45 夜の庭園1
本を何冊か借りて、クリア姫の部屋を出た私。
その後はパイラの所に戻り、夜、寝る前の仕事――かまどの火の落とし方や、戸締まりの仕方なんかを教えてもらった。
時刻は午後9時を過ぎていた。寝るにはまだ少し早い時間だが、
「初日で疲れたでしょ。今日はもう休んで」
というお心遣いをいただき、休ませてもらうことになった。
私に与えられた客間は、1階の奥にあった。
ベッドとクローゼット、机と椅子が置いてあるだけの、一見すると質素な部屋だ。しかし家具やじゅうたん、窓にかけられているカーテンなんかはさりげなく上質なものである。
1人になった私は、着替えもせず、ベッドに身を投げ出した。
「はあ……」
深々と息を吐き出す。
――なんという濃い1日だったのか。
カイヤ殿下と「魔女の憩い亭」で雇用契約を交わしたのは今日の午前中。あれから、まだ丸1日もたってないのに。
何だか、はるか昔のことみたいな気がする。
「…………」
目を閉じると、快い睡魔があっという間もなく私を飲み込み、眠りの世界へと連れて行って………………くれなかった。
これは、あれだ。
疲れているのに、眠れない。興奮と緊張で、かえって目が冴えてしまっているという現象だ。
私はむくりと起き上がった。
軽く外の空気を吸ってこよう。冷たい夜風と月明かりを浴びたら、すんなり眠りにつけそうな気がする。
廊下に出ようとして、あれっと思った。
ついさっきまで明かりがついていたのに、暗くなっている。
真っ暗ではない。窓から差し込む月明かりが、廊下に白い光の線を描いている。
パイラが明かりを消したのだろう。ってことは、彼女も早めに休んだのか。クリア姫も多分お休みのはずだし、音をたてないよう、気をつけて――。
抜き足差し足、移動。
ほどなく、玄関ホールに着いた。
2階部分まで吹き抜けになった高い天井に、今は灯が入っていない小さめのシャンデリア。
木目も美しい玄関ドアには、要所に螺鈿細工が施されている。
置物とか花とか飾られていたり、花を入れているのは高価そうなつぼだったり。
こういう空間があるところが、さすが偉い人の「お屋敷」だ。庶民の住宅には、普通、玄関ホールなんてないものね。
広い場所では、足音が響きやすい。
私はいっそう注意してホールを横切り、ドアに近づいた。
鍵を外し、そっと押し開けようとした、刹那。
「エル・ジェイドか?」
背後から声がした。
すばやく振り向くと、さっきまで誰も居なかったはずの玄関ホールに、人型のシルエットがあった。
声からして、カイヤ殿下だ。例の暑苦しい黒い外套のせいで、ほとんど暗闇に溶け込んでしまっている。
この人って、家の中でもこの格好なんだよね。さすがに夕食の時は脱いでたけど、外套の下もやっぱり厚着だった。
「ちょ、脅かさないでください……」
「それはむしろ、こちらのセリフなのだが」
殿下が言う。ひそめていても、よく通る声だった。
「随分と忍び足がうまいな。おかげで、曲者が忍び込んだのかと思った」
「あ、すみません。もしかして、起こしちゃいました?」
夜中にうるさくしないようにと気を遣ったつもりだったが、考えてみれば、ここは普通の場所とは違う。夜中に忍び足で歩き回っている者が居たら、その方が眠りを妨げる場合だってあるだろう。
「いや、そもそも寝ていなかった。パイラに早く休めと言われて、そのつもりでいたのだが……つい、色々と考えることがあってな」
「……考えることがあっても、ちゃんと寝てください」
また徹夜なんてことになったら、クリア姫が心配するでしょうに。
「そう言うおまえは、こんな時間に何をしている?」
「あ、はい。なんか目が冴えちゃって眠れそうにないので、外の空気を吸いに行こうかと……」
殿下は「それなら、いい場所がある」と言って近づいてきた。
ドアを開ける。途端に、冷たい夜気が私の顔に当たった。
