、「ありがとう」という目をよこす。

「悪人正機、という真実がある。悪人こそが、つまりそれは君は自分のことだと思っていると思うが、阿弥陀仏の救済の第一の対象となっている、ということだ。ところが、この意味、というのは悪人とは罪人、という意味でなく煩悩から抜け出せない自分に気づいた人のこと―つまり今の君のことなんじゃないかね」

 オールバックにされた銀色の髪が紳士の端正な顔立ちを際立たせ、ブルーの大きな瞳は冷徹さと達観を呈している。

「驚いたかい? 今は仏教の坊さんなんだよ。改宗してね」予言者ゼカリアのような長く豊かな顎鬚を撫でながら言った。

『驚きました……』

『判定は聞くまでもありませんが、パリで数時間過ごさせてください。その後帰ります』

「末法の世と言われているね」紳士は話題を変えた。

「絶対・真理・法則・永劫不滅などを求める人間は非常に危険だと想っている。求めていいのは幸福だけだ。幸福には絶対はない。人ぞれぞれだからね、真理もない。それに永劫不滅もない。だからこそ人は自分の意志で努力して幸せにならなければいけない。分かるね」

 メフィストが肯く。

「万物―それが目に見えぬ歴史や文化というものであっても、ひとつも留まるものはなく流転していく。広がったり収縮したり、時には人為的か自然の選択化で終焉をむかえなければいけないときもある」

『末法ですね。私もそう思います。末法の世、というのは万物が流転することに(あらが)うからこそ、その時代を迎えた。戦争もそう、虚栄心もそうだ、愛でも……』

「天使は悪魔に化け、悪魔は天使に化ける。一貫して善人であることは非常に難しいし、自分を善人であるべきだと信じた瞬間から辛い道を歩むことになるじゃろう」

 メフィストは相手の意図を思い(はか)ることができずに、一度目を閉じて深呼吸をした。

『諦めを勧めているようにも聞こえるのですが、勘違いでしょうか』

「諦めることと諦めないこととは矛盾する。諦めが肝心だし、諦めないことは実に人間的だ。人が溺れている時に前者を説く人間はおそらく村八分にされるし、去っていたものを自分のものにしようと追い回したり、殺人をして自分のものにする人間などは前者を説いてあげた方がいい。いついかなるときも、矛盾して何も真実を産まない。だからこそ、必要な第3の視点があるんじゃよ」

『それは……』

「君の存在だよ―」

どの角度から見ても同じにしないと人間は安心できない生き物になってしまったのかもしれない。なので、絶対・真理・法則・未来永劫の4つを求める。そして、善人だ悪魔だとラベルを貼るというのは全てを縫い目のない球と見るようなものだ。正気な人間、真っ当な信仰の裏には狂気があり、不当な信仰がある。どちらが優れている、劣っていることはない。悪魔は徹底的に忌み嫌われ排除されようとする。だからこそ、いまこの時代に必要なのメフィストの福音なのだ。メフィストの幸福論と存在なくしては、鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世は訪れないばかりか、メフィストが去ったとしても次の悪魔が降臨してくると彼ははっきりと予言する。

「悪魔は人間が作り出したもので悪魔自体が実体のないものだ。君はどうしてあの3人が君のもとへ訪れたと思うかね」

『その問いの答えは……』考えたこともなかった。『恥ずかしながら、解脱のことで頭が一杯でした』

「無理もないかもしれないね―」離陸後すぐに眠りに落ちた隣の孫の髪を撫でてから、メフィストを向きなおす。

「君の解脱は終わりじゃよ」紳士は微笑んでみせた。

「悪魔の存在意義はこれまで数多くの悪業に支えられてきた。君は3人を救った。さらには、大悪禍(カオス)そのものに手を染めなかった。悪魔界からしたら由々しき問題なのだが、それが我々の秘密なのじゃよ」

 メフィストは3人の使者たちを改めて思い出す。最初に出会った森川泰平は死なせてしまった。村沢橙夏を救ったのは自分ではない。さらには、真琴亜望は救うどころか、永遠なる闇に葬り去ってしまった……。

「ところで君の名は」

 痺れてきたのだろうか、左腕を孫が起きないようにそーっと抜き取り、座席と座席のレバーを上げて膝の上にそっと起こさないように頭を動かした。紳士が機内誌を何の気なしに取り開けて開く。

「君の名前じゃよ。わしの名前は玉名(たまな)弥勒(みろく)」機内誌から顔を上げずに言った。

―名前?

