383 ガラスの棺1
子供の頃、私は怖がりだった。
木登りとか、川遊びとか。
他の子供たちが楽しそうにしていることでも、わりと躊躇しがちで。
知らない人と話すのも苦手で、初めての場所に連れて行かれた時には、父や母の背中に隠れてしまうこともよくあった。
――この子は私に似てしまったのかなあ。
そんな時、ちょっと申し訳なさそうな心配そうな顔をして、私の頭をなでてくれるのは父だった。
――だったらきっと優しい子になるわ。
と、嬉しそうにするのは母だった。
――この子は慎重なだけだよ。よく周りを見ている、賢い子だ。
と、ほめてくれたのは祖母で。
――恐れを知っているのは何も悪いことじゃない。まして、娘が父親に似て何が悪いってんだ。
そう言って、父の顔をキツくにらむのが祖父だった。
まだ弟が小さかった頃。私が7、8歳の頃まではよくあったやり取りである。
なぜか信じてもらえないことが多いのだが、幼い頃の私は「おとなしい子」「気が弱い子」として周囲に認識されていた。
父はそれが心配だったらしい。
別に、おとなしいのが問題だ、というわけではなくて。
私の顔立ちが父親似だったこともあって、自分の「悪いところ」が娘に遺伝してしまったのではないかと、そういう責任の感じ方をしていたらしいのである。
その後、弟が成長して活動範囲が広がり、生来の生意気さと、体の弱さが誰の目にも明らかになって。
弟をいじめようとした近所の悪ガキどもを、私がまとめてはっ倒す、という事件が起きると、周囲の見る目も変わった。
――エルはおじいちゃん似だったんだね。
と、父には言われるようになった。
子供心にも、父が祖父のことを恐れ、敬い、慕ってもいることはわかったから、それがほめ言葉だということは理解できたけど。
自分が強い人間であるかのように言われるのは複雑な気持ちだった。
前述のように、私は怖がりなのだ。
痛いのは嫌だし、血を見るのも苦手だ。
いじめっ子をはっ倒したのだって、単純に腹が立ったからそうしただけで、暴力が好きなわけじゃない。血の気が多いわけでもない。
――うん、うん。エルは本当に良い子だね。
父はますます嬉しそうな顔をして私の頭をなでた。
――優しくて、強くて、まっすぐで。本当におじいちゃん似だなあ。
――父さん、私の話聞いてた?
――もちろん。エルにはずっと変わらないでいてほしいな。
私が口を尖らせても、父はにこにこしているだけだった。
眩しいものを、キレイなものを、愛しいものを見るように、いつも私のことを見つめて、大切にしてくれた。
今、どうしてそんな昔のことを思い出すんだろう。
誰かの手にしっかりと視界をふさがれて、暗く血みどろで残酷な光景から守られて。
心に浮かぶのが、どうして遠い日のやり取りなのか。
「父さん……?」
私が声をかけると、視界を覆う手が小さく震えた気がした。
「……もう大丈夫だよ、エル」
程なく、ゆっくりと手が離れて、私の視界がひらけた。
目にうつったのは、だだっ広い大広間と、ズタズタになって垂れ下がっている暗幕だった。
恐ろしい政変の惨事はどこにもなく、断末魔の叫びも聞こえてこない。
「つまらんだけでなく、趣味の悪い見世物であったな」
ファイが吐き捨てる。その声が聞こえるのは、私の背中側。さっき、「大丈夫だよ」と言ってくれた優しい声と同じ場所から。
……別人の声が聞こえるというこの状況を、私はどう理解すればいいのだろうか。
「誰も居ませんね」
ジェーンがメイスを構えたまま、きょろきょろしている。
暗幕が取り払われたせいで視界を遮るものはなくなっていたが、そこにはただ、がらんとした広間があるばかりで。
赤いカーペットの先には、何もなかった。謁見の間であれば、玉座があるべき場所も空っぽだ。
「ここで黒幕が現れるものと思っていたが……、アテが外れたか?」
周囲を見回しながら、ファイが広間の奥に歩いていく。
私はとっさにその後を追いかけようとして、足がもつれて転んでしまった。
膝が震えて、うまく動けない。垣間見てしまった惨たらしい光景が、私の体に誤作動を起こさせているようだ。
「おい、大丈夫か?」
ゼオが気づいて、駆け寄ってきた。「ひでえ顔色だな。水でも飲むか?」
彼が差し出してくれた水筒に口をつけて、深呼吸を繰り返しても震えは止まらない。
「つらいのなら、少し休んでいるといい」
と、ハウライト殿下にまで気遣われてしまった。
「彼女のことを任せてもいいだろうか?」
「お、おう。そりゃ言われるまでもねえ」
「では、頼む。我々はもう少しこの場所を調べてみることにしよう」
ゼオとハウライト殿下のやり取りを聞きながら、私は何とも不甲斐ない気持ちを味わっていた。
他のみんなはちゃんとしてるのに。30年前の政変については学校で習ったし、惨たらしい処刑や拷問が行われたことだって聞いていたのに。
知識として知っているのと、その光景を目の当たりにするのではこうも違うものなのか。
まして、自分が現場に居たら。
家族や大切な人が犠牲になっていたらと考えると――。
『最愛の我が子を奪われた彼女は、全てを憎みました』
私はぎょっと頭上を振り仰いだ。
この声。あの幻灯の語り部だ。幕が破れても、まだ続くのか。
『惨事を引き起こした誰かに復讐したいとも思いました。けれども、か弱い彼女にはその手段がありません』
ファイやハウライト殿下も辺りを見回している。この声がどこから聞こえるのか、確かめようとしてるんだろう。
『絶望の底で苦しみながら日々を過ごし、恨んで、憎んで、呪い続けて。いつしか彼女の心は真っ黒な闇に染まって行きました』
広間が揺れ始めた。
最初は小さかった揺れが、少しずつ大きくなって。
同時に、広間の奥。赤いカーペットの先で、石の床が徐々にせり上がっていくのが見えた。
ゆっくり、ゆっくりと。
大きめの寝台くらいの大きさにせり上がった床には、ほぼ同じ大きさの長方形の箱が乗っていた。
それは棺だった。無色透明のガラスでできた棺、のように見えた。
ガラス製の棺なんてもの、私はこれまでの人生で1度も見たことがない。
にも関わらず、それを棺だと判断した理由は2つ。
白いユリの花が箱いっぱいに敷きつめられていたこと。中に人が横たわっていたこと。
清らかなユリの花弁に囲まれて、眠れる森の美女よろしく、静かに瞳を閉じているのは――。
私の雇い主で恩人で、先日、私に告白までしてくれたカイヤ殿下だった。