399 魔女の休日2
「どうぞ」
カチャリと音を立てて、目の前にグラスが置かれる。
「今日は秋にしては暑いので、冷たいハーブティーにしてみました。魔女様のお口に合うといいのですが」
グラスに満たされているのは薄い琥珀色の液体だ。ほのかにラベンダーの香りがする。
ここは礼拝堂の奥にある個室。司祭が来客を迎え、歓談するための部屋らしい。
アンバー村に出入りするようになってから、この司祭はたびたび魔女に声をかけてきた。
「こんにちは、魔女様」
「今日は寒いですね。お風邪など召されてはいませんか?」
「そういえば、ご存知ですか。今年は麦の実りが殊のほか良いらしく――」
基本はあいさつや世間話である。魔女が返事をしなくても、勝手に愛想良くしゃべり続ける。
魔女は人と関わることを望まない。かなえたい願いがあるわけでもない人間と、話すことなどない。
だから放っておいたのだが――なぜ今日に限って、招きに応じたのか。向かい合って茶など飲む気になったのか。
それは魔女自身にもわからなかった。
わからないままハーブティーを口に運び、「美味い」と一言つぶやく。
司祭は魔女のほめ言葉に嬉しそうな顔をして、
「琥珀亭のご主人に教わったレシピです。暑い日はこれに限りますよ」
自分もハーブティーで喉を潤し、「ああ、おいしい……」と至福の笑みを浮かべる。
琥珀亭の主人というのは、あの娘――エル・ジェイドの祖父にあたる男だ。
このアンバー村に三代続く居酒屋兼食堂の店主で、老若男女問わず村人から慕われている。
村の名士――いや名物親父とでも呼ぶべき存在だろうか。
先日、7年ぶりにひょっこり帰ってきた娘婿を叩き出した話は、村中の噂になった。
他にも家出した孫娘が王族に見初められたとか、いや見初めたのはどこぞの金貸しでいい年のおっさんだとか、いやいや見初めたのではなくヘッドハンティングされて片腕として働いているのだとか……。
ジェイド家の噂は、とかく注目の的だ。このアンバー村においては、並の娯楽よりはるかに人々を楽しませている。
「あの子は、父親と会えたのですね」
魔女が黙ってハーブティーのグラスを傾けていると、司祭の方から話を切り出してきた。
「先程『終わった』と仰いましたが……。それは全てが解決した、という意味にとってもいいのでしょうか?」
「全て、とは言えぬ。だが概ねは解決した」
代償として失われたものは戻らない。
あの娘の父親は目を覚ました。……が、それは他人の魂と精神をその身に宿してのことだ。娘にとっては不本意な成り行きだろう。
「娘がこの先も生きること。幸福であり続けること。それがあの男の願いだった」
魔女はその願いをかなえた。娘の傷を癒やし、「父親を身代わりにした」という罪悪感を負わずに済むよう、都合の悪い記憶を消した。
それで契約は完了。あの父娘との関わりは終わるはずだった。
しかし目を覚ました娘は、わずかな違和感に気づいて弟を問いただし、真実を知ってしまった。
父親が自分のために犠牲になったことを知った娘は驚き嘆き、とっくの昔に村を出ていた父親の後を追って、自分も村を飛び出し――そして。
夜の森で足をすべらせ、急な坂道を転げ落ちて全身を強く打ち、命を落とした。
そう。落としたのだ。父親が我が身を犠牲にして救ったばかりの命を。魔女の魔法によって長らえた命を、いともあっけなく。
長く生きていると、感情の動きというのはどうしても鈍くなりがちだが……あの時ばかりは違った。
あきれ果て、怒り、嘆きもした。なぜ、と叫びたくなった。
実際に叫んだような気もする。長い黒髪をかきむしり、夜の森で1人、絶叫したような――。
「何かを願えば、何かを失う。それがことわりだ」
魔女は言った。
目の前の司祭に語りかけたわけではない。
それは独白だった。自分の考えをまとめるための、あるいは言葉にして確かめるための。
「だが、あの娘は父親を失った。自分では何も願わなかったにも関わらず。人の世では、しばしばそういうことがある。願いと代償。それらは等価であるはずなのに、何かを願った人間の周りには、必ずと言っていいほど心が損なわれる人間が現れる」
ことわりは公正であるべきだ。何も望まなかった人間が、何かを失ってよいはずがない。
