85 鏡の向こう3
「とっさの判断にしては大したものでしょう」
説明を終えた宰相閣下は、まず事件を主導した密偵の少年のことをほめた。
「きっと大成するよ。彼は騎士団に入りたがっていたから、いずれ推挙してやるつもり」
にこやかに語る叔父の前で、甥2人は沈黙している。
兄のハウライト殿下はたいそう複雑な顔で、弟のカイヤ殿下はいつもの無表情で。
先に口をひらいたのはハウライト殿下の方だった。
「しかし、それは……。やはり、後で問題にされるのでは……」
このままルチル姫が発見されないはずはない。
彼女を隠したのは、所詮10代の少年たちだ。
彼らは当然、関係者として事情を聞かれているはず(というか、その聞き込みに当たっていたのはカイヤ殿下のはずだが)。今は恐怖から沈黙していたとしても、いずれボロを出す。
「それでいいんだよ、ハウル」
宰相閣下は上機嫌だった。
「この件は公になった方がいいんだ。事件が明らかになって困るのは私たちじゃない。むしろ、アクアや国王陛下の方だよ」
仮にも王女ともあろうものが、臣下の子息に陰湿な暴力を振るい続け、挙句、返り討ちにあって死んだ。
本来、彼女を諫めるべき国王陛下も、母親も、そのあるまじき行いを放置していた。
醜聞である。
それは、ルチル姫の姉であるフローラ姫を次の国王に、と推す人々にとって、致命的な醜聞となりうる。
「そんなろくでなしの妹が居る姫君に国を継がせたいだなんて、どこの誰が望むだろう」
この件はタイミングを見て、いずれ公表するつもりだ、と宰相閣下は言った。
事件の衝撃の前には、細かい成り行きを問う者も居ない。仮に居たとしても問題ない。先にフローラ派に致命的な一撃を与えてやることができれば、ルチル姫の取り巻きの1人に自分の息がかかっていたことくらい、もみ消すのは十分可能だ、と。
「これはチャンスなんだよ、ハウル」
宰相閣下の声が熱を帯びる。
敵が演じてくれた失態。これを利用しない手はない。リスクがないとは言わないが、うまく事が運べば、政敵に完全勝利できる。
「悪い話じゃないだろう?」
「それは……確かに、そうかもしれませんが……」
ハウライト殿下はいかにも歯切れ悪く答え、横で黙ったままの弟をちらりと見た。
兄の視線に気づいたのか気づかなかったのか。カイヤ殿下は、とても静かな表情で言った。
「そのために、ルチルは死ななければだめなのか」と。
「事件を公にするだけではだめなのか。ルチルの命を助ければ、アクアに恩を売ることもできる。相手の醜聞にもなる。良いことづくめな気がするが」
もっともな意見だと私は思った。
しかし、宰相閣下は首を横に振った。
「それではだめだよ。話として弱い。ルチル姫が城内でケガを負った、というだけなら――それでもまあ、醜聞には違いないけどさ」
幼い姫君が、親子ともどもの愚行の果てに、救いようのない死を遂げた。その方がはるかに衝撃的だ。
「だからルチル姫には気の毒だが、助かってもらっては困る」
「…………」
カイヤ殿下は貝のように口を閉じてしまった。
その横顔を、心配そうに見つめるハウライト殿下に。宰相閣下が問いかける。
「おまえはどう思う? ハウル」
「は。それは……」
口ごもる甥に、宰相閣下は畳み掛けるように言った。
「これは本当に千載一遇の好機なんだよ。こちらが何もしていないのに、向こうが勝手にやらかしてくれた。こんなチャンスは、もう来ないだろう。これを逃したら、おまえは王になれない――なんてことは、無論ない。どちらにしても、私は力を尽くすつもりでいるよ。それでも、いつ王になれるかは不透明になってしまうだろう」
「…………」
「おまえだけじゃない。おまえに従う者全員の先行きがかかっているんだ」
「…………」
「頼む、決断してくれ。おまえが決めれば、カイヤだってそれに従うよ」
「!」
ハウライト殿下のまなざしが揺れた。
自分の名前が呼ばれたからだろう。ゆっくりと、カイヤ殿下の目が兄殿下を見る。
「兄上、俺は――」
「先に私に言わせろ、カイヤ」
弟の言葉を遮り、1度小さく深呼吸してから、ハウライト殿下はあらためて口をひらいた。
「私は、叔父上の仰ることは正しいと思う」
だが、と逆説を挟んで、
「それでもなお。このままルチルを見殺しにすることに、強い抵抗を感じているのも事実だ」
つまり私は迷っている、とハウライト殿下は言った。
「おまえの意見を聞かせてくれ。今の叔父上の話を聞いて、気持ちは変わったか? おまえがルチルの命を救うことにこだわるのは、叔父上の手を汚したくないからだと言ったな。それは私たちの今後の命運を賭けてでも、貫き通さなければならない想いか?」
兄殿下の長い問いかけに、さすがのカイヤ殿下も即答はしなかった。
考えて――考え続けているカイヤ殿下に、宰相閣下が言葉をかける。
「お願いだよ、カイヤ。今回だけは私の頼みを聞いてほしい」
「……叔父上」
「私は今まで、おまえに何か頼み事をしたことがあったかい? 思い出してみてくれ。……1度も、なかったよね。一生に1度の頼み、なんて安いセリフ、本当なら言いたくないけどさ。今ここで使わせてもらう」
どうか、私の頼みを聞いてほしい。
「…………っ!」
カイヤ殿下は、きゅっと両の目を閉じた。
同時にクリア姫が、自分の両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
沈黙は長かった。
1分、2分? もっと長かったかもしれない。短かったかもしれない。
やがて瞳をひらいたカイヤ殿下は、ゆっくりと答えを口にした。
「叔父上には感謝している」
唐突で、無関係なセリフ。
だけどそれを聞いた宰相閣下は、平手打ちでもくらったようにつぶらな目を瞬いた。
「俺が今日まで生きてこられたのは、叔父上のおかげだと――」
「やめてくれよ、そういうの。私はおまえを、おまえたちのことを、1度は見捨てた人間だよ?」
感謝される理由なんてない、と早口で言いつのる宰相閣下に、
「そうか。見解の相違というものだな」
カイヤ殿下は、殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺は叔父上に感謝している。叔父上がどう思っていたとしても、それは変わらない。だから叔父上のために、自分にできることがあるならしたいと思う、が」
が。
私は鏡の向こうのカイヤ殿下を見つめた。
カイヤ殿下は、宰相閣下を見ている。心なしか、黒い瞳が憂いを帯びていた。
「今の頼みにうなずくことは、俺にはできない」