 耳を澄ますと、己の頭が濃密な回想に急ぐ音がする。氷の上を走るように滑らかな動きだ。

「君には名前がないんじゃないかね」

『どうして……』 

 意表を突く質問だった。

「彼らは一度たりとも君に名前も聞かなかったし、名前を呼ばなかったろ? 彼らは君の名は知らない……知らないのではなく、知っているんだが、教えられないんだ……」

『教える……』メフィストの身体の中では(たぎ)る衝撃が感覚を麻痺させ始めていた。冷静に考えることを許さない。

『教えてください。なぜですか』

「君は名前を持ってない。わしがいまここで大声で君の本当の名前を読んだらどうなると思う」

メフィストの耳で小声で紳士はおもしろそうに質問した。

「【メフィストフェレス】という名前も閻浮提(げかい)の人間が勝手につけた名前だ。名前はただラベルをはるだけに過ぎない。そうだろ? 君が何者なのか知らなかったわけじゃない。何者なのか知ってたからだ。彼らが君に伝えたかったんだよ、解脱を果たしたとしても、それで終わりではない。一切の束縛を断ち切って輪廻を脱しても、今度は閻浮提(げかい)でめまぐるしく変化する価値観の中で自分を見失いながら、かつて分かっていたことさえも分からなくなるような土地で生きていく。この閻浮提(げかい)に降りてきても解脱はない。疾風のように舞台は変わる」

 森川泰平、真琴亜望、村沢橙夏……。皆、解脱を成功した者たち―。


「そしてその3人との邂逅(かいこう)を果たせたのも君が望んだからじゃよ」

『いや、それは、私の友人の者が調べたと言っていましたが――』

「うん? それは嘘じゃ」

『ヴァイス!?』驚きのあまりメフィストは目を瞠る。

「元悪魔ともあろう君がまんまと一杯食わされたな」

 クピドーがこの私を騙していた……。信じられない。あの単純明快な単細胞の生き物がこの悪魔を騙せるはずがない。メフィストは藁をもつかむ気持ちで合理化しようと試みた。が、次の言葉で払拭された。

「君がずっと抱えてきた疑問があるだろ? どうして悪魔である君が新たな幸福論を持たされているのか……」

『そ、それは』メフィストは静かにコートのポケットに手を入れた。しばらく指で中を弄った。そしてひそかに笑った。

「至上者はなかなか洒落の効く方みたいじゃな」

 玉名弥勒はまたしわがれた声で笑った。刻まれた皺がまるで潮騒のようにやわらかく上下に動いた。

「古い門番の権威を見事に君は葬り去った。わしはさきほど末法の世と言ったね」

『はい』

「末法の世というのは新世界のはじまりでもあるんじゃよ」

『新世界……』

「悪魔の決まりごとを凋落(ちょうらく)させたんだからね。次の新世界では君が人間たちを指導しなければならない」

 創造主であり指導者だということだ。引き返すこはできないのだが、それでも後悔しないのか? メフィストは鼻の頭に皺を寄せながら自問する。

『ひとつお願いがあるのですが』

「何でも言いたまえ」

『女性へのプレゼントは何が喜ぶんですか』

「…………」

 紳士の機内誌をめくる指が止まった。

「驚いた。君が質問している内容は、まるで『ホメロス』を愛読しているのに『マザーグース』が読めないのと同じことだよ」

「答えは自明だ」という意味だとメフィストは捉えた。自分でとにかく考えなければいけない。

 紳士はしばらく雪を踏みしめたときの音のような笑い声で笑った。あまりに体を波打たたせるように笑ったので孫が起きてしまったくらいだ。

「おっ、ごめんごめん、とうか、起きたのか」

「とうか寝てたの」女の子は自分のことを「とうか」と呼んだ。

「そうだよーぐっすり眠ってた」

「そうなんだーよく寝たね。腹減った。気持ちよかった」

「とうか」と呼ばれた少女は伸びをして、欠伸を2度した後、自分の方を見つめるメフィストを見返した。

「どうした」目を丸くしている孫に向かって紳士が心配そうに尋ねる。

「おじいちゃんに似ているなーと思って……その人」

『今……』メフィストが言葉に窮していると、紳士は『ヴァイス』と一言だけぼそりと呟いた。

 意識が交錯した――。目頭が熱くなる。枯れていたはずの涙。蓋をしていた時間が伸びてきてメフィストの心臓をとんとんと叩く。涙がこみあげてくるのを必死に抑えようとしても、背中を判定者(ジャッジ)の紳士はゆっくりとさすったので、後から後から涙が出てきた。その涙はただ頬を温かくした。

