342 無法者の弱み1
それから私は憩い亭の奥で、掃除と片付けの続きをすることにした。
セドニスには「もう結構ですよ」と言われたが、今から部屋に戻っても時間を持て余してしまう。この先のことを考えるにしても、働きながら、体を動かしながらの方が性に合っているし。
セドニスは「……好きにしてください」と言って廊下を去っていった。
さて、何から始めようか。
従業員用の食堂と、物置やお手洗いの掃除は昨日のうちに終わった。
あ、でも。食堂の奥に、まだ手をつけていない扉があったな。あれって何だろ。食品庫とかかな……。
気になって行ってみると、ちょうど休憩を終えたらしい従業員さんが食堂から出てくるところだった。
「あ、エリーさん。休憩ですか?」
私の顔を見て笑いかけてくる。
料理長さんの娘さんで、自身も厨房で働いている。ふっくらした体型の優しそうな女性である。
「うちの母が焼いたケーキがテーブルの上にあるので、よかったらどうぞ」
「わあ、ありがとうございます」
彼女と入れ違いに食堂に入る。
多い時は10人以上が同時に食事をとることもある広い部屋。今は時間が外れているせいか、誰も居ない。
部屋の中央には大きなテーブルがひとつ。そこに大きめのお皿が1枚、覆いをかけた状態で置いてある。
開けてみると、フルーツとクリームでデコレーションされた、思いのほか豪華なケーキが顔を出した。ちゃんと食べやすいように、1人分ずつ切り分けてある。
メチャクチャ美味しそうだけど、さっきお昼を食べたばかりだしな。
誘惑を振り切り、まずは掃除を……と覆いを戻した時、背後から声がした。
「何やってるんだい」
「!」
私は驚き、飛び上がった。
それが怪しく見えたのだろう。私に声をかけた人物は、もともと凄味のある顔にさらに凶悪な笑みを浮かべて、
「可愛い弟子の頼みだから匿ってやったってのに、こそ泥めいた真似をしでかすとは恩知らずな小娘だねえ。たっぷり慰謝料を払ってもらわなきゃ割に合わないよ」
いきなりお金の話をし始めたのは、誰あろう、この店のオーナー、アイオラ・アレイズであった。
歴戦の傭兵で、上背もあれば体の厚みもある。そんな人が頭上からのぞき込むように顔を近づけてくるものだから、かなり怖い。
私が何の反応もできずに固まっていると、アイオラは興ざめしたようだった。
大股で部屋の奥に――私が後で片付けようと思っていた扉を開けて、中に入っていく。
程なく戻ってきた彼女の手には、酒瓶が2本。
食品庫じゃなくて、酒蔵だったのかな? 左手にワイン、右手にウイスキー。どちらも高級そうだ。
アイオラは例のケーキの横にどん! とウイスキーを置くと、椅子に腰を下ろしたと思ったら両足をテーブルの上に乗せて、栓抜きも使わずワインの栓を引き抜き、瓶から直接ぐびぐび飲み始めた。
まあ、なんてお行儀がよろしいんだろう。思わず拍手しそうになったほどだ。
「せめて、足は下ろしたらどうですか」
と私は言った。
他はあきらめるから、それだけ注意させて? せっかくの美味しそうなケーキを蹴っ飛ばしそうで怖い。
もはや私のことなど眼中にないという顔でお酒を飲んでいたアイオラは、
「居候のくせに説教かい」
と顔をしかめた。「しかも、その言い方。うちの息子にそっくりだねえ」
「……そうですか?」
「『飲むなとまでは申しません。せめて量を控えてください』だの、『可能であれば食事も一緒にとってください』だの……」
うるさいんだよ、と吐き捨てる。
いや、どう聞いても気遣ってるじゃないか。お説教にしても優しい方じゃないか。
さすがにセドニスのことが気の毒になって、
「飲み過ぎは体に良くないですよ」
と注意する。
「なんだい、なんだい。偉そうに」
アイオラは全く聞いてくれない。これみよがしにワインを飲んで、
「王族に見初められた程度で思い上がるんじゃないよ。田舎くさい小娘が」
と悪態をついた。
「……っ!」
動揺で、とっさに言い返せなかった。
このお店の人たちは、何て言うか