403 街角の出会い3
それがのちに私の雇い主となる、ハキム・クンツァイトとの出会いだった。
何やら物騒な成り行きで驚かせてしまったかもしれないが、ハキムは別に父のことを殴ろうとしたわけじゃなくて。
「なぜ」
と彼は言った。父の体をつかんでぶら下げたまま、
「なぜ、おまえがここに居る。生きて、動いて、話をしているんだ。シム」
見知らぬ男が父の名を呼んだことに驚く私だったが、その様子を見ていた男の連れの女の子は、私よりもっと驚いていた。大きな瞳をいっぱいに見開いて、
「先生がしゃべった!?」
ハキム・クンツァイトは無口な男だった。
口をひらいても一言二言。単語以上の言葉なんて、下手したら何日もしゃべらない。
そんな人が文章を話してまで問いつめたほど、その時の彼は驚いていたそうなのである。
「ハキム……?」
一方の父も驚いていた。一瞬、目を丸くした後、すぐに申し訳なさそうな表情に変わって、
「えっと、ごめん。これには事情があって――」
ぶら下げられたまま弁解を始めようとしたのだが、それを止めたのはゼオだった。
「話は後だ。ひとまず場所を変えるぞ」
一見するとケンカのような騒ぎに、通行人がざわめいている。「誰か、役人を呼べ!」と叫んでいる人も居る。
このままでは面倒なことになると判断した私たちは、一旦その場を離れて、落ち着ける場所に移動することにした。
馬車通りを離れて狭い路地を抜け、追ってくる気配がないことを確かめてから足を止め、互いに顔を見合わせて。
「それで、この人は……?」
何やら顔見知りのようだったので父に聞くと、返事をしたのはハキムの連れの女の子だった。
「こちらはハキム・クンツァイト。怪しい者ではありません。孤児院の院長先生です」
ぺこりと頭を下げてから自分の胸を指差し、
「私はシア。先生の手伝いをしています」
えらくしっかりした子だな、と私は思った。
10歳くらいに見えたけど、絶対にもっと上だ。小柄なだけで、多分12、3歳にはなっているはず。
シアと名乗った女の子のあいさつに、父もぺこぺこと頭を下げて、
「あ、私はシム・ジェイドです。ハキムとは幼なじみで――」
「シム・ジェイドさん! 知ってます!」
急に女の子の顔がぱっと明るくなった。
「うちの孤児院にお金がなくて困っていた時、助けてくれた人ですよね? 恩人だって、卒業生の人に聞きました!」
んん? どこかで聞いたことがあるような話……。
ハキムという名前。父と幼なじみ。しかも、お金がない時に助けた……。
「や、そんな大げさな。私もハキムには助けてもらったから、お互い様で」
父が困った顔で女の子と話すのを見ながら、私は記憶をたどり――程なく思い出した。
自分が「魔女の憩い亭」に出した依頼のこと。
7年前、父が失踪する直前、最後に言葉を交わしたと思しき人物が王都に居ると知って、調べてほしいと頼んだことを。
その人物の名前がハキム・クンツァイト。
父と同じく孤児だったところをクンツァイトに拾われ、密偵候補として育てられた人で。
7年前、魔女に願い事をするためにノコギリ山を目指す父に、道中必要になるだろうお金を用立ててくれた人でもある。
セドニスの話によれば、父が私の身代わりになって、目覚めぬ眠りについたことも知っていて。
……つまり、2度と目覚めないはずの父が、こうして普通に動いているのを見て、驚きのあまりつかみかかってきた、ってわけね。なるほど、理解した。
「えーと、私が目覚めることができたのは……。話すと長いんだけど……」
父は説明に困っている。
ややこしい話だし、乗合馬車の時間も迫っているし。
……まあ、馬車の時間なんて1本くらい遅らせてもいいんだけどね。
「魔女の憩い亭」の調査が確かなら、この人だって関係者だ。きちんと事情を説明するのはやぶさかじゃない。むしろ、説明すべきだと思う。
しかし当のハキムはそれを望まなかった。
シアの顔をちらりと見て、「買い出し」と一言つぶやいて。
やおら身を翻すと、来た道を引き返し始めたのである。
「え、あの、ハキム!?」
戸惑う父に、シアが説明する。