「これからが大事な時期だ。人間になることが輪廻転生の解脱の目標ではない」

『新たにその真価を試されることになるんですね』

「そうじゃ。『観経琉』という書の中に、「二河百道」という言葉がある。火の河と水の河を人の虚栄心と私怨に例え、その間にある白い道は極楽に通じる道だ、という意味の言葉じゃ。そんな道を歩く日が人間に来るのだろうか……」

 パリで一か八か。メフィストの足に血が通ってきた。

「あ、あと、それとひとつ言い忘れていた」紳士が自分の額をペチっと叩いた。

 メフィストは何も言わず次の言葉を待った。

「今回、解脱に成功したのには、もうひとりいる」

 ロシア国境を過ぎる頃、メフィストはもうひとりの存在に思い当たった。


 光の都にふさわしく、凱旋門からコンコルド広場までのシャンゼリゼ通りは、黄金の光の海だ。地上を流れるセーヌ川まで光の都を投影する映写機のようなな役目をはたしている。一年中でパリが最も華麗に彩られる日―降誕祭(ノエル)

 家路を急ぐ人波でパリ市内の大通りや駅は沢山の人と車でごったがえしている。マルシェ・ド・ノエルで有名なシャンゼリゼ通りには、ホットワインやタルティフィレットを手にして談笑しながら歩く人々で賑わっていた。

ノートルダム寺院のような外観とステンドグラス窓が美しいサン・ジェルマン・ロクセロワ教会教会の鐘の音が聞こえる。もうすぐ真夜中―。

 メフィストはルーブル美術館の中庭にあるライトアップされたルーブル・ピラミッドを眺めていた。胸に今去来するのは、真実を知った亜望を忘れることができない苦しみと、彼女を失った気持ちと、解脱した自分に残された心細い道への恐怖心。希望は胸のどこを漁ってみたところで見当たらない。かつて一切ぶれることのなかったメフィストの生きるための論理は、一歩進むとどこかにひびが入って、それを修復している間にまたどこかにひびが入るというような、堂々巡りの修行に思えた。

記憶の中では、今の自分と奥多摩で星の姿が線でつながった。星はもともとは閃光はしない。ところが大気を通るから屈折し点滅しているように見える。そしてその光の屈折はとくに雷雨の後に鮮明になるのだ。

はたと全てのことがつながった。人間がどうしてあそこまで感情に振り回され幸福から逃げるようにして生きているのか……。星の閃光は人間が物事をありのままに理解できないことと類似しているのではないか。感情によって物事が見えにくくなったり屈折したりする。覚えていたことを忘れ、意識していたことがどこかへ飛んでいき、自分が朽ち果てていく使い道のない枯れ木のように感じられて人生に絶望する。

(のぞみ)にひびが入るのだ。今の自分のようにひびの入った(のぞみ)を修復しようと自分でやってみるが堂々巡りでひびは拡大していくばかり……。これまで人間は愚かな哺乳類だと思ってきた。ところが、それさえ気づかなかった自分が一番愚かなことを、メフィストは驚愕と諦観を繰り返しながら、ようやく認めたのだった。 


