393 断罪1
「つまり、私と結婚しない? ってことなんだけど」
ファーデン・クォーツの求婚に、目の前の美女は長い睫毛を揺らして優雅にまばたきした。
王宮内の庭園。先王アレクサンダー・クォーツが、最愛の妃のために整えた庭。
その中ほどにある三日月型の池のほとりで、若き日のファーデンは彼女と向き合っていた。
リシア・クォーツ。アレクサンダーの愛孫。
亡き王太子の長女で、現王国では唯一「魔法」が使える女。
ファーデンにとっては遠縁の親戚であると同時に、子供の頃から見知った幼なじみでもある。
付け加えると、初恋の女性だ。
リシアは美しい。……より正確に言えば、とんでもなく美しい。
ただそこに居るだけで――物憂げな表情を浮かべて佇んでいるだけで――呼吸のひとつ、まばたきのひとつさえ見る者を惹きつける。
少年だったファーデンは、そんな彼女に一目惚れした。言葉すら交わさないうちに心を奪われてしまった。
……と言っても、クォーツの遠縁に過ぎない自分では、王太子の長女であるリシアに手が届かないことは最初からわかっていたので。
ファーデンにとってのリシアは、あくまで「憧れの姫君」だった。遠くから見つめ、思慕を募らせ、ひそかに忠誠を誓うだけの相手。
それがまさか、こうしてプロポーズする日が来ようとは。
「や、わかってるよ。君が乗り気じゃないってことは。ただ、王国の混乱を収めるためには、これが1番いい方法だと思うんだよね」
「…………」
「君は王にはなりたくないんでしょ? だけどフィラちゃんに押しつけるのは、さすがに気の毒だしさ。フェリオは回復の見込みが立たないし」
リシアの兄2人は政変で命を落とした。
弟は心を病んで療養中。妹はまだ10代である。
「私は所詮クォーツの傍流だから、周囲を納得させた上で即位するためには、君との婚姻が必要不可欠なんだよね」
自分はあくまで繋ぎの王だ、将来的にはリシアの子供が――偉大なアレクサンダーの直系が即位する、という筋書きが要るのだ。
いかにクォーツ姓でも、ファーデンの血は本家から遠い。王となるための教育すら受けていない。
ファーデン単独で即位しようものなら、必ず異議を唱える者が現れる。
クォーツ姓を持つ成人男子は政変でほぼ全滅したが、それ以外の――たとえば臣籍に降嫁したクォーツの姫君を母や祖母に持つ貴族だとか、そういう連中までが名乗りを上げかねない。
そうなったら、この国はまた荒れる。
荒れて弱ったところを、隣国の餌食になるだろう。
いまだ政変の傷も癒えていないというのに、このタイミングで戦争でも仕掛けられたら目も当てられない。
「無理に夫婦になる必要はないよ。……子供も、君が望まないなら作らなくてもいいと思う。授からなかった、仕方ないってことにして養子を迎える手もあるからね。その場合はフィラちゃんの子供が最有力候補になっちゃうけど……」
リシアの妹、フィラ・クォーツには思い人が居る。五大家のひとつ、オーソクレーズ家の跡取り息子だ。
見た目はくまのぬいぐるみ、中身は性悪で油断のならない奴である。これまた絶世の美女であるフィラが、どうしてアレに惚れたのか皆目わからない。
しかしながら2人は相思相愛だ。仮に引き離しても良い結果を招かないだろうということは、ファーデンにも理解できる。
姉を差し置いて、妹が王妃になるというのも見栄えが悪い。
だからファーデンは、フィラに求婚しようとは最初から考えなかった。
「愛人を作るのも自由だよ。その子供が次の王でも、まあ構わないでしょ。重要なのは本家の血筋、つまり君の血を引いてるかどうか、ってことなんだから」
リシアがイエスと言ってくれるなら、ファーデンはいくらでも譲歩するつもりだった。
本当の意味で「夫婦」になる必要はない。恋人を作るのも自由。さて、他に使えそうな条件は何だろう。
「君は人嫌いだったよね。社交とか外交とか、そういうのを心配してる? ……まあ、本音をいえば多少は協力してほしいけど……。どうしても嫌だ、って言うなら仕方ない。良い家から側室を迎えて、面倒なことはそっちに任せちゃおう。王妃は病弱だって設定にしてさ。不可能ではないと思うよ」
「…………」
リシアは無言だった。
池のほとりに置かれた木のベンチに腰掛けて、かすかに揺れる水面をただ眺めているだけだ。
「えーと。そろそろ何か言ってくれる?」
あまりにも手応えがない、どころか相槌さえも返ってこないという状況に、さすがに途方に暮れて「頼むよ」と頭を下げれば。
リシアは薔薇のつぼみのような唇をひらいて、「なぜ?」と問いかけてきた。