「私たち、買い物の途中なんです。今日は今月生まれの子たちの誕生パーティーがあって、急いで帰らないといけなくて――」
と、そこでハキムが足を止め、父の方を振り向いた。
「待っている」
告げられた言葉は、やはり一言のみ。でも、父には伝わったようだった。
「あ、うん。説明に行くよ! 近い内に必ず!」
父が叫んだ時には、ハキムの背中は路地を曲がって消えるところだった。
――そんな出来事の後で。
私たちは乗合馬車の停留所に戻ったのだが、乗る予定の馬車は、タッチの差で出発したばかりだった。
仕方ないので次の馬車を待つ間、私は父にハキムのことを聞いてみた。
父が彼の孤児院のためにお金を出したこととか、7年前の成り行きについて、くわしく知りたかったから。
あと、父とハキムの関係性についても。
父と同じようにクンツァイトに拾われ、密偵候補として育てられたというのは本当なのか。
「うん。彼の方がずっと優秀だったけどね」
と父は言った。
「見かけはちょっと怖いけど、中身はすごく優しい男なんだよ。子供好きで、責任感が強くて、自分と同じ境遇の子供たちを放っておけなくて、孤児院で働くようになって……」
そこで私は、少しデリケートな質問をした。
他でもない、父の「境遇」についてだ。
なぜ、クンツァイトに拾われることになったのか、家族は居なかったのか。実の父親のことなのに、私は何も知らないのである。
そりゃ親子だからって簡単に話せることじゃないかもしれないけど、できれば教えてほしかった。
「父さんも戦災孤児だったの?」
父は「うーん」と困った顔をして、
「その可能性はあるよ。王国と南の国は、ずっと昔から散発的な小競り合いをしてきたからね」
本格的な戦争状態にはならなくても、武力衝突は日常茶飯事。両国民に被害が出ることもあった。
「私もそうやって身内を亡くしたのかもしれない。ただ、正確には思い出せないんだ。気づいたら王都の街角に居て、どこか遠くから流れてきたような気もするけど……、それもただの記憶違いかもしれないし。はっきりしたことはわからない」
「……そうなんだ」
他に言葉が浮かばなくて、何とも冴えない相槌を打つだけの私に、父は「うん、そうなんだよ」と優しく笑いかけてきた。
「私が子供の頃って、王国の政治が今より乱れてたんだよね。ほら、例の政変の影響もあってさ」
「ああ……」
「末端まで手が回らなかったんだろうね。だから、私みたいな子供はあの頃、珍しくなかったんだ」
だろうな、とつぶやいたのはゼオだった。
「俺はここ何十年かこの国に居るけどな。路上から飢えたガキが消えたのなんてつい最近のことだぞ。戦災孤児だったり、南の国からの亡命者だったり、他にも人買いにさらわれて逃げ出した、とかな。珍しい話じゃねえよ」
それはそうなんだろうなと私も思った。
私の身近にも、実はそういう人が結構居る。
セドニスも元は孤児だったって言ってたし、カルサも、どうやら似たような境遇の子みたいだし。
他でもない、自分の父親も。
私が意識していなかっただけで、私が気づいていなかっただけで、珍しい話でも何でもないんだろう。
そして、そういう境遇の子供は、悪い大人に利用されやすい。
守ってくれる親が居ないから、正しい知識を教えてくれる大人が居ないから、騙され、搾取されてしまう。気づけば犯罪に利用されていたりもする。
父の元雇い主であり、孤児たちを暗殺者に仕立てあげていた、悪逆非道のクンツァイトは失脚した。
代わりに、子供たちをちゃんと保護して真っ当に育てようという試みが始まったばかりだ。
ただ、その中心になっているのが悪徳金貸しのヴィル・アゲートで、お金も人もイマイチ集まりが悪いと聞いた。
「魔女の憩い亭」もその事業に参加すること。セドニスが私に「一緒に働かないか」と言ってくれたこと。
父が乗合馬車に乗って行ってしまった後も(まだ不安だの怖いだの言っていたが、キリがないので無理やり馬車に乗せた)、私の頭の中では、そういったことがぐるぐる回っていて。
思えば、その時にはもう、薄ぼんやりとだが新たな仕事への意欲が芽生えつつあったのかもしれない。