 賑やかな声楽隊に混じって、誰かの声がする―。

「お……い―」

 メフィストの背後から記憶の中の懐かしい小さな声がした。

その懐かしさのガラス玉が割れないようにそっと振り向き、そっと零れないように自分を見つめる人のことを優しく見つめ返した。いたずらに2人微笑みあった。

「嘘だろ」

《あなたのこと探そうと思って、工房(サロン)に行ったら、あの猫ちゃんが何かくわえて持ってきたの。何かなと思ったら、飛行機の便名と時間だったの》

「だからって……パリは広いのに……」

《あれから考えたのよ。あなたにいなくなってもらいたくないの》

 メフィストは小躍りしたくなる気持ちをぐっと抑えた。

《もうすぐあなたがいなくなったとしても、それまであなたとやっぱり一緒にいたいの―》

 メフィストは曖昧に笑った。

《この立ち位置で本当に良かったなん今までも思ったこともない。今もそう》亜望は舌を見つめた。《思えるわけないわよね。もともと早く死にたかったから。でも……》

彼女は照れ笑いをしながら動かす指を止めた。

《わたし、あなたとは生きていけないけど、あなたなしでは生きていけない》

 真夜中のミサに参加する人々の群れが2人の間を行進していく。

《何かを回避すると、さらに何かを回避しなきゃいけなくなって、又次の回避を回避しようすとすると、何かをまた回避の回避しなきゃいけなくなって……》

 黙っていた気持ちを全部吐き出したいのがメフィストには手に取るようにわかった。

《最初のときからそうなの。空港であなたが去っていく時……そーっと心の中で跪いて祈りを捧げるように手を重ねてたの》

「もう、逃げることはないよ!」

 彼女は遠くで照れて目を伏せた。

《最後まで一緒にいて! いいよね? だめだって言ったら殺す》

 メフィストは、一瞬手話を読み間違えのたかと思った。「殺す」と伝えられたのはじめてだったからだ。が、意志を込めて力強く肯いた―。

 玉名弥勒の「二つの海の話」を思い出した。生きることを決めても、死ぬことを決めても、それぞれの海に目を(つむ)って飛び込む。波の頻度も、高さも、幅も、水温も、蠢く「生き物」もまるで異なる生と死の二つの海。悩みは尽きない。幸せも然り。


 亜望はつま先で地面を叩きながら、メフィストを目がけて走った。亜望の涙は多種多様な感情が込められていた。悔しさで胸が埋められて、沈黙の三点が頭の中に抑揚のない音符のように続いた後、後悔したくなくて家も会社も日本も飛び出したのだ。目の前の愛する男を少しの間なりとも離そうとしてしまった自分に少し腹が立っていた。

―走った勢いが強過ぎたのか、止まれずに、彼に真正面から飛びついた―。周りの目も気にせず。光の都に愛する男女が加わった。

《わたしを選んでくれてありがとう》

 彼は泣いた。泣いている。

《あ、ひとつ言うの忘れてた》

「まだ何か驚かせるようなことが? もう心臓がもたない」

《怒らないで聞いて。その……あの……》

「早く戻らなきゃいけないから急いで」

《その……猫ちゃんが逃げちゃったの》

「…………」

《ごめんなさい! ドアのところ開けっ放しにしていたら、気付いたら走って外にでていって、追いかけたんだけど、みあたらなくって……》

「…………」

 亜望が泣きそうな顔になっていると、彼は優しく白い息を吐いた。

「そうか……逃げたのか……」

ふと亜望の顔が真剣さを増した。もうひとつ言わなければいけないことがある。

 メフィストは亜望の提案に快く快諾した。


ひざまずく。【受胎告知】の大天使ガブリエルのように、右手をそっとあげて、右手の人差し指と中指を立てて、Vサインのような形をつくり、亜望の子宮のあたりを柔和な視線を送った。30秒ほどそのままの姿勢をとってから、聖母マリアへの祝福の意を表し、天に向かって叫んだ。

