357 兄弟の過去6
話を聞いているうちに、私は思い出したことがあった。
――どんな苦しみもいつかは終わるということを、子供は知らない。
殿下はそう言った。まるで宝石みたいな黒い瞳の中に、深い悲しみをたたえて。
あれはいつだっけ。……多分、お城で働き始めて間もない頃だと思う。話題になっていたのは、確かクリア姫のことだったはずだけど。
――幼い子供にとって、半年は短くない。
あれはご自身の体験から出た言葉だったんだ。
いつ終わるともしれない苦しみ。無限にも思える時間。時に人生観さえ変えてしまうほどの経験をしたんだ。
たった7歳で、1人、つらい時間を耐え忍んで――。
「救出された時、カイヤは傷ついていたが、それ以上に飢えてもいた」
ハウライト殿下は変わらず淡々と話を続ける。
「ずっと、まともな食事を与えられていなかったようだな。特にフェリオ・クォーツが自死してからは」
自死。さっきも聞いた話だ。
「どうして、彼は……」
自ら命を絶ってしまったのか。私が尋ねると、ハウライト殿下は眉間に深くしわを刻んで、
「死にたい、という言葉はそれ以前からたびたび口にしていたらしい。死というものに救いを求めることもあれば、自分のような人間は死ぬべきだ、と罰を望むこともあったそうだ」
フェリオはずっと心の病に苦しんでいた。もう楽になりたいという願望と、深い罪の意識に取り憑かれていた。
ただ、それまでと「その時」で違ったのは、フェリオがカイヤ殿下にこう頼んだことだった。
――僕と一緒に死んでくれないか。
「フェリオはカイヤに執着していた。正確にはカイヤとよく似た妹への執着なのだろうが」
病状が落ち着いている時には、彼は殿下のことを可愛がったりもしたらしい。
本好きの殿下を自分の書斎に招き、貴重な本や珍しい本、古地図や古文書等を見せて、興味深い話をたくさん聞かせた。
しかし、殿下がたった一言でも「帰りたい」と口に出せば、人格が豹変する。
――どこにも行かないでくれ。ずっと一緒に居てくれ。
ある時は弱々しく泣きながら。
――僕を見捨てるのか! 裏切り者! 嘘つきの偽善者め!
ある時は怒り狂い、わけのわからないことをわめき散らしながら。
フェリオは幼い殿下に暴力を振るった。
そんなことを繰り返すうち、少しずつ少しずつ、彼は壊れていった。
日中は自室にこもって出てこないことが増え、夜もただ暴れるだけではなく、自傷行為にも及ぶようになった。食事もほとんど口にしなくなり、元々痩せ型だった体が、やつれて骸骨のようになった。
そして半年近くが過ぎる頃、彼は共に逝こうと殿下に求めてきたのだ。抜き身の短剣を手に殿下に迫り、拒まれると自身の首を切り裂いた。
殿下にはどうすることもできなかった。叔父の体が倒れて動かなくなるまで、声もなくその場に立ち尽くしていた。
そのうちにメイドがやってきたが、彼女は血まみれになって事切れている主人の姿を見ても、顔色ひとつ変えなかった。
王都からわざわざついてきて、10年以上、仕えた相手だ。情も忠義もあったはずだし、
「酒浸り、薬漬けの爛れた日々を送るうち、フェリオとは男女の仲になっていたようだな」
おそらくは愛もあった。それでも、メイドは涙を見せなかった。
痩せて、すっかり軽くなったフェリオの亡骸を寝台に運ぶと、ずっとその場を動かずにいた殿下の方を振り向いて、一言命じた。
――花をつんでおいで。
フェリオのための花を、死者に手向ける花を取ってこいと言うのだった。
貴族のお屋敷には、だいたい季節の花が咲き誇る庭園がある。
フェリオの屋敷には庭師など居ないが、かつて使用人が趣味で作った花壇があった。
季節は秋の終わり。何年も手入れされずに放っておかれた花壇には、それでも遅咲きのバラがいくらか残っていた。
殿下はそのバラを数本手折ると、花束のように抱えてフェリオのもとに持っていった。
メイドは黙々と働いていた。
フェリオの血で濡れた床はそのままに、屋敷中から調度品のたぐいをかき集めて、主人の亡骸を横たえた寝台を、まるで祭壇か何かのように飾り立てていた。
殿下が持ってきたバラを奪い取り、花弁だけをむしって、フェリオの寝台に敷きつめると、
――これじゃ全然足りない! もっと持っておいで!
