55 裏か表か1
――その夜遅く。
私が使った水を捨てるため、お屋敷の外に出たちょうどその時、暗い夜道をこちらにやってくるカイヤ殿下の姿が見えた。
「よかった、来てくださったんですね」
もう少し遅かったら、玄関に鍵をかけてしまうところだった。
殿下は小走りで近づいてきた。「クロムが知らせをくれたからな。クリアが熱を出したと」
そうなのである。
私たちが王室図書館から帰ろうとした時、何だか元気がないと思ったら、顔が赤くて……ふれてみると、ひたいが熱かった。
パイラの話では、わりとよくあることらしい。体が弱いというのではなく、「姫様は頭が良すぎる上に、物事を思いつめすぎるから」だそうだ。
以前診断したお城の侍医は、「一種の知恵熱」と言ったとか。
原因は多分、昼間の出来事だろう。
ルチル姫がワナを仕掛けてきたこともそうだし、その後ハウライト殿下と話したことだって、内容が内容だ。
本人はだいじょうぶだ、だいじょうぶだって言ってたけど、まだ12歳。
無理してたんだろうな、きっと。
「一応お夕食は食べてくれました。でも、まだけっこう熱が高くて、つらそうで」
「そうか、わかった」
私の話を聞いたカイヤ殿下は、すぐに妹姫の部屋へと向かった。
クリア姫はベッドの上で、冷やしたタオルをおでこに乗っけて目を閉じていた。
顔が赤く、呼吸は苦しげだ。
カイヤ殿下の気配に気づくと目を開けて、「にいさま……」とか細い声で呼んだ。
「具合はどうだ、クリア」
殿下がベッドの横に膝をつく。
だいじょうぶですとクリア姫は答えた。「それよりも、兄様。何か御用があったのではないのですか?」
クリア姫は、熱で潤んだ瞳でじっと兄殿下を見つめた。「私は平気ですから、御用があるのなら戻ってください」
けなげな王女様だ。だけど、クリア姫の顔は見るからに不安そうで、その手は兄殿下の手をすがるように握っている。
言っていることと態度が裏腹だよね。本当は、お兄さんにそばに居てほしいんだろう。
殿下もそれはわかったみたい。
「用はもう終わった。今夜はここに居るから安心しろ」
「…………」
一瞬、クリア姫の顔が歪んだ。
ホッとしたような、兄に迷惑をかけるのがつらいというような、何とも切ない表情であった。
そんな妹姫の頭を「寝ていろ」と優しくなでて、殿下は立ち上がった。
「パイラはどうした。もう寝たのか?」
「え? ……どうでしょう。さっきはまだ起きてましたけど……」
クリア姫の看病は、私1人ですることになっている。パイラも手伝うと言ってくれたのだが、2人で1人看病するんじゃ手が余るし。
と、ちょうどその時、開いたままになっていたドアの外にパイラの顔がのぞいた。
メイド服は着替えて、夜着の上に薄いカーディガンを羽織っている。スタイル抜群の彼女がそんな格好をすると、同性の私でもドキドキしてしまう。
「殿下、お見えになったんですね。よかった」
「?」
「少しお時間をいただけませんか。お話ししたいことがあるんです」
話? 今、このタイミングで?
何だろうと私は首をひねったが、殿下はすぐに「わかった」とうなずいた。
「兄様……」
心細そうに呼びかける妹姫に、「すぐ戻る」と言い残し、パイラの後について部屋を出て行ってしまう。
ひらりとひるがえったパイラの夜着のすそが、白い残像を残して。
何だか、心が波立った。
だいじょうぶかな。……いや、何がって……。パイラさん、まさかこんな時に殿下に告白? とかしないよね?
彼女はもうすぐ人妻になるはずの女性。他の男性に告白なんてするはずがない。しかし、昔、読んだ小説にこういうのがあった――。
親の薦めで、とある貴族の御曹司に嫁ぐことになったヒロインは、挙式前日、ひそかに想う相手を呼び出して、想いを告げる。
自分の片恋に決着をつけるために。
だけど、実は告白された相手も同じようにヒロインのことを想っていて、2人は道ならぬ恋に踏み出してしまう。
妄想にふけっていたら、クリア姫が小さく咳をした。
さっきまで寝ていたはずなのに、いつのまにか上半身を起こしている。
「ちょ、姫様。寝ないとだめですよ」
私はクリア姫をベッドに横たわらせた。
「すまぬ……」
おとなしくベッドに入るクリア姫。「昔読んだ本のことを思い出して……」
おや、そうですか。奇遇ですね。……まさか、自分と同じ本ってことはないですよね?
「パイラは兄様に何の話をするのだろう……」
つぶやくクリア姫の横顔が、妙に大人びて見えて。なんとなく動揺した私は、
「さあー? 明日の朝ごはんのお献立とかじゃないですか?」
と、かなり的外れな答えをしてしまった。
「…………」
沈黙が気まずい。
「えっと、冷たいお水を汲んできますね」
水差しの乗ったお盆を持って、逃げるように部屋を出る。
台所に行き、水差しに水を汲む。
ついでに、氷も出しておこうかな。姫様、だいぶ熱が高かったし。
氷室を開けて氷の塊を取り出し、ボウルに乗せてピックで砕く。砕いた氷を袋につめて――。
「エル・ジェイド。ここに居たか」
声に振り向くと、リビングのドアからカイヤ殿下の顔がのぞいていた。
「あ、殿下。パイラさんは」
「先に休んだ」
ということは、話とやらはすぐに終わったのか。
殿下の様子はいつも通りだった。私がさっき妄想したような、色恋の気配は微塵もない。
……そりゃそうだよな、姫様が病気の時に。何考えてんだ、自分。
「おまえも休んでいいぞ。クリアの面倒は見ておく」
反省する私に、殿下は思いがけないことを言い出した。
「え、あの。そういうわけには」
「ただの発熱だ。2人も手はいらんだろう」
そりゃそうですけど、雇い主を働かせてメイドが寝るって、それはない。ないですよ。
「その雇い主が構わんと言っている」
殿下は全く引き下がらない。それどころか、「クリアの所に持っていくのか」と私の手から水差しを取り上げようとしたので、とっさに後ずさり、その手から遠ざけた。
「姫様の看病は私がしますから、殿下はお休みになってください」
きっぱり告げる。
「…………」
殿下は一瞬押し黙ったが、ふっと肩を落とし。
「この状況で、眠る気になれん」
まるでため息のような声で言った。「やらせてくれ。頼む」
「この状況」って、つまり……。
ルチル姫とのゴタゴタに疲れて熱を出してしまった妹姫を放って、のん気に寝てなんかいられないって?
その気持ちはわかるし、真摯な「頼む」の一言には心が揺れた。殿下に看病を代わってもらうべきか? とも思った。
でも、それって正しいのかなあ。
殿下がまた徹夜なんかしたら、クリア姫は絶対、自分を責めるし。
それに一応、自分にも仕事を引き受けた以上、プライドというものがある。休めと言われて、はいそうですかというわけにはいかない。
「……わかりました。では、こうしましょう」
私はスカートのポケットに手を突っ込み、薄汚れた硬貨を1枚、取り出した。
「私と勝負してください、殿下。――裏か表か。殿下が勝ったら、姫様を看病する権利をお譲りしましょう」




