392 王妃の返礼2
「えっと、私ですか……?」
王妃様に鋭いまなざしを向けられた私は、戸惑いながら聞き返した。
「そう、おまえです」
と彼女は答えた。
「先日、離宮を訪れた際、おまえは私のことを罵ったでしょう。自分は1人、安全な場所に居て、子供たちに危険と責任を押しつけている。人として、親として、恥ずべき存在であると」
「そこまで言ったのか?」
殿下が驚いた顔をした。「概ね事実ではあるが、面と向かって口にするのは勇気が必要だっただろう」
だから、正直に言い過ぎですってば……。ご本人が見ている前ですよ。
「兄様。エルは私のために怒ってくれたのです」
クリア姫が私をかばってくださって、
「まあ、誰でもキレるよな、あんなの」
その場に居たダンビュラも同意してくれたが、私は冷や汗をかいた。
確かに、あの日。私は怒りのままに王妃様のことを罵倒した。
けれども、王妃様は何の反応も見せなかった。
無礼者めと怒るどころか、何も言わずに姿を消した。要は見事なまでにスルーされてしまったのだ。
なのに、まさか今になって問題にされようとは。
「やはり、お怒りだったのでしょうか……?」
こわごわ問いかけると、王妃様はこの上なく冷ややかな声音で「別に」と回答した。
「あの時は何とも思いませんでしたよ」
「何とも」
「ただ、時間の経過と共にじわじわ来たのです」
「……じわじわ?」
「怒りではありません。不快感を伴う違和感、とでも言えばよいのでしょうか」
「……?」
「無知な民草の目には、私は無責任で愚かな母親に見えるのだと。……そんなことは言われずとも承知していたはずなのに、何やら耐えがたいような気分になったのです」
無知な民草ですみません。
王妃様にも苦労があって、それは私などには想像もつかないことなのかもしれませんが……。
だとしても、あの時、腹が立ったのは事実だし。発言を取り消します、なんて言う気にはなれなかった。
私があんまり反省していないのを見て取ったのか、王妃様はふーっと長いため息をついて席を立った。
ゆっくりと首を巡らせ、その場に居る全員の顔を見回して。
それから、彼女が言葉をかけたのはカイヤ殿下だった。
「あなたの目には、私は情のない母親に見えるのでしょうね」
殿下は不思議そうに首をひねった。
「見えるも何も、母上が俺に情をかけてくれたことなどあったか?」
少なくとも自分は覚えがないと言われて、
「あなたが物心ついてからは、そうでしたね」
と王妃様も認めた。
「ですが、産まれたばかりのあなたをこの手に抱いた時。私は確かに喜びを感じたのですよ」
「!」
殿下が瞳を見開く。
「あなただけではなく、ハウルの時も。……クリアの時もそうです」
「母様……」
クリア姫も信じられないという顔をしている。
その足元に居るダンビュラは、単に信じていないという顔で王妃様を見上げていたけど。
「元から情がなかったわけではない。……ただ、忘れてしまっただけです。我が子への想いを。親であることの喜びを。魔法という奇跡の代償として失った……いえ、奪われてしまったから」
そこで王妃様は、キッとまなざしを鋭くしてファイの顔をにらんだ。
「おまえのことはけして許さないと誓った。心の底から憎んでいたし、恨んでもいた」
だというのに、それすら今は薄れてしまった――と王妃様は続けた。
「この30年の間に、少しずつ失ってきた。記憶を。感情を。自分という存在を形作る全てを」
王妃様の視線がまた巡り、正面から私をとらえた。
黒曜石のような黒い瞳に、怒りはない。
そこにあるのは、深い絶望と諦念と……。
何だろう。やっぱり怒りかな。
イラ立ちのような、じれったさのような。……あるいは嫉妬のような?
何とも言いがたい感情を瞳に宿して、王妃リシア・クォーツは私に言い放った。
「私を否定したければするがいい。どうせおまえたちには、何も理解することなどできはしない」
自分という、ただひとつの存在が、少しずつ削り取られて消えていく。
その恐怖。悲しみ。孤独感。
それは誰にも、けっして、わかるはずがないと言って。
「伝えたかったのはそれだけです」
こちらの反応を待たずに、王妃様は部屋から出て行こうとした。
「くだらぬ自己憐憫だな」
その背中に向かって、言葉を投げたのはファイだ。
「誰にも理解されたことがないと嘆きつつ、おぬし自身は、さて、誰のことを理解してやったのやら」
王妃様は答えなかった。
その魔法で、私を――仇であるはずのファイの魂まで、あの異空間から助け出してくれて。
おそらくは何らかの代償が必要だったのだろうに、見返りを要求することもなく。
それきり誰にも言葉をかけず、振り返ることもなく。
王妃リシア・クォーツは1人、離宮へと帰っていった。
※次回は他者視点の間章になります。