だから魔女は、人々の願いをかなえる際、そのために悲しむ人間が出ないようにと尽力してきた。
「娘の悲しみは、父の願いから生まれた副産物。本来、存在しなかったはずのもの」
だから記憶を消した。全て忘れて、穏やかに暮らせるようにしたつもりだった。
娘はそれを拒んだ。これ以上ないほど明確に。
これまで、そういう人間が1人も居なかったわけではない。しかし魔女の眼前で死んで見せた人間は、さすがに初めてだった。
それは純粋な事故であって、抗議の自殺などではなかったが……。魔女の目には似たようなものに見えたのだ。
夜の森で1人、なぜだ、なぜだと叫び続けて――。
明け方近くになってようやく、そんなことをしていても意味がないことに気づき、結局は「魔法で娘を生き返らせる」という選択をするに到った。
死者を蘇らせる魔法はない。1度失われた命は、けして戻らない。
だから魔女は、娘が命を落とす直前まで時間を巻き戻すことによって、擬似的に蘇生を実現させた。
時戻しは難しい魔法だ。この時は少しばかり取り乱していたこともあって、時を戻し過ぎてしまい――結果、娘は目覚めてからの1週間をやり直すことになった。
また、常世に足を突っ込んだ代償として、元は薄茶だった髪色は真っ白になった。
「見えざる者」の気配にも敏感になり、監視にはより注意を払う必要ができた。
だが、それらは全て些末なことだった。
このままでは、娘はまた父親の後を追いかけ、あの夜の森で命を落としてしまう。
そうならないためには、再び娘の記憶をいじる必要があったが――しかし。
全て忘れて幸せになってほしいという父親の願いを、あれほどまでに明確に拒んだ相手に対して、再び同じことをする?
それは果たして正しいことか? むしろ愚行ではないのか?
どうにもそんな風に思えてならなかった魔女は、悩んだ末に、娘と直接、話をしてみることにした。
あの夜の森で。
目覚めてから1週間後、前回と同じように弟から真実を聞き出し、父親の後を追って走る娘の前に姿を現し、説得を試みた。
おまえの父親は、おまえの幸せを心から願っていた。忘れて生きるようにと強く促した。
……激しく時間の無駄だった。
娘は頑として説得に応じなかった。
こんなの納得できない、自分の幸せを勝手に決めるなと怒り、願いを取り消せ、父さんを返せ、と魔女に迫った。
あいにくと、1度かなえた願いを取り消すことはことわりに反している。
魔法は万能ではない。魔女もまた同じ。定められた理に従い、力を行使するだけだ。
しかしながら、娘の言葉は魔女の耳にも正論に聞こえた。
愛する我が子の命を救いたい、という父親の願いが至極真っ当なものだっただけに、迷うことなく願いをかなえてしまったが……。
こんな結果につながるのであれば、もっと慎重になるべきだった。
悔いたところで、契約を反故にすることはできない。
魔女にできるのは、粛々と魔法を行使すること。父親の願い通りに、娘の記憶を消すことだけだ。
――だから。
代わりにひとつだけ、約束した。
もしも娘が記憶をなくしたまま、それでも真相を求め、父親の元にたどりつくことができたなら、全てを思い出させてやろうと。
「さすがに、それは無茶ぶりが過ぎるのでは……?」
魔女の独白を聞いた司祭は、いささか困惑気味にそう言った。
その通りだろう、と魔女も思う。
記憶を消され、肝心なことは何も覚えていない状態で、どうやって真実にたどりつくのか。いかに賢い人間でも、どれほど強靱な意志があっても、そんなことは不可能だ。
この7年、娘は父親の願い通りに幸せに暮らし、成長した。
年頃になって、幼なじみの家から嫁入りを望まれることもあった。
おそらくはあのまま、何も気づかずに生きていく可能性が高かっただろう。
今年のはじめ、琥珀亭を訪れた行商人が、「父親に似た人物を王都で見た」などと言い出さなければ――。
「……なぜ、あんな真似をした?」
魔女は切れ長の瞳を細めて、司祭の顔を凝視した。
「はて、何のことでしょうか?」
とぼけたところで、ずっと娘の周辺を見張っていた魔女は知っている。
この司祭が行商人の男に金を渡し、嘘の証言をしてくれと頼んだことを。
「……彼には気の毒なことをしてしまいましたね」
魔女に鋭いまなざしを向けられた司祭は、一転してあっさりと事実を認めて見せた。
