387 狭間の世界1
ぐるぐる、ぐるぐる。世界が回る。
めまいのような、乗り物酔いのような気持ち悪さ。
やっぱり、同じだ。魔法の力で、この塔に連れてこられた時と。
つまり私は、またどこかに飛ばされようとしている?
落ち着いて状況を確認できたのはそこまでだった。
あの時と同じように、ふいに視界が暗転して、周囲の音が消えて、ついでに足元の床も消えた。
――落ちる。
「エルっ!!」
誰かが、私の手をつかんだ。体を引き寄せ、両腕で包み込むように抱きしめる。
それでも、落ちる。落ちて行く。諸共に、真っ暗な場所へ。どことも知れぬ深い闇の中へと――。
「…………」
どのくらい時間がたっただろう。一瞬だったような、1時間くらいは続いたような落下感が、いつのまにか消えていて。
おそるおそる目を開けてみると、私は1人だった。
「え、あれ?」
誰も居ない。敵も味方も。さっき抱きしめてくれたはずの温もりも消えている。
「ここ、どこ……?」
見た目の印象は、洞窟とか鍾乳洞に似ている。
でも、そういう場所特有の湿っぽさは感じない。むしろ屋内のような、けれどもやっぱり屋外のような。……意味不明だけど、要するに変な場所だった。
空気はどんよりと重く、真っ暗なのに明かりがなくても辺りの様子がわかるし、閉所に閉じ込められているような息苦しさがあるのに、壁や天井はどこにも見当たらない。
「何なの……?」
もう1度つぶやいた時、さっきはなかったはずの返事があった。
「さて、何なのだろうな」
ぎょっとして振り向くと、そこに知らない男が居た。
やせ型中背、年齢は30過ぎくらいか。
白茶けた金髪で、顔立ちはまあまあ整っている方だと思うが……如何せん、目付きが悪い。
陰険そうで、何か企んでいそうな、いわゆる悪人顔だ。
着ているのは、飾り気はないが仕立ての良さそうな服。どことなく尊大で高貴な空気をまとった、いかにも貴族っぽい見た目の人。
「この場所自体に覚えはないが、この場所に流れる空気には大いに覚えがあるぞ」
男は軽く宙を見上げて考え込んでいる。顔はともかくとして、その口調と声にはこっちも覚えがあった。
「先代国王陛下?」
呼びかけると、「何だ?」と答えが返ってきた。
「なぜ、そのように妙な顔をしておる」
「えーと、妙な顔はそちらの方というか……、先程までとお顔が違っているというか……」
「はあ?」
と眉をひそめてから、当人も異変に気づいたらしい。
ぺたぺたと自分の顔にさわったり、服装や髪色を確かめたりしてから、やおら何事かを理解した様子で、
「そういうことか」
と深いため息をついた。
「ここは、アレだな。かつて我が閉じ込められていた水晶の牢獄と同じだ」
「?」
「魔法でできた異空間、とでも呼べば良いか。今の我らは、おそらく魂だけの状態になっておる」
「……へ?」
ぽかんとする私に、ファイは淡々と成り行きを解説した。
「あの女は、魔法の鏡を体内に取り込んでおったのだ。飲み込めるほど小さなものではないから、割って、破片を飲んだのだろうな。……まったく罰当たりな所業であるが、隠し場所としては確かに有効だ」
「…………」
「結果、あの女はその場に居た全員を欺くことに成功し、鏡の力でカイヤを狙った。おぬしがそれを阻んだ。カイヤの身代わりに鏡の力に打たれたおぬしは、白光に包まれてあの場から消えようとしていた」
「…………」
「それをすんでのところで捕まえたのがおぬしの父親だ。まあ、秘宝の力に打ち勝てるわけもなく、単に巻き込まれただけだが」
「…………」
「おかげで、我もこのザマだ。どうしてくれるのだ、シム・ジェイド」
と、そこでファイは後方に首をひねった。
私も見た。彼が視線を向けた先に、ぽつんと。1人の男が、膝を抱えて座っているのを。
男はそろそろと顔を上げると、
「えーと、ごめん……。さっきは夢中で、何も考えてなくて……」
「ごめん、ですむ話ではないぞ。我はかつて、このような場所に三十年も閉じ込められておったのだ。また同じ目にあわされるのは御免被る」
ファイに責められた男は、控えめに反論した。
「それは、あの、君だけの問題じゃなくて。自分はともかく、娘がそんな目にあわされるのは私も困るんだけど……」
私はふらふらと前に出て、2人の会話に割り込んだ。
「……父さん?」
びくりと、男が身をすくめる。こわごわという感じでこちらに視線を向けて、
「エル」
名前を呼んだ。父の顔で。父の声で。
そこに居るのは、ファイじゃない。紛うことなき、私の父親――。
「どうして……、何が……、どうなって……」
言葉が、思考がまとまらない。
乱れた心のまま、私はなおもふらふらと父との距離をつめ、
「ごめん、エル」
逆に父は、じりじりと後ずさった。
「本当は、ちゃんと会いに行くべきだってわかってたんだ。ゼオにも説得されたし、あのカルサって子にも『帰ろうよ』って何度も言われた。……でも」
そこで父は、急に気力が萎えたかのようにうつむいて、
「今更どんな顔をして会えばいいのか、わからなくて……」
「って、ふざけんな、クソ親父ぃぃぃ!!」
一瞬で激高した私は、その顔面に右ストレートを叩き込んでやった。
父はよけなかった。
まともに私の拳を受けて、後ろ向きに吹っ飛ばされた。
「いや、ごめん! 本当にすまなかった!」
尻餅をつき、鼻血を流しながら謝罪する。
