397 ある姉妹の話
私の1日は、「おはよう」の声から始まる。
「おはよう、ルチル」
朝、ベッドの中でぼんやりしていると、誰かが部屋の中に入ってくる。
長い金髪で、顔にはソバカスが散った女の人だ。
この人は私の「姉さん」らしい。
ルチルというのが私の名前。自分では覚えてないけど、みんながそう呼んでるからそうなんだろう。
「ほら、起きて。朝の支度をしなきゃ」
「姉さん」は私をベッドから洗面所まで連れて行き、「顔を洗って」「歯を磨いて」とひとつずつ指示してくれる。
私は言われた通りに身支度を整え、着替えて、髪をとかす。
「姉さん」は手を出さない。次に何をすればいいのか、私に教えるだけだ。
私はちっちゃな子供じゃないから、本当は身支度なんて1人でできる。
でも、どうしてしなければいけないのか、何のためにそれをするのかが、よくわからないのだ。
そもそも「やろう」という気持ちがわいてこないから、1人で放っておかれると、私は何もしない。
1日中、ベッドの中でぼんやりしているだけ。お腹がすいても、喉が渇いても動かない。
そんな私は、悪い病気なのかもしれない。
私の「お母さん」だという人が何人もお医者さんを連れてきたけど、みんな途方に暮れたように首を振るだけだった。
「意識はある。言葉も理解している。しかし自ら動こうという意思はないわけか」
……ああ、でも。
何日か前に、お屋敷にやってきた人。
見た目は普通のおじさんなのに、態度はすごく偉そうな男の人だけは様子が違っていた。
「この娘、記憶はあるのか? 自分がこうなる以前のことは覚えているか?」
「……いいえ。何も覚えていないわ。私たち家族のことも、自分の名前さえ」
「お母さん」が答えると、男の人は興味深そうに目を輝かせた。
「嗜好の変化はあるか? あるいは性格そのものが変わったとか」
「……そうね。好き嫌いはなくなったわ。以前は偏食がひどかったけど、食べなさいと言ったら何でも食べるし。……性格については何とも言えないわね。そもそも意思表示をしないのだから」
「ふーむ。とすると、失ったのは記憶と自我――いや、この場合は『人格』とでも呼ぶべきか……?」
男の人はしばらくの間ぶつぶつ言っていたけど、急にずいと身を乗り出して私に近づいてきた。
「小娘、我と共に来ぬか? 興味深いサンプルだ。持ち帰って研究したい」
何を言っているのか、よくわからなかった。
私はしたいことも行きたい所もないから、別にその人と一緒に行ってもよかったんだけど。
その後すぐ、「お母さん」が怒って男の人を追い出そうとした。
後で「姉さん」に聞いたら、「サンプル」という失礼な言葉のせいだろうって言ってた。
あの人、誰だったんだろ。お医者さんではなさそうだったけど……。
何だか初めて会う感じがしなかった。知らない人なのに、声とか聞き覚えがある気がして――。
またぼんやりしてたら、「ほら、行くよ」と姉さんが手を引いてきた。
「お腹すいたでしょ。朝ごはん、食べに行こう」
姉さんに手を引かれるまま、私は歩いた。寝室を出て、階段を下りて、1階にある食堂へ。
そこには4人がけの木のテーブルがあって、温かそうな料理が用意されていた。
でも、それを作ったはずの「お母さん」の姿がない。
「母さんはね、畑仕事に行ったの。ほら、マーサがケガしちゃったでしょ? 家のこと、手伝ってくれる人が居なくなったから大変なんだよ」
「マーサ」というのは「お母さん」や「姉さん」と同じで、このお屋敷に住んでいる人だ。姉さんの「乳母」で、家族みたいな存在なんだと言ってた。
何日か前まで、このお屋敷の家事はほとんど全部その人がしてた。でも、今は「ぎっくり腰」で動けないんだって。
「さ、ご飯にしよっか。その後はお片付けして、掃除して、お洗濯ね」
「…………」
「家事が済んだら、2人で森に行こう。この季節にだけ採れるベリーがあるんだって。すごく甘いんだって」
「…………」
「キノコとか木の実もね。私は食べられる種類とかよくわからないけど、マーサに見せればわかるはずだから、とにかく採ってこよう」
「…………」
「もうお城のお姫様じゃないんだから、がんばって自活しないとね」
お姫様、と私はつぶやいた。
私と姉さんは、前はお城に住んでいたらしい。
お母さんは、この国の王様に1番愛された人で、私と姉さんもすごく大事にされていて、毎日着飾って贅沢な暮らしをしてたんだって。
今は違う。お城から追放されて、森のそばにある小さなお屋敷に住んでいる。