虫たちのささやき声と、どこか遠くから、フクロウの鳴く声。
柔らかな月の光のもと、暗く寝静まった庭園は、さながら夜の森だった。そこがお城の中だなんて信じられない。
「こっちだ」
殿下はお屋敷の壁に沿って歩いていく。
小さな花壇の向こうに、背の低い山桜の木が1本植えられていて、その木陰に小さなベンチがあった。
「ここに座ってみろ。ちょうど今なら、いい角度で月が見える」
言われた通りに腰掛けようとすると、「そのままでは服が汚れるかもしれんな」と、例の暑苦しい外套から厚手のハンカチを取り出し、ベンチに敷いてくれた。
「……ありがとうございます」
恐縮しながら、腰を下ろす。
普通の桜はとっくに散ってしまったが、山桜は今まさに満開の花をつけている時期だ。
薄いピンクの雲のような花びらの向こうに、青白い月が輝いている。花と月光の織り成す夜の世界は、昼間とは別物の美しさだった。
「眠れない時はここに来る、とクリアが言っていた」
少し離れて、私の隣に腰掛けるカイヤ殿下。
「この花はじき終わりだが、屋敷の周りにはいつも何かしら花が咲いているからな」
季節ごとにベンチを移動させ、夜のお花見を楽しむのだそうだ。
「いいですね、そういうの。なんか、すっごく贅沢な感じがします」
「そうだな。この庭園の持ち主だった曾祖母殿も、そうやって楽しんでいたのかもしれない」
殿下の曾祖母殿って、先々代国王の王妃様のことだよね。
一般庶民の自分が、王妃様と同じ贅沢に浸っているわけか……。
ぼんやりと景色に見入っていたら、「ところで」と殿下が口をひらいた。
「ここでの仕事はどうだ。クリアとはうまくやれそうか?」
雇い主からの、お仕事に関する質問である。私はちょっと居住まいを正した。
「はい、だいじょうぶです。……だと、思います」
まだ1日目だし、クリア姫ともそんなに話したわけじゃないが、
「なんて言うか、すごくしっかりしたお子様ですよね。受け答えもちゃんとしてるし、今日会ったばかりの私と、ちゃんと意思疎通をはかってくれるので……。こちらもやりやすいというか、助かりました」
そうか、とうなずく殿下。
「クリアは他人と暮らすのに慣れているからな」
それはつまり、小さな頃からずっと、メイドや使用人に囲まれていたから?
とはいえ、至れり尽くせり、世話を焼かれるだけでは、使用人に気を遣うような子供にはなれないと思う。幼いクリア姫にも、色々と苦労があったのではないか。
「あの、昼間パイラさんから聞きました。クリア姫のこととか、王妃様のこととか、色々」
そうか、と殿下は言った。
さっきの「そうか」と声のトーンが変わっていない。そこに感情の色はなく、いつものように淡々としている。
「それで?」
「えーっと、それで……、『約束』って何ですか?」
「ん?」
「ほら、初めて会った日に言ってたじゃないですか。昔、妹との約束を破った、だからずっと怒ってる、みたいな……」
そのせいで同居を拒まれている、とも言っていたはずだ。無理に連れ出したら、食事を断ってまで抵抗したって。
しかし私には、クリア姫がどんな理由であれ、殿下のことを怒っているようになど見えなかった。何か誤解というか、行き違いがあるんじゃないだろうか?
「……ああ」
殿下の声に、感情の色がついた。
重く、陰鬱で――憂鬱そうな色。
「7年前の話だな」
私は少しどきっとした。
7年前といえば、私の父が突然失踪した、まさにその年である。……もちろん、今は関係ないけど。
殿下はつぶやいたきり黙っている。何もない空中を見つめて、じっと動かない。
昔のことを思い出しているのだろうか。
それとも、よほど話しにくい事情でもあるのか。だとしたら申し訳ない気もするけど――。
「えと、くわしく聞かせていただいても構いませんか?」
殿下いわく、姫様が「怒っている」という理由。誤解でもそうでなくても、まずは事情を知らなきゃ始まらない。