「アレルヤ!」

 はらはらと雪に混じって白いスカーフが空から落ちてきた。雪の上の白い布を拾ったメフィストは、躊躇なく自分の首に巻いたのだった。

―彼の声が響いたのは地上だけではない。教会の上から2人が抱き合って喜んでいるのを見ていたクピドーとイカロスにも届いたのだった。

『イカロス、みたか!』

『やりましたね!ついに』

『天使が見えるぞ。それもたくさんだ! あいつらの周りに』

『本当ですね! まるで夢物語だ』

『あいつはその強大な呪われた魔力によって多くの人間の魂を奪ってきた。だけど、あいつは誰にも言ってなくて、俺だけが知っていることがあるんだよ』

 クピドーはパリの光を全身で浴びるように手を広げた。

『なんですか』

『昔、大阪での失敗のあと、あいつが表情ひとつ変えずに俺に金を貸してくれ、と言うんだ。珍しいから理由は訊かずに貸した。後をつけたんだが、あいつは地獄の(アケロン)の渡し守――守銭奴で健啖家のカローンに金を渡していた。カローンなんて奴に金を渡して何になるのか全然分からなかった。そしたら、ある日ランチの時に隣テーブルで小難しい錬金術なのか科学なのかわらからない本を読んでいたグラシャラボラスとバベルが話を耳に挟んだんんだよ。『おい、最近起こった閻浮提(げかい)での大悪禍(カオス)で死んだ人間たちを全員無償でカローンが河を渡らしてやったらしいぞ』って。で、俺は今わかった。あいつ、おれから借りた金をカローンに渡して、全ての死んだ人間の魂が例え地獄でも罰は与えられないようにしたかったんだ。時々遺族が埋葬の時にコインを口の中にいれてやるのを忘れる場合も多かったから、それを見越していたんだろう」

『それにしても……』イカロスが鼻をひくひくさせながら訊いた。

『何か特別にメフィスト様に精油(オイル)をブレンドしていただいたのですか? 何か……こう、変わった匂いが今日はクピドー様からしてくるのですが』

微かに()()が聴こえてくる。深く遠く、そして威容を呈した音だった――。



 二人は帰国した。

 彼は工房(サロン)のこともあるし、行かなければいけないところがたくさんあると言うので、亜望はひとりで岡山県の実家に向かっていた。玄関をあけると佐智子がテレビをつけたまま歩いてくる。見るからに凍るような視線を亜望によこした。

《佐智子さん、ちょっと話があるんだけど、いまいいかな》

 亜望は張り付くような視線で彼女の目を見返した。その視線はいままでの相手の心情の煮え加減を恐る恐る確認するようなそれとは異なっている。

 真琴家の権力階級では上に位置していると自負していた佐智子は、動揺を悟られまいと、力を振り絞って無言で怪訝な表情に自分の顔を押し込むように、七回忌の時よりもしめやかに腕を居間の方へと向けた。

 亜望は居間に通されると、座布団をどかして畳に座った。

彼女はさきほどまでテレビを見ていた座布団の上に座り直す。威力に(すく)みそうになるのを我慢しているのは座布団の角房をいじっている姿を見ればわかる。

「お茶だしましょうか」

 明らかに出したくない気持ちが伝わってくる。

《大事な話なので》ゆっくり深呼吸すると亜望は話しはじめた。《父はいまどこに》

「夫が近くの公園に散歩に同行しています。もうそろそろ戻ってくるはずです」

《弟が帰ってから話すべきことなんだけど、あなたにまず最初に話しておくのが筋だと思うから、まずあなたにお話します》

「何でしょうか。手短にお願いします」

 別段忙しくないのにもかかわらず、彼女が防御の姿勢を見せる。

《わたし、父と一緒に住みます。この家で》

 最初の一言は東京を出る時に既に決めてあった。。

「な、何を、急に、言っているんですか」怒りと驚きが入り混じった表情で相手の目を刺すように視た。

《あなたにはずいぶんと迷惑をかけました。子供2人を育てながら、父の介護をするのはとても疲れた……いいえ、そんな言葉では足りないくらいに。ごめんなさい》

「…………」

《本当に血がつながっているのに。お互いのことをどこかで一生理解できないものだと思っていました。何の感情ももてなかった》

「何から聞いていいのか、全く意味不明なんですが」彼女は低く抑えた声でゆっくりと言った。「狙い……いや、理由を話してください」目には怒りがしっかりと込められている。