なぜかというと、こうなる前の「私」がとても悪いことをしたからだ。
姉さんとお母さんの話では、腹違いの妹をしつこくいじめた上、その妹が住んでいる場所に火をつけて焼き殺そうとしたらしい。
やっぱり全然覚えてないけど、本当の話だとしたら、なんで死刑にならなかったのかすっごく不思議。
「……死刑になってもおかしくなかったんだよ」
と姉さんは言った。一緒に朝ごはんを食べながら、物思いに耽るような顔をして、
「ルチルの罪は、王家の醜聞だから……。表沙汰にするわけにはいかない、ってカイヤ兄さんは言ってたけどね」
自分も口をもぐもぐさせながら、シュウブンって何だろうと私は考えていた。
ちなみに朝ごはんは、少し焦げたパンと崩れた卵焼きと、ちょっとビネガーを入れすぎたすっぱいサラダ。
お母さんは料理が上手じゃない。お城暮らしが長くて、もう20年くらい家事とかしてないせいだって言ってた。
「カイヤ兄さんは優しいから……。ルチルのしたことは絶対許せなかったはずだけど、それでも私や母さんが悲しむと思って……。死刑だけは許してくれたんじゃないかな。多分」
「カイヤ兄さん」というのは姉さんの兄さんのことだ。
姉さんと兄妹なら、私の兄さんでもあるのかと聞いたら、「あなたにとっては他人よ」とお母さんが言った。
「血はつながっているけど、兄妹と呼べるような関係ではないの。間違っても気安く話しかけたりしないようにね」
……だって。ややこしい。
とにかくその「カイヤ兄さん」というのは黒髪のすごくキレイな男の人で、2、3日前にこのお屋敷を訪ねてきた。……あの偉そうな男の人と一緒に。
そうだ。1人では何もできない私を姉さんが心配して、治せないかと「カイヤ兄さん」に相談して。
そうして連れて来られたのがあの人だったんだ。
魔法の専門家だとか、魔女の研究者だとか言ってたっけ。そのわりに、ちっとも役に立たなかったけど。
「これは病ではない。『治す』という言葉を使うこと自体が不適切だ」
と、あの人は言ってた。
「この娘の記憶や人格は、魔法の代償として失われたのだからな。この先どれほど時がたとうとも、元通りになることはありえぬだろう」
方法があるとしたら、また別の「代償」を捧げて、魔法の杖にでも願うことだ、とも言ってた。
それを聞いて、お母さんは何だかすごく怒ったような顔をして、
「もう魔法はたくさんよ」
吐き捨てるように言って、今度こそあの人を追い出してしまった。
「……仕方ないよね。命が助かっただけでも幸運だったんだから」
あいかわらず物思いに耽っているような顔で、つぶやく姉さん。いつのまにか、食事の手が止まっている。
私はもう自分の分を食べ終えていたけど、次はこうしろと言われないので黙って座っていた。
「母さんだって、一歩間違えば逮捕されてたんだし……」
お母さんは私と違って、何か悪いことをしたわけじゃない。
ただ、お母さんと「養子縁組」をしていたラズワルドという人が悪いことをして捕まって、お母さんもその人に協力してたんじゃないか? って疑われているんだって。
時々「兵士」とか「お役人」だという人がやってきて、お母さんや姉さん、たまに私にも「事情聴取」というのをしていく。
そういう人たちはみんなとても冷たくて、馬鹿にしたような目で私やお母さんを見る。
「悪女」とか「愚かな母娘」とか、城から追い出されたのも自業自得だとか、意味のわからないことを言う。
私は何も感じない。誰が来ても怖くないし、馬鹿にされても悔しくない。
でも、姉さんはいつも痛そうな顔をしている。
たまに泣いてるみたいだ。今も、目がちょっと赤い。
「お役人」が無理やり私を連れて行こうとした時、追い払ってくれたのは乳母のマーサだった。
そのマーサが「ぎっくり腰」で倒れてしまったから、守ってくれる人が居なくなって、不安で、怖いのかもしれない。
「姉さん、怖いの?」
「え」
「目が赤い」
そう言うと、姉さんは色の薄い唇を戦慄かせた。
「嘘……。ルチルが私を気遣ってくれるなんて」
椅子から腰を上げ、私のひたいにてのひらを押し当ててくる。
「本当に記憶をなくしてるだけ、なのかなあ。実は魔法の杖で別人と入れ替わっちゃったとか……、ないよね?」
何だか余計に怖がらせちゃったみたいだ。これって謝った方がいいのかな?
「ごめんね、姉さん」
「嫌ぁ……。ルチルが謝るなんて。3つの時からずっと、私に謝ったことなんてなかったのに」
今度は頭を抱えてしまった。私、何も言わない方がよかったの?