「怒ったご主人に、店から蹴り出されてしまって……」
「その分、料金を上乗せしただろう」
「そんなことまでご存知とは。いやはや、さすがは名高いノコギリ山の魔女様ですな」
白々しい世辞などいらない。聞きたいのはそんな言葉ではない。
「繰り返すが、なぜ、あんな真似をした?」
魔女にはわからない。
この司祭は琥珀亭の主人の昔なじみで、あの一家とは親しい間柄だった。
知っていたはずなのである。あの娘の家族は――特に母親と祖父は、娘が真相を知ることを望んでいなかったと。
たとえ記憶が戻っても、父親が帰ってくることはない。
ならば、つらいことを敢えて思い出させるより、このまま忘れてくれていた方がいいと。
そう願っていたことを知っていたはずなのに、なぜ、どうして。
「そうですね。端的に言えば、ムカついたからでしょうか」
「……ムカつく?」
「あの子はずっと違和感を抱えていたでしょう。暇な時間があると、よくこの礼拝堂に来て、何をするでもなく、ずっと――」
白い魔女の像の前に立ち、ぼんやりしていた。そういうことがあったのを魔女も知っている。
「あの娘が哀れで、腹が立った。だから娘の手助けをしたとでも言う気か?」
司祭は「まさか」と大仰な身振りで否定した。
「私は部外者です。家族の問題にくちばしを突っ込む資格などない、無責任な傍観者だ」
「…………」
「ですから、私のしたことに真っ当な理由などありません。あれで事態が動くと決まっていたわけでもないですしね。ただの自己満足のお節介ですよ」
「…………」
確かに、あの程度のことでは何も変わらなかったかもしれない。
現実には、娘は祖父とつかみ合いの大げんかをした末、家出して王都まで飛んでいってしまったわけだが、この男がそこまで読んでいたわけではないだろう。
……いや、あるいは読んでいたのか?
娘が父親の失踪に違和感を持っていたこと。そして祖父と娘の直情的な性格を熟知していれば、不可能とまでは言えない気もするが……。
「あの子はこれからどうするつもりなのでしょうか?」
司祭が聞いてくる。あいかわらず穏やかで、腹の底が読めない笑みを浮かべて、
「琥珀亭のご主人の話では、当面は村に帰ってくるつもりはないようですが……」
「さあ、知らん」
と魔女は答えた。
実際に知らなかった。約束が果たされた以上、魔女があの娘を見続ける理由は何もない。
「私はもはや、あの父娘とは何の関わりもない。この村を訪れるのも、今日が最後になるだろう」
「……そうですか。では、これでお別れというわけですね」
「そうだな」
魔女は席を立った。
スッと空中に手をかざすと、そこに節くれ立った木の杖が現れる。
意識を集中させ、転移の魔法を行使しようとして、
「人は不可解だ」
最後に、一言だけ。魔女は言葉を残した。
あの娘が自分の前で死んだ時。わき上がってきた「なぜ」の答えはいまだ見つかっていない。
愚かで非合理的で不可解。それが魔女にとっての人間というものだった。
かつて彼女が人であった頃から変わらない。千年生き続けても、理解には到らなかった。
「お元気で」
司祭が別れの言葉を告げる。「それと、ありがとうございました」
なぜ、礼など言うのか。
魔女の無言の問いかけに、司祭は軽くほほえんで、
「本当の意味であの子の手助けをしたのは、私ではなく魔女様なのでしょう?」
「……何のことだ」
自分は何もしていない。少なくとも、娘の役に立つことは。
祖父との大げんかの後、「おまえの父親が王都に居る」と告げたのは魔女だが、娘は半信半疑だった。
突然の「魔女」の出現に困惑し、白昼夢でも見たのではないかと本気で疑っていた。
それからまた娘の前に現れ、短い「お告げ」を残した時もそうだ。
娘は真に受けてなどいなかった。その後の行動は全て、本人の意思によるもので。
ゆえに、そう。これはルール違反ではない。
自分はことわりを破っていない。娘の手助けなどしていない。
――ああ、本当に不可解だ。愚かで非合理的でわけがわからない。
嘆くように首を振って、魔女は手にした杖を構えた。
その黒い瞳で彼方を見すえ、小さく呪文をつぶやく。
瞬きひとつの間に、その姿はかき消えた。
あとに残されたのは空になったグラスと、かすかなラベンダーの香りだけ……。