「亜望さんは、このままどうか東京で仕事して生きていてください。何が、問題なんですか? 貯金があるにせよ、あれだけ毎月仕送りできて、しかも海外旅行に頻繁に――」

《落ち着いて聞いてくれますか》

 相手を鎮めようと間をあける。

「落ち着いてます。だいたい、なんで戻ってくるんですか? 仕事クビになったんですか」

《辞めましたけど、フリーランスでやっていきますので生活には困りません》

「じゃあ、何が狙いなんですか?」彼女は今度は言い直さずに亜望を牽制した。

《ただ、娘として父の看病をするだけ》

「そんなこと…これまで…娘らしく生きてきた人が言える台詞ですよ……」

 テレビの音量をわざと大きくした。

「お義父さんは一度だって亜望さんの名前を呼んでいません」

《そんな簡単なものじゃないわ》

「じゃあ、どうして」

 相手がようやく順序立てて、理由を言える態勢が整ったようなので、もう一度深呼吸してから亜望は手を動かした。

《いま、父の薬はたしかアリセプトでしたよね》と訊ねると、彼女は訝しそうに頷く。

《まずその薬の投薬をやめたいの》

 彼女は再び防御姿勢に変わった。

「ばかなこと言わないでくださいよ。何か悪い宗教にでも勧誘されたんじゃないんですか」

 さきほどよりも、もっと侮蔑を込めた言い方をした。

「鬱がひどくなるんですよ。薬を飲まないと。突然、『ここは誰の家だ』とか『そこに死神がきている』とかいうレベルならまだ笑えます。でも……突然、しかも夜中に怒り狂って、ものを投げたり、孫を突き飛ばした……分かりますか? これがどんなに辛い……。普段看病している相手に自分の子供に手をあげられる気持ちが……」

 涙を浮かべた彼女が早口にまくしたている。

「いっつもわたしはね、眠る前に包丁を金庫にしまうんです。そういう恐怖が……ったく、いい加減にしろ!」

 彼女は涙をこぼさないように少し間をあける。そして喋り続ける。

「夜中に起きて、夢遊病のように動き回る。何度か交番に保護されたこともありました。その時は、まだ結婚したてで、お腹に長男がいたものですから、夫だけ夜も眠れず見張っていました。あの頃からです。夫がいつどうなるか分からないので車を運転できるように大好きなお酒をやめたのは」

 七回忌の時に弟はグラスにビールがずっと同じ量で残っていた。亜望は予想はしていたが、顔面が蒼白になってくる。いまさらかもしれないが、目に見えない不幸を父は周りに無意識に拡散していると再確認した。無意識だから許されるというわけではない。人間はどこまでも人間であり、動物にはなれない。年をとって呆けたからといって、突然猫のように何でも他人が許してくれるなんてことはありえないのだ。

 彼女は俯いていた顔を上げると、亜望を睨みつけた。嫌悪感を隠すことにもはや限界がきたのだろうか、身体全身に緊張を走らせ、嫌悪感を匂わせた。

 聞くと、実家のあらゆるカーテンが無地に変えられたのは、思い出せば、隆太郎の幻覚を防ぐためだった。色や柄があるものが視界に入ると幻覚につながり易いという指導を母が受けてきたのだ。それ以降、家の中のデザインはシンプルになった。とすると、彼女や子供たちがテレビを見られる時間も限られている……。

《この前……帰ってきた時に、目を視て分かったの。あんなに目や頬が黄色くきばんで、窪んでやせこけて、顎がとがった父でも、きっと、もう何かを食べたり飲んだりするのが障害があるんだと分かった。でも、本当に一瞬だった……手の震えをしっかり片方の手で押さえるようにしてたの。あれを見て、まだ父は娘の前で強い父を演じようとしてくれているって》

「実の娘だからといって、看病してよくなるわけじゃないんですよ」

《看病のためでもないのよ、それが》

 夕方を告げるアナウンスが聞こえてきた。いつのまにか西日も沈みそうになっていた。亜望は両手を膝の上に置きなおす。

 ショルダーバックから何かを取り出した。それは、ディフューザーとふたつと茶色い瓶。

精油(オイル)なの。これを経口したり、肌にぬったり、拡散して香りをかいで、父の認知症の状態を近くで視ていたいの。嘘だと思うかもしれないけど、色々な病気が香りで治ることがあるんです。必ず効くと思うから―》

 庭に植えてある無花果の実は食べごろになるまで後2、3カ月はかかるだろうか。子供の時から秋によく食卓に並んで食後に家族で談笑しながら食べた情景をつぶさに亜望は思い出す。

《五感のうち嗅覚だけが直接脳に繋がっているんです》

「何の話なんですか? 五感って……」

彼女が右手で足の裏をつまみながら聞いてくる。

もう一度亜望はゆっくりと同じことを言った。

《実は、アレルギー鼻炎を精油(オイル)で治したんです。薬は即効性はあるけど、やっぱり腎臓や肝臓に与える影響は無視できないものがあるらしいの。わたし、じつは卵巣膿腫なのね。しかも悪性の。正確には「だった」のね》