仕方ないので口を閉じていたら、姉さんはやがて顔を上げた。その口元には、ちょっと困ったような笑みが浮いている。
「ごめんね、心配かけて。がんばろう、って言ったばかりなのにね」
別に心配はしてない。何を心配すればいいのか、今の私にはそれすらわからないから。
でも、その勘違いのおかげで、姉さんは元気になったみたいだ。空元気かもしれないけど、声に張りが戻った。
「よし、まずは家事を終わらせよう! その後は2人で森に行って、午後からはお勉強ね」
わかった、とすぐにうなずくと、姉さんは目を丸くした。
こうなる前の私は、勉強が大嫌いだったらしい。ただ、今の私には好きなものも嫌いなものもない。やれと言われたことはやるだけだ。
「本当に、素直になったね。読書も嫌がらなくなったし……」
こうなる前の私は、本も大嫌いで、服やアクセサリーのカタログ以外はページをひらくこともしなかったらしい。
「また、私の本も読んでくれる? できれば感想とかも聞きたいんだけど……」
こうなる前の私は(以下略)。
姉さんの本、というのは、キレイな男の人ばっかりが出てくるラブストーリーだ。ハダカの挿し絵とかもあるから、読んでるとお母さんに怒られる。
でも、姉さんはずっと、一緒に趣味の話ができる相手がほしかったらしくて、私が言われた通りに本を読んだらすごく喜んでた。
「あ、あと。私が書いた話の続きも、よかったら……」
姉さんはひそかに小説を書いている。将来は小説家になりたいんだとも言ってた。
「不器用で、人見知りで、何にも取り柄がない自分」が1人立ちするために、できそうな仕事が他に思いつかなかったんだって。
確かに姉さんは、家事もヘタだし、畑仕事もすぐにへばってしまう。お姫様じゃなくなったら生きていけないかも? って不安になるのもわかるけど。
「……読んでもいいけど」
そこで初めて、私は言葉を濁した。
自分の意思がない、好きなものも嫌いなものもない私には、物語を読んで「おもしろい」と感じる心も多分ないはずだ。
ただ、不思議なことに。
読んでつまらないと理解することは、なぜかできたりする。
「姉さんの書く話はワンパターン。退屈で眠くなっちゃう」
「はうっ」
見えない刃物でも刺さったみたいに、姉さんが自分の胸を押さえた。
「主人公が完璧超人すぎて嘘くさいし、相手の男の人も――無口キャラが好きなのはわかったけど、本当に何もしゃべらなかったら、何考えてるのかわかんないし」
「う、ううっ……」
「無駄に難しい言葉使いすぎ。文章がごちゃごちゃして読みにくい。あと、エロい場面でも全然ドキドキしない」
「も、もうやめて……」
姉さんは涙目になって懇願してきた。
でも、小説家になるんでしょ? だったら現実をちゃんと知った方がいいんじゃないの。よくわからないけど。
「ル、ルチルが厳しい……」
姉さんは激しく落ち込みつつも、少しだけ泣き笑いのような表情を浮かべて見せた。
「……こんな風に話せる日が来るなんて思わなかったなあ」
こうなる前の私は、姉さんのことを馬鹿にしていて、ろくに話もしなかったらしい。姉妹で本の話ができるなんて、「夢にも思わなかった」と姉さんは言った。
「私、がんばるね。いつか一人前になって、ルチルやマーサのこと、支えられるようになるから」
「……お母さんは?」
なぜか名前が出なかったので聞いてみると、姉さんは苦笑いを浮かべた。
「母さんは大丈夫だよ。今は畑仕事と家事ばっかりだけどね。また政治の世界に関わるのも全然あきらめてないみたい。あのラズワルドって人の所に居た時から、他の貴族の家ともこっそりつながってたみたいだし」
内緒だけどね、と言って、姉さんが教えてくれた話では。
まだお城に居た頃、私が「亡霊に取り憑かれた」という噂が流れたことがあって、お母さんはお城に祈祷師を招いて治療しようとした。
その祈祷師というのが、実はよその貴族の間者だったんだって。
娘の悪い噂すら利用する、お母さんは「したたかな野心家」なのだと姉さんは言った。
「……よくわかんない」
そもそも、亡霊って何? 何の話?
「私もよくわからないんだけど……。あの頃のルチルは、知らない人の声が聞こえる、とか言ってたよ」
覚えてない。でも、何だか嫌な感じがする。体がきゅっと縮こまって、冷たくなるような。……もしかして、これが「怖い」っていうこと?
姉さんは私の変化に気づかなかったみたいだ。いつのまにか、席を立って後片付けを始めている。
「ルチルも手伝って」
と言われて、私も席を立った。
姉さんと一緒に家事をして、勉強をして、本を読んで。
いつもと同じ私の1日は、いつもと同じように過ぎていった。