「なぜ、私と結婚したいの?」
さすがに、ファーデンは鼻白んだ。
「や、それをさっきから説明してたんだけど……。もしかして聞いてなかった?」
「聞いていましたよ。半分くらいは」
「おーい。半分は聞き流してたわけ?」
「だって、あなたの言葉にはまるで心がこもっていない」
触れればたやすく折れてしまいそうな細首をもたげて、リシアはようやくファーデンの顔を正視した。
「あなたは国の乱れなんてどうでもいい。国が弱って、滅んでも意に介さない」
「!」
「ましてあなたは、私のことなど好きではないでしょう。それなのに、なぜ結婚しようなどと考えたの?」
「あー、それは」
内心をズバリ言い当てられたファーデンは、いささかバツの悪い思いで視線をさまよわせた。
リシアは初恋の女性だ。
育ての親だった兄が無駄に厳しくて、成人するまで色恋に縁のなかったファーデンは、幼い頃の初恋をずっと引きずっていた。
それは尊く美しい思い出であったはずなのに。
どうしてこんなにも色褪せてしまったのか――ファーデン自身にもよくわからない。
いや、そもそも色褪せたのは初恋の思い出だけではない。
季節は穏やかな春。草木は芽吹き、鳥たちが歌い、池の水面にたつ細波は陽差しを受けて輝いている。
世界は美しい、はずなのに。その全てが今は灰色に見える。
「それは、まあ。君も私の同類かな、って思ったからさ」
リシアは無言で見返してきた。
宝石にたとえられるほど美しい瞳に、光はない。薄暗く濁った、汚水のような目だ。
「ぶっちゃけ、生きるのに疲れました、みたいな? かといって潔く死ぬ気にもなれない、みたいな?」
「…………」
「これって要するに政略結婚だし。2人で幸せになろう、って話じゃないからさ。君がこの先の人生に希望とか持ってるなら、こんな話は持ちかけなかったよ」
「…………」
「君はもう、いろんなことをあきらめちゃってるでしょ。私もだよ。あんなことがあった後で、生きがいとか幸せとかさあ。見つけられる気がしない」
「…………」
「だったら、求められる役割を果たすっていうのもアリじゃない? 少なくとも、死ぬまでの暇つぶしにはなるし。……っていうのが、私の考えです」
そう、とリシアはうなずいて、それまでと同じトーンで言葉を続けた。
「私のことが憎いから、人生を賭けて嫌がらせがしたい、というわけではなかったのね」
「……いや、そこまでは……。多分、考えてはいない、かな……?」
「疑問系なのね。魔法なんて便利な力を持っているくせに、あの政変を止められなかった私を、そのせいで愛する母と兄たちまで死なせてしまった私を、なんて愚かな女だと蔑んでいるのでしょう?」
「…………。ごめん、否定できない」
「正直なのは美徳ではないと思うわ。……別にどうでもいいけど」
ふいと顔をそむけるリシア。どうでもいいと言いつつ、明らかに不機嫌になっているのがご愛敬だ。
彼女の「魔法」が、我が身を削る力であるということは聞いている。
だからこそ、彼女の「愛する家族」がその使用を禁じたのだとも。
だが、ファーデンはその話を聞いても、同情も共感も覚えなかった。
政変で家族を失ったのは自分も同じだ。ただ1人の兄の死に様は、それは惨いものだった。理由もよくわからないまま拷問され、苦痛と屈辱の中でゆっくりと死んでいったのだ。
別に悪事を働いたわけじゃない。ロクデナシの親父が早死にして、情緒不安定な母親とまだ役立たずの幼い弟を抱えて、苦労も多かっただろうに愚痴ひとつこぼさず、クソが付くほど真面目に生きてきた人だ。
それが普通の死に方すらできないのなら、この世とはいったい何なのだろう。
眼前で兄の死を見せつけられた母は、心が壊れてしまった。
見た目は人の形を保っているが、中身は人の残骸だ。
自分は、母ほど壊れてはいない――つもりだが。あの政変以来、確実に何かが変わってしまったとは思う。
もうファーデンは何に対しても期待できない。この先、誰に対しても愛情をいだける気がしない。
そんな人生に希望はない。諦念と虚しさに満ちた灰色の時間が死ぬまで続くのだろう。
それでも、正常な判断力があるうちは「自死」というものを選べない。それが人というものだと知って、心底絶望しつつ。
せめて死ぬまでの暇つぶしにと、ファーデンは提案した。
「私が王になるからさ。君は王妃になってよ」
そんな愛も夢もないプロポーズを、リシアは驚くほどあっさり承知した。
その理由は知らない。聞く気も起きなかったし――多分、聞いても答えなかっただろうと思う。