とヒステリックに命じた。
おそらく、いや確実に。そのメイドもまた、壊れていたのだろう。
殿下は何度も花壇に足を運んだ。しかしそこにあるバラを全て取ってきても、メイドは満足しない。
もっとたくさん、フェリオの寝台が花でいっぱいになるくらい集めてこいと叫び、「もう花はない」と答えると容赦なく殴られた。
――言う通りにしないと、飯を食わせないよ!
追い出されるようにして、殿下は外に出た。
屋敷の周囲には森が広がっていた。かつて別荘地として使われていた頃は、人の手が入り、遊歩道も整備されていた森は、その時には屋敷と同じくらい荒れ果てていた。
幸い、少し歩くと野の花が見つかったので、殿下はそれを集めて屋敷に戻った。
メイドはまた花を奪い取り、代わりに黴びたパンを1個投げつけてきた。
それからの日々は、飢えとの戦いだったらしい。
花は時間が経てば朽ちていく。
フェリオの寝台を飾る花弁が萎れてしまうと、メイドはすぐに代わりを求めてきた。
だが、そんなにたくさんの花が森に咲いているわけもなく、足を棒にして歩き回っても、何も見つからないことの方が多かった。
花を持って帰らなければ、食べ物はもらえない。それどころか、手ひどく折檻される。
飢えて、疲れて、ぼろぼろになって。
もはや逃げようという気力も発想もなく、狂ったメイドに命じられるまま叔父の亡骸に花を手向け続ける日々は、数週間あまりも続いた。
「あと少し、救出が遅れていれば、カイヤは助からなかったかもしれない」
本当にギリギリのところだったとハウライト殿下は言った。
「警官隊が手がかりを見つけてくれた。半年間、行方の知れなかったカイヤが、フェリオの屋敷に囚われていることを突き止めたんだ」
どうやって突き止めたのか、くわしい経緯は教えてもらえなかった。何か事情でもあるのか、ハウライト殿下はその辺りの話をきれいに端折ってしまった。
「私も、現地に同行した。叔父とジャスパー・リウスに頼み込んで、連れていってもらった」
王都の北にある流刑地までは、普通に行けば馬車で10日ほど。
宰相閣下は宿場ごとに惜しみなく馬を変え、夜も交替で馬車を走らせて、わずか5日でフェリオの屋敷に駆けつけた。
屋敷は異様な空気に包まれていた。
危険があるかもしれないという理由で、ハウライト殿下は中に入ることを許されず、叔父たちが屋敷の中を捜索している間、護衛の騎士様と外で待っていた。
弟は無事なのか。本当にここに居るのか。祈るような思いで屋敷を見上げていた時、背後で足音がした。
騎士様が剣に手をかけながら振り返り、ひどく驚いたような顔をする。
ハウライト殿下も背後に向き直り、そして、俄には信じがたいものを見た。
ずっとその身を案じていた弟が、すぐそばに立っていたのである。
――兄上。
見違えるほど痩せて、汚れていたが、間違いなくカイヤ殿下だった。黒目がちの瞳を丸く見開いて、
――花はどこにある?
「それが、弟の第一声だった」
やっと会えたハウライト殿下を前にして、泣くでも笑うでもなく。
ようやく助けが来たことに、喜ぶことも安堵することもなく。
子供らしからぬ無表情で、大好きな兄上様を見返して。
――叔父上に花を持っていかなければ。
「半年ぶりに耳にした弟の言葉が、それだったんだ」
最後の気力を振り絞るように吐き出して、ハウライト殿下は長い、長い話を終えた。