384 ガラスの棺2
「……カイヤ?」
「殿下!」
皆がいっせいに棺に駆け寄った。
もちろん、私もだ。目の前で恩人が横たわっているのを見た瞬間、体の不調なんてどこかに飛んでいってしまった。
殿下はぴくりとも動かなかった。その顔は蒼白で、蝋人形みたいに血の気がない。一瞬、最悪の想像が脳裏をかすめたが、
「……息はしているようだな」
すぐにハウライト殿下が呼吸の有無を確かめてくれた。彼はすばやく弟の体を見回して、
「外傷は……ない? ただ眠っているだけのようにも見えるが……」
「少し待て、リシアの息子」
ファイが横から口を出した。「強い魔法の気配だ。おそらく、今のカイヤには何らかの魔法がかかっておる」
『その通りだ……』
また声がして、私たちは同時に振り向いた。
『そやつには眠りの魔法をかけた……。もはやこの世の終わりまで目覚めることはない……』
その声は頭上から降ってきたのではなかった。広間の最奥、ここからだと死角になる柱の陰から聞こえていた。
『目覚めさせたくば、封印の剣を渡せ……。忌まわしき封印より、我が主人を解き放て……』
セリフにあわせて、柱の陰から姿を現す。
薄墨色のローブをまとい、フードを目深にかぶって顔を隠した何者か。身長・体格からして、おそらくは女だ。
「てめえが黒幕か?」
とゼオが声をかけ、ジェーンがメイスを構えて立ちふさがる。
一方ハウライト殿下は、この広間に入るのにも使った「鍵」を――悪しき魔法を封じる力を持つ「封印の剣」でもあるそれを取り出して、
「これをほしがるということは、おまえは儀式に現れて弟を狙った、姿なき魔女とやらの一味か」
女からの返答はない。
でも、そういうことなんだろうな。さっき「我が主人」って言ったし。
この女の目的は、あの魔女を解き放つこと。そのために殿下に魔法をかけて、脅迫して――。
「これが眠りの魔法だというなら、解くことができるのは何も魔法をかけた者だけに限るまい」
なぜか自信満々、そんなことを言い出したのはファイだった。視線を私の方に向けて軽くあごをしゃくり、
「解呪の定番といえば、アレが使えるだろう」
アレ? と首をひねる私に、ファイは顔色を変えることなく平然と、
「乙女の口づけだ」
『…………』
数秒間、いとも奇妙な沈黙が広間に落ちた。
私が何のリアクションもできずにいるうちに、ゼオがファイの首を締め上げ、それからすぐに友人の体であることを思い出したのか、「あ、悪い」と言って手を放し、ファイは咳き込みながら「や、いいよ。今のは仕方ないから、気にしないで」と、まるで友達みたいな口調でゼオに話しかけて。
「それは女性であれば良いのですか?」
ジェーンが疑問を呈した。「あるいは他にも何か、資格のようなものがいるのでしょうか」
って、まさか自分がその役目を引き受けてもいいとか考えてる?
ジェーンは身長と言動を除けば乙女に見えなくもないから、資格はあるかもだけど。さすがに口づけは、その、色々まずいんじゃない?
彼女の質問に、ファイは学術的な講義でもしているみたいな口調で回答した。
「左様なことはない。要は何らかの悪意を込められた魔力を、それと相反する感情――相手への強い愛情であるとか、その者を救いたいという純粋な想いなどで上書きするのが目的だからだ。一般的には清らかな乙女が良いなどとされるが、実のところは男でも年寄りでも構わん」
そうなんだ。いまいちロマンがないな。
……や、でも、若い女性にだけ特別な力がある、みたいなのは偏見か。性別や年齢よりも、愛情や想いの方が重要だってことだよね。
「そういうわけだから別に、おぬしでもよいと思うぞ」
と言って、ファイが視線を向けたのはハウライト殿下だった。
え゛。お兄さんが弟に口づけるの?
思わず凝視していると、ハウライト殿下は微妙に顔を引きつらせて、
「そんな必要はないはずだ。……おそらく、これがあればな」
取り出したのは、お薬でも入れておくような茶色の小瓶。
彼は眠るカイヤ殿下の上体を抱き起こすと、その小瓶を口元に持っていき、中身を含ませた。
「それはもしや、『魔女の秘薬』かっ!?」
ファイが血相変えてその手元をのぞき込む。「王家の秘中の秘だ。門外不出の品ではないか」
「その通りだが、不測の事態に備えて常に持ち歩いている」
魔女の秘薬って何だろう。
……媚薬なら知ってる。あのエマ・クォーツ事件の時に問題になった、人体に悪影響を及ぼすお薬で――。
「あ」
唐突に思い出した。
エマ・クォーツは「淑女の宴」で暗殺されかけた。その下手人は見えない魔女で、エマの命を助けたのはカイヤ殿下である。
あの時、殿下は懐から小さな薬瓶を取り出し、エマに飲ませていた。ちょうど今、ハウライト殿下がしたみたいに。
「そのお薬って、カイヤ殿下がエマ・クォーツを助けた――」
試しにハウライト殿下に聞いてみると、彼は「その通りだ」とあっさり認めた。
「あらゆる傷を癒し、あらゆる毒を消し去り、あらゆる呪いを解く力がある、とされている。……ただし、詳細は尋ねないでくれ。そこの先代国王が言ったように、王家の秘中の秘だからだ」
そんな便利な物があるんだ?
だったら秘密にしたりしないで色々活用すればいいのに……。つまりは、それができない理由があるってことなのかな?
「察しが良いな、小娘。この薬は原材料に大いに問題がある。要は、魔女の力を持つ者のちを――」
「くどいようだが、秘中の秘だ」
ハウライト殿下にセリフを遮られたファイは、露骨に顔をしかめた。
「何だ、聞いた者は口止めに始末せねばならんのか? 別にこの小娘が言いふらすわけでもあるまいに」
「そうだとしても、知る者は少ない方が良い」
きっぱり言い切られて、不満げながらも口を閉じるファイ。
本当に、余程の秘密があるんだな。
そういえばカイヤ殿下も、薬の詳細については言葉を濁してたっけ。
あの大概のことはぶっちゃけてしまう殿下が言い淀むほどの秘密なのだ。私も、下手に首を突っ込んだりはしないでおこうっと。
そのカイヤ殿下は、「秘薬」を飲んだことで明らかに様子が変化していた。
いまだ眠り続けてはいるものの、顔色は普通になっている。
多分、ちょっと揺すれば起きるんじゃないかな。実際、まぶたがちょっと動いてるし。
「さて、どうする? これで脅迫の材料はなくなったが――」
ハウライト殿下の言葉にあわせて、ジェーンが前に出る。
ローブの女は一瞬、脅えたように後ずさったが、虚勢か意地か、声を張り上げた。
『まだだ! まだ終わらぬ!』
女がローブの中から出したのは――鏡。
塔の中で何度も見掛けたのと同じ、アンティーク調の丸鏡だった。
その鏡が一瞬、太陽みたいに眩しく光って。
直後、ガシャッ、ガシャッという足音が聞こえ出した。それも四方八方から、私たちを取り囲むように。