92 姫君の憂い
振り向いた私の前に立っていたのは、しかし男ではなかった。
一言でいえば、しゃべるケモノだ。
体長は1メートル20センチくらい、体高も同じくらい。ぱっと見はガタイのいい山猫って感じ。全身に虎じまがあって、とがった耳と長い尾、四つ足に鋭い爪が光っている。
彼はダンビュラといい、私の同僚だ。クリア姫の護衛として、殿下に雇われている。
見た目ケモノなのに言葉を話せる理由は、彼が元は人間であり、今からおよそ300年前、魔女の呪いによって姿を変えられてしまったからだと。殿下には聞いている。
そんなこと信じられない――と言われても困る。私だって、頭から信じているわけじゃない。ただ、信じようが信じまいが目の前の現実は変わらないので、深く考えないようにしているだけだ。
そのダンビュラは、玄関ホールに山と積まれた衣装ケースを見て、もう1度「なんだ、こりゃ」と繰り返した。
「やけに騒がしかったが、誰か来てたのか?」
騒がしいのに気づいていたなら、もうちょっと早く様子を見に来ればいいと思う。この護衛、イマイチやる気がないっていうか、アテにならないんだよな。
ただ、彼がクロムと顔を合わせずにすんだのは幸いだった。
2人は仲が良くない。会うたび、無益な言い争いを繰り返す。多分、近親憎悪ってやつだと私は思っている。口が悪いところとか、ガラが悪いところとか、あまり品が良くないところとか、似てるし。
「殿下から、クリア姫へのお届け物らしいですよ」
私が答えると、ダンビュラは「はあ?」とわけがわからないという顔をした。
そんな顔されたって、私にもわけがわからない。
「あ、もしかして。今度の夜会で使う、とか?」
王国では年に2度、夏至と冬至の日にひらかれる特別な夜会がある。
別名「魔女の宴」。
……念のため言っておくと、別に怪しい集まりではない。
生け贄を捧げたり、悪魔を呼び出したり、そういう怪しい儀式も多分しない。
大昔から続く伝統行事で、出席者は身分の高い女性に限られる。
要するに、王族とか、名家のご令嬢やご婦人たちが参加者ってことだ。国王の娘であるクリア姫も、当然出席する。
「夜会で着る服なんざ、こんな山ほど要るか?」
……まあ、それは。お色直しを何回したって、使いきれないくらいあるのは確かだ。
「それより、最近嬢ちゃんが落ち込んでるから、じゃねえのか?」
クリア姫が落ち込んでるから? ……つまり、贈り物をして元気になってもらおうってこと?
「物で機嫌をとるって、定番だろ」
「……何の定番ですか」
言いたいことはわからなくもないが、こんな金に物を言わせて、みたいな贈り物、カイヤ殿下のイメージじゃない。
あの人が贅沢してる姿なんて、少なくとも私は見たことがない。そういうところは全然王族らしくないんだよね。むしろ庶民的というか……。
ただ、このところ、クリア姫の元気がないのは事実だ。
原因は、しばらく前に王宮内で起きた事件である。
クリア姫の異母姉であるルチル姫が行方不明になり、結局は無事見つかったのだが……その過程で、色々あったのだ。
「そういえば、クリア姫。具合はどうですか?」
今日も朝から気分が優れない様子だったので、昼食の後に仮眠をとってもらっている。
ダンビュラは「ぐっすり寝ていた」と答えた。
「もうしばらく寝かせといてやれよ。ここんとこ、まともに眠れてなかったみたいだからさ」
「そうですか……」
大人びているとはいえ、まだ12歳なのに。夜もまともに眠れないなんて……胸が痛くなる話だ。
「姫様の元気がないのって、やっぱりこの間のことが原因……ですよね?」
ちらりとクリア姫の部屋の方を伺ってから、「どうなんだろうなあ」とダンビュラは首をひねった。
「悪ガキにようやく天罰が下っただけで、あそこまで落ち込むことはねえと思うんだが……」
いや、天罰って。
「ダンビュラさんと一緒にしないでくださいよ。姫様は繊細なんですよ?」
ルチル姫が悪ガキ、というのは嘘じゃない。天罰が当たっても仕方がないような行いをしていたこともまた、事実だ。
ルチル姫には手下のような護衛のような、取り巻きの少年が5人居た。
彼女はそのうち1人に対し、暴力を振るっていたのだ。それも人目につかない場所で、繰り返し。
その少年が耐えかねて反逆し、ルチル姫にケガを負わせた。さらに、事件の発覚を恐れた他の少年たちが、ケガをした彼女を隠し部屋に閉じ込め、放置してしまった。
天罰などではない。人間同士の揉め事であり、事件である。
しかも、事件のことを知った大人が――クリア姫にとっては叔父に当たる宰相閣下が、それを政治的に利用しようとした。
ルチル姫の醜聞を国民に広めるため。
彼女の母親や、その義父である騎士団長を失脚させるため。
宰相閣下は、幼いルチル姫の命を見捨てようとした。
結果的にそうならなかったとはいえ、クリア姫にとってはショックだったはずだ。
見捨てようとした側も、見捨てられそうになった側も、彼女にとっては血縁者なのである。ダンビュラのように気楽に、「悪ガキに天罰が下った」なんて思えるはずがない。
「俺はあんたより嬢ちゃんとの付き合いが長いんだよ」
だからクリア姫のことは自分の方がよくわかっている、とでもいうように、ダンビュラは断言した。
「嬢ちゃんがああやって落ち込む原因は、だいたい決まってるんだ」
兄貴だよ。
カイヤ殿下だ、と。
殿下とケンカしたとか、何か迷惑をかけてしまったとか。
「嬢ちゃんは重度のブラコンだからな」
重度のって……まあ、嘘じゃないけど。
私が聞いた話によれば、クリア姫がブラコン、というかお兄ちゃん子になってしまった原因は、彼女の生い立ちにあるようだ。
父親とは縁が薄く、母親は病弱で閉じこもりがち。
人里離れた離宮で生まれ育ち、8歳の時にお城に移り住んでからは、この庭園からほとんど出たことがない。
つまりクリア姫の世界は、いまだ狭い。
その狭い世界と、12年という短い人生の中で、最も自分を大切にしてくれた存在がカイヤ殿下で。
クリア姫の小さな世界の中心には、大好きな兄殿下が居るのだった。
「だけど、今回は別に……殿下とケンカしたわけでも、迷惑かけたわけでもないですよね?」
カイヤ殿下がルチル姫の命を見捨てようとしたとでもいうなら、あの優しい兄が、とショックを受けることもあったかもしれないが、現実は逆だし。
もう1人の兄であるハウライト殿下だって、子供を死なせることには、なんだかんだで消極的だった。
1番非情なことを言っていた叔父の宰相閣下でさえ、ただの冷酷な人には見えなかった。
……なんか、昔、色々あったようなことも言ってたし。
自分が過去にひどい目にあったからといって、他人の命を軽んじてもいい理由にはもちろんならないだろう。
でも、それを安易に責められないくらい、あの時の3人の間には重たい空気が流れていた。
「……って、ダンビュラさん?」
返事がないと思ったら、いつのまにか山猫もどきの姿が消えていた。
言うだけ言って居なくなってしまったのか。勝手な奴。衣装ケースだって片付けなければならないのに、少しは手伝おうとか思わないんだろうか。
私はあらためて、衣装ケースの山を見上げた。
……無理だ。どう考えても、1人でどうにかできる量じゃない。
クロムは「後で殿下が寄る」って言ってたし、その時にどうすればいいのか聞こうっと。
そう決めた私は、さっさと台所に引き上げた。昼食後のお皿洗いが途中だったからだ。