彼女の目から怒りが少し薄れたようだ。

《もちろん子供も産めない身体だし。とにかく、その卵巣脳種が改善してきたの》

 亜望はそれから具体的に説明した。亜望の卵巣は子宮内膜症・脳腫に疾患していた。見つかったときは既に膿腫は65ミリを超えていた。しかも悪性に変わったのがパリ旅行の10日前のこと。さらに大きくなると、他の臓器を圧迫してしまうので、手術の日取りを決めなければいけない状態だった。手術は卵巣の全摘出が決定的だったのだ。

 徐々に膿腫が小さくなるのに1年以上かかったが、植物状態のときもメフィストはお腹に塗っていてくれたとパリからの帰りの飛行機で話をしてくれた。

 レビー小体病はいくつかの神経細胞が壊れて減少することで神経を上手に伝えられなくなる。それにつれて認知症の症状が起こる。視床下部――いわゆるホルモンのコントロールセンターがそこでその神経伝達物質の生産を行っているわけだが、持参した精油(オイル)は直接その嗅覚の刺激に返答する視床下部を刺激することができる。

 亜望は相手の反応を真正面から観察した。

 理解は十分でないかもしれないが、さきほどまでの嫌悪感は消えている。《お願いします》亜望は額を畳に擦りつけるように頭を下げた。

《お願いします、長時間ここに住むことになりますが……お願いします!》

いつもの居丈高な物腰を隠し、静かに彼女は立ち上がった。

「お茶いれてきます。電源はそこです」

彼女が台所に入っていくと、亜望はガラス製のディフューザーを畳の隅で試そうと、茶色の瓶を数滴垂らしてから、コンセントにプラグを差し込んだ。

バジルとペパーミントの感覚を研ぎ澄ませるようなシャープの香りが部屋中に拡散していく―。

瓶の中身はカルダモン、ローズマリー、イランライン、ジャスミン、ゼラニウム、パルマローザなど10種類以上。

別々の場所にいる彼女と亜望の脳天にも鼻から突き抜けるような清涼感が届くと、2人は思わず目を閉じる。そうして、しばしお互いの存在を忘れた。

 弟と子供たちと一緒に隆太郎が帰ってくると、挨拶も適当に済ませて、小走りで車いすの傍まで進みそっと腰を落とした。

「あねき……」

 弟が訝しそうに視ている。子供たちは我関せずで、階段を上がっていった。

「あなた」と2回言って彼女が制す。

 亜望は、2滴手の平にとり、隆太郎のこめかみに塗り始めた。

「お、とうさん、つ、ぐ、み。さいしょ、は、ずつう、する、けど……それは、からだ、の、なかの、どくを、ぬくため、だよ。か、らだの、なかに、たまっ、ちゃた、どく、を、ぬい、て、よく、なろうね」

 とぎれとぎれに喋った。一生懸命に喋った。声は、(おり)混じりのダミ声に近かった。顎の骨が悲鳴を上げていた。が、やめなかった。隆太郎の手をとって、強く握った。こんなに強く握ったのは、子供の時以来だった。よく手を握って買い物をしたあの頃。

 涙が(せき)を切る。怒りを、自分へと他人への批判を、恐怖を、不安を、しがみついて生きてきた過去の(わだち)を、これまでのすべての自分を制限してきた感情を受け入れようとすることで、手放そうとしていた。

「お義父さん、亜望さん、ここに住むのよ。最初は頭痛がすると思うんだけど、それは身体の中にある、毒を抜くためだから。抜いたら、病気治りますよ!」

 潤んだ瞳の彼女が、隆太郎の手を握る亜望の手の甲の上から自分の手を重ねた。


 一縷の風が視える。

 絶好のデクレッシェンド。風の音が瞳を濡らす。親子は顔と顔を近づけた。徐々にたちこめる霧と輝く太陽。薫香が空気に色をつけていく窓の外の景色を、胸の底の砂に刻み込むように見つめた。その色はだんだんと濃く、だんだんと明瞭だ。塊のようなものが、太陽に下から近づいているように見えて、目をこすった。


 ――幸運を祈るわ。お父さん――そう、娘は胸の中で彼に祈った。



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