390 帰還
聞こえたのは、パリンというガラスが割れるような高い音。
直後、目の前が真っ白になって、視界も意識も全てが塗りつぶされて――。
「うーん……?」
呻きながら目を開けると、視界にうつったのは白い天井だった。
あったかくて、柔らかくて、気持ちいい。
自分がふかふかのベッドに横になっていること、上質な寝具にくるまれていることに気づいて、ゆっくりと身を起こすと――。
「ああ、気がついたのですね」
誰かが、私を見ていた。
薄墨色のドレスに身を包んだ、黒髪黒目の、それは美しい人。
王妃のリシア・クォーツ様だった。
「え?」
私は飛び起きた。
そこは寝室だった。高級家具と調度品で飾られた立派な部屋だ。
隣にもうひとつベッドがあって、そこで目をこすりながら身を起こそうとしているのは、ついさっきまで会話していたはずの父、シム・ジェイドだった。
「え、あれ……?」
この状況は何? 私たちは「魂だけの状態」であのおかしな空間に閉じ込められていたんじゃなかったっけ?
説明を求めるように王妃様を見るも、彼女は何も言ってくれなかった。
代わりにサイドテーブルの上に置いてあった呼び鈴を持ち上げ、静かに鳴らす。
すぐに顔を出したメイドさんに一言、
「うまくいったと伝えなさい」
メイドさんが一礼して下がり、それから、待つこと数分。複数の足音がこちらに近づいてきた。
「エルっ!!」
最初に飛び込んできたのはクリア姫だった。
まっすぐに私めがけて駆けてきて、
「気がついたのだな……。よかった、本当によかった……!」
ためらいがちに私の手を取り、温もりを確かめるように自分の頬に押しあてる。
クリア姫は泣きはらしたような目をしていた。知的な鳶色の瞳が、充血して真っ赤になっている。
彼女が泣くほど私の身を案じてくれたのだと理解するより早く、
「エル・ジェイド!!」
遅れて室内に駆け込んできたのはカイヤ殿下だった。
彼はクリア姫と違って、こちらを一目見るなり固まってしまった。軽く瞳を見開いたまま、まるで彫像にでもなったかのように動かない。
「……おい、何か言ってやれよ」
いつのまにか、クリア姫の足元に姿を現していたダンビュラが冷やかすように笑って、
「このまま死ぬかもしれないって医者に言われてた女が、無事に目を覚ましたんだ。ドサクサに抱きしめたって文句は言われねえぞ?」
多分な、と付け加えて、ちらりと私の方を見る。
「えーと、状況がよくわからないのですが……」
何やら感動的な場面のようだが、頭がついていかない。
ひとまず、最後に見た時は棺に横たわったままだったカイヤ殿下が、普通に動いてしゃべっている姿にはホッとしたけど。
「どうやら現世に戻って来られたようだな」
聞こえた声の主は、殿下でも姫様でもダンビュラでもなく、隣のベッドで寝ていた父だった。
「おぬしの仕業か? リシア」
いや、父じゃなくてファイか。さっきまでは別人の姿になっていたから頭が慣れないけど、仮にうちの父なら、王妃様のことを呼び捨てにするわけがない。
ファイに呼びかけられた王妃様は、絶世の美貌を可能な限り歪めて不快感をあらわにした。
「気安く私の名を呼ぶな。耳が穢れる」
一方のファイも、宿敵を見るような冷たい目を王妃様に向けていた。
「その物言い、変わらんな。30年振りだというのに、中身は昔のままか」
「…………」
「聞いたぞ。ずっと離宮に引きこもっていたのだろう。おぬしの魔法で閉じ込められていた我と違い、その気になればどこにでも行けただろうに。愚かにも自分で自分を閉じ込めていたわけだ。何とも滑稽な話よな」
「…………」
空気が冷えた。たとえではなく、室温が5度くらい急降下したような。
私が寒気に身を震わせていると、
「そちらの話は後にしてくれ」
と殿下が割って入った。「まずは彼女に状況を説明したい」
それは非常にありがたいお言葉だった。知りたいことがたくさんあったから。
私は殿下と、心配そうに見ているクリア姫の顔を見比べて、
「ええと、ここは……? 私はいったいどうなったのでしょうか……?」