371 鏡の中から
今の声は? と私たちは顔を見合わせた。
「悲鳴……?」
「だったな。助けてくれ、とか聞こえたぞ」
私にもそう聞こえた。でも、気になるのは言葉の内容じゃなくて。
「何だかちょっと、聞き覚えのある声だったんですけど……」
「俺もそう思った」
でも、まさか。こんな場所に居るはずないし。
そう思っていたら、また。
今度はよりはっきりと、「助けてくれぇ……」と懇願するような声が聞こえた。
「行ってみましょう!」
とっさに走り出すと、ゼオも私に併走しながら、「行くのは構わんが、離れるなよ!」と声をかけてきた。
「さっきも言ったが、この場所はおかしい!」
彼の説明によれば、先程ファイやカルサと塔に入った時も、道なりに進んでいたはずが気づけば入り口に戻っており、気づけば1人になっていて、2人の姿はいつのまにか消えていたのだという。
「なるほど……?」
何が何やらだけど、確かにおかしいということだけはわかった。
「いったい何なんだよ、この塔は……!」
毒づくゼオに、「そもそもどうやって中に入ったんですか?」と聞いてみる。
あの入り口の扉が、仮に「魔女の霊廟」にあったのと同じものなら、専用の鍵がなければ開かないはずなのに。
「どうやっても何も、最初から開いてたぞ」
「……最初から?」
「ああ。それを見たあのファイって野郎が、興味深いって騒ぎながら中に飛び込んでった」
で、それを連れ戻そうと中に入ったゼオとカルサは、気づけばはぐれてしまっていた、と。
言葉を交わしているうちに、廊下の奥に着いた。
そこはT字路のようになっていて、左右にまた廊下がのびている。
あいかわらず殺風景で、家具もなければ調度品のたぐいも見当たらない。ただ、突き当たりの壁に、アンティークっぽい丸鏡が1枚かけてあって、
「助けてくれぇ……」
という声は、その鏡から聞こえていた。
より正確にいえば、鏡には1人の老人の姿が映し出されていて、助けを求めているのはその老人で――。
「……おじいちゃん?」
私は唖然とした。
鏡の中の老人は、うちの祖父だった。
年の頃は70前後、真っ白な髪にねじり鉢巻きをして、作業着に祖母特製のエプロン姿。いつも店に立っている姿そのままだ。
「シムの所のじーさん……?」
ゼオも驚いた顔をしつつ、なぜか微妙に脅えた顔をして後ずさっている。
まあ、うちの祖父は怖いからね。店にやってきたチンピラとか、タチの悪い酔っ払いとか、容赦なく叩き出す人だし。
で、その怖い祖父が今にも泣きそうな顔をしながら、
「エル、エル。どうか出しておくれ」
と助けを求めてくる姿は、ものすごく違和感があった。
「なあ、これって……」
「多分ニセモノですね。うちの祖父はこんなこと言いません」
「だよなあ……。あのじいさん、初対面で俺の胸ぐらつかんでぶん殴ってきやがったし」
「そんなことがあったんですか」
「ああ。俺がじいさんと会ったのはあんたも知っての通り、俺が大ヘマやらかした後だったからな。殺されても文句はねえって言ったら、実際に死ぬ寸前までボコられた」
「…………」
それは、あれだよね。クンツァイトの刺客が、7年前に私の村にやってきた時のこと。
ゼオの「大ヘマ」で、私は一時、意識不明の重体になった。なので、祖父が怒るのも無理はない。
ただ、ゼオが村に来たのはうちの家族を守るためだし、私が死にかけたのは私自身が無茶をしたせいでもあるから、彼ばかりを責めるのはどうかと思うけど。
「その後はどうなったんですか?」
「あ? ボコられた後か? ……まあ、色々と話を聞かれたよ。何せ、シムの奴がショックでろくに話せない状態だったからな」
「…………」
私たちが過去を振り返っていると、ふいに鏡の中の老人が「おい、こら」と話しかけてきた。
「助けてくれ、と言っとるだろうが。聞こえんのか、この不孝者が」
「……あなた、誰ですか?」
私は鏡の中の老人をにらみつけた。
「人の家族のフリをするとか、不愉快だからやめてほしいんですけど」
すると老人は、途端にまたすがるような口調で、
「エル、おじいちゃんだよ。どうか助けておくれ。ここから出しておくれ……」
と哀願した。
「割るか?」
ゼオがナイフを取り出し、私に聞いてくる。
私も、石でもあれば投げつけてやりたい、と思うくらいには腹立たしかったが、
「いえ、やめておきましょう」
これが魔法的な何かだとしたら、下手にさわらない方が賢明である気がした。
「無視して先に行きましょう。早くうちの父とカルサを見つけないと」
そして、一刻も早くこの塔から出た方がいい。
スルーして先に行こうとすると、鏡の中の老人がぎゃあぎゃあとわめき出した。
「愚か者、不忠者、無礼者! 下賤な山猿、田舎者!」
「そういや、どっちに行く?」
ゼオが周囲を見回す。
私たちが今居る場所からは、やってきた方とは別に廊下が2本のびている。
右に向かう廊下は白い石造りで、木製のドアが等間隔に並び、天井にはオレンジ色の照明がついている。
一方、左に向かう廊下は同じく白い石造りだが、ドアはなく、照明の色は淡いブルーだった。
「別にどっちでもいいんですけど……」
「なら、適当に右から行くか。何もなかったら戻って左ってことで」
「そうですね。じゃあ、右から……」
と、私たちが先に進もうとした時。
鏡の中の老人がひときわ高く、叫び声を上げた。
「出でよ、僕たち! 不埒な者どもに鉄槌を下せ!」
さすがに無視もできず、私たちは足を止めた。
「あの鏡、今、何て言った?」
「僕がどうとかって……」
「やっぱり、割っておいた方が良かったんじゃねえか?」
ゼオのセリフが終わらないうちに。
淡いブルーの照明が灯る廊下の奥から、ガシャッ、ガシャッという不吉な音が聞こえ始めた。