ファイいわく、ここは「魂だけの空間」のはずだが、殴った感触は普通にあるのはなぜなのか。魂って、鼻血とか出るものなんだろうか。
「どうして」
と私は繰り返した。
どうして、私の身代わりになって覚めない眠りについたはずの父が、こうして話しているのか。……それも気になったけど。
「なんで、7年前! あんな馬鹿なことしたの!?」
私の口から出てきた言葉はそれだった。
「自分が、身代わりに眠りにつくとか! 私が喜ぶとでも思った!? しかも、母さんにもおじいちゃんたちにも相談しないで、1人で決めたんでしょう!?」
当事者である私の気持ちも、他の家族の気持ちもいっさい無視してノコギリ山に登って、魔女に願い事をして。
あまりに勝手すぎるじゃないか。絶対許せない。
父は一瞬驚いたように目を見開いた後、すぐにうなだれた。
「それは、本当に、すまなかった。そうするのが正しいと思ったわけじゃないんだ。お義父さんにはメチャクチャ怒られたし、マナに――母さんにも、一生許さないって言われたよ」
でも、と父は続けた。
「耐えられなかったんだ。おまえの人生が、あんな風に終わってしまうなんて」
顔を上げ、許しを乞うような、すがるような目をこちらに向けてくる。
「おまえにはずっと内緒にしてたけど、私は人には言えない仕事をしてて――」
「……知ってる」
父が貴族の密偵をしていたことは、王都に出てくる直前、母から聞かされた。
「その仕事に就くまでは、路上で野良犬みたいに暮らしてた。日々の糧を得るために、悪いこともした。盗みとか、人を騙したりだとか」
「…………」
「母さんに会って、好きになってもらえて。お義父さんとお義母さんに、家族として迎えてもらえて。幸せだったし、夢みたいだったよ。……でも、だけどね? 私は知ってた。自分が真っ当な人間じゃないってことを。そのフリをしてるだけのクズだ、ってことを」
「……父さん」
それはちょっと、言い過ぎじゃないの。
父は昔から気が弱いっていうか、自己肯定感が低いところはあったけど。
さすがに、自分のことをクズ呼ばわりするのは初めて聞いた。
反論しようとしたら、父は思いがけないことを言い出した。
「変わったのは、おまえが生まれてからだよ」
「え」
「小さなおまえが、マナの横で泣いているのを見た時。初めて目を開けてくれた時。少し大きくなって、私を父と呼んでくれた時。私はこんな、こんな美しい存在が自分とつながっているんだと知って――」
初めて、思った。
この世に生まれてきて良かったと。
苦労しつつも、今まで生き抜いてきたことには意味があったんだと。
「おまえがこの世界に生まれてきてくれて、私がどれだけ救われたか――それは神様にだってきっとわからないよ」
「…………」
「おまえに助かってほしかったんだ! この先も生きて、大人になって、ちゃんと幸せになってほしかった! その願いがかなうなら、他のことは全部どうでもよかった!!」
「だからふざけるな、親父ぃぃぃ!!」
私は再びその顔をぶん殴る羽目になった。
「こっちだって耐えられるわけないでしょーが! 私も、父さんのことが大好きだったのに!」
父親を犠牲にして生きのびるのが幸せか?
助けられた側の気持ちを考えろ。どれだけ重荷を背負わせてくれたか、わかっているのか。
勢い任せに責め立てると、父は恥も外聞もなく土下座した。
「ごめん、ごめん、ごめん! 本当にごめん!」
両手をついて、地面に顔をこすりつけるようにして、
「ひどいことをした、勝手なことをした! 全部わかってる! 一生許さなくていい!」
「……っ!」
噛みしめた唇から血が滲む。
目の奥が熱くなって、視界が揺らいで。
私がこぼれ落ちた涙をぬぐっていると、
「おぬしら、少し落ち着け」
とファイが言った。
普通はこんな親子の修羅場を見たら、気まずくて口など挟めないだろうに。
全く普通ではない先代国王は気にしなかった。いかにもあきれた、という顔をして、
「言い合っても詮ないことであろうが。親のエゴであろうが、子の想いであろうが、どちらが正しいと決められるものではなかろうよ」
そこで少し考えてから思い直したように、
「いや、正しい、正しくないといった問題ではないな。仕方ないのだ。人が心を持つ限り、それには逆らえぬのだから」
「?」
彼が何を言おうとしているのかわからず、私は眉をひそめた。見れば、父も土下座の姿勢まま、顔だけ上げてファイの方を向いている。
「早い話が、愛なのだろう?」
と言って、ファイは私と父の顔を見比べた。
「妻を捨て、他の子らを置き去りにして、己につながる全てを捨ててでも、娘の命ただひとつを選んだわけだ」
それは一生許さないと言われるだろうなと、うんうん、うなずいている。
「それほどまでに、おぬしの父親はおぬしを愛しておったのだ。是も非もない。理詰めで責めたところで無意味だ。許す、許さんはおぬしの勝手だがな」
「……はあ」
私はつい間の抜けた声を上げてしまった。
や、まさか、この人の口から「愛」なんて単語が出てくるとは思わなくてね。意外過ぎて、少しだけ気が抜けてしまったのだ。
ファイにも愛した人が居たのだろうか? 他の全てを捨ててでも助けたい、と思うほどの人が。
自分の伴侶の顔すら忘れていた人でなしに? ……想像できないな。仮に居たとしても、「それは黒い魔女だ」とか言いそうな気がするなあ。