376 鏡の中から2
「愛しいあなた……。アダムス様……。どうか、私をここから出してくださいませ……」
私は思わず、隣に居るファイの顔を凝視した。
アダムスとは彼の本名。そして鏡の中から「あなた」と呼んでいるのは、いかにも身分が高そうな女性に見える。
「あの方は、もしや……?」
先代国王の関係者、おそらくは王妃様なのでは?
「知らん。誰だ?」
って、ちょっと。なんでそんな心当たりがない、みたいな顔してるの?
ファイはすたすたと鏡に近づいていくと、じっと鏡の中の女性を見つめてからこちらに向き直り、
「この者はもしや、我が妻なのか?」
それをこっちに聞く? あいにく先代の王妃様の顔とか、肖像画でも見たことないんだけど。
ゼオもあきれ顔で、
「嫁の顔も覚えてないとか、どんだけボケてんだよ」
と突っ込みを入れる。
鏡の中の女性も一瞬唖然として、それから見る間に憤怒の形相になった。
「この、人でなし……っ!」
うん。私もそう思う。
しかし当の人でなしはなぜか不本意そうな顔をして、
「我と妃は形だけの夫婦であったのだ。籍を入れた後もろくに顔を合わせておらぬし、何より最後に会ってから30年もたつのだぞ」
説明のような弁解のようなことを言うものだから、鏡の中の女性はますます怒った。
「恥知らず! 人間のクズ! 罪なき人々の命を奪った虐殺者めが!」
「……? 虐殺をしたのは、主におぬしの実家であるアジュール家のはずだが……」
「貴様の、貴様のせいで! 多くの血が流れた! 大勢が不幸になった! その罪、万死に値する! 何度地獄に落ちても、償いきれはしまい――」
「…………」
しばし女性の言葉に耳を傾けていたファイは、やがておもむろに口をひらいた。
「おぬし、誰だ? 妃ではないな?」
ぴたりと、鏡の中の女性が固まった。
「おぬしの言葉からは強い恨みを、怨念を感じる。おそらくはあの政変を経験し、何らかの被害を受けた者であろう」
わなわな。鏡の中の女性が震える。美しかった顔も大きく歪んで、目は血走り、頬はこけ落ち、やつれて老婆のようになって――。
「我を虐殺者と呼ぶなら、まずは名乗るがいい。おぬしはどこの誰で、あの政変で誰を亡くした。全て答えてみよ」
唐突に、鏡が割れた。
ピシッ……と石でもぶつけたみたいに、蜘蛛の巣状にひび割れて。
「シム!」
ゼオが叫んで、ファイに飛びつく。一瞬後、鏡が砕け散り、彼が立っていた場所に破片となって降りそそぐ。
「呪われろ……、忌まわしき悪の王めが……」
その声は鏡のあった場所ではなく、どこか遠くの方から聞こえた。
「永遠に彷徨い続けろ……。骨になるまで……。灰になるまで……」
急に、辺りの風景が歪み始めた。
整然と本棚が立ち並ぶ図書館の姿はかすんで消えて、代わりに現れたのは、どこかの迷宮のような薄暗い通路。
「え……」
私は前後左右を見回した。
通路には点々とたいまつが灯っている。無機質な石壁が前にも後ろにも続き、天井は闇に隠れて見えない。
「何だ、これ……」
ゼオもあっけにとられた顔で周囲を見回している。
一方、ファイは「ふーむ」と首をひねっていた。
「いったい何者であろうな。我を恨む者なら、心当たりは星の数ほどあるが……」
彼は目の前の景色が急に変わったことより、鏡の中に居た女性の正体が気になるらしい。
ふいに「小娘」と私に呼びかけてくると、
「おぬしが話していた『姿なき魔女』とやらは、カイヤに悪意をいだいているのであったな?」
「あ、はい」
あの儀式の時にも狙ってきたし、脅迫状では名指しでこの塔に呼び出そうとした。あの魔女が何者であれ、殿下に良くない感情を持っていることだけは間違いないと思う。
「我とあやつの両方に悪意を持つ者……か。つまるところ、憎いのは王家か?」
その言葉で、私は「あ」と思った。
一応、容疑者というか、怪しい人は居るんだよね。脅迫状では誘拐されたことになっている、今回の件の黒幕だったとしても驚かないと宰相閣下が言った人。
「国母のエメラ・クォーツ様はご存知ですか?」
「いや、知らん。……国母、ということはファーデンの母親か?」
私はかくかくしかじかと説明した。
エメラ様が望まない結婚をさせられたことや、あの政変でご長男を亡くされたこと。彼女は王家を憎んでいたらしく、何の責任もないはずのカイヤ殿下にまで恨みを向けていたことも。
「国王の母親ならば、城に出入りすることもできような。宝物庫から魔女の七つ道具を持ち出すことも、あるいは可能かもしれん」
ファイは私の言葉にひとつうなずいて、
「あのルティとかいう小娘は、確かファーデンの娘であったな? つまり、その女にとっては孫か」
ルティじゃなくてルチル姫ね。国母が宝物庫から杖を持ち出して、何らかの目的で孫娘に与えたってこと?
私たちが話し合っていると、「おい、あんたら」とゼオが口を挟んできた。
「のん気に話し込んでる場合なのか? さっきの鏡の中の女、聞き間違いじゃなければ、『永遠に彷徨い続けろ』とか言ってた気がするんだが」
『…………』
言ってましたね、確かに。
で、目の前に広がるのは、いかにも「ここで迷え」と言わんばかりの無機質な通路。
「まるで迷宮だな」
とファイが言った。「我らを迷わせ、絶望させるのが目的の場所だとしたら、いくら探したところで出口はないかもしれん」
そんな洒落にならないことを、平然と口にしないでほしい。
ゼオも冷たく目を細めて、
「どうすんだよ」
とファイをにらんだ。
「選択肢は2つ。あきらめずに出口を探すか、何もせずに助けを待つかだ」
「はあ? 助け?」
「おぬしや我はともかく、そこの小娘には家族もおるのだろう? 共に塔に入った、あのカルサとかいう小僧にも。王族のカイヤは言わずもがな。あやつがこの場所に居るとわかれば、いずれ救出部隊が組織されるのではないか?」
それはそうなるでしょうけど。ハウライト殿下や宰相閣下が、カイヤ殿下を見捨てるなんてありえないけど。
「どうやって助けるんだよ」
ゼオが突っ込む。「こんなわけのわからん場所、普通の騎士様を派遣したところでどうにもできねえだろ」
ファイも首肯して、
「魔法には魔法を。他の七つ道具を使うか、あるいはリシアめを離宮から引っ張り出してくるか、だな」
前者はともかく、あの王妃様がお神輿を上げてくださることはおそらくないと思う。
「本当に出口がないかもわかりませんし……。ひとまず移動しませんか?」
ただ待っているのは性に合わないし、案外簡単に出られるかもだし。
私の提案に、ゼオはすぐにうなずき、ごねるかと思ったファイも「そうだな、そうするか」とあっさり同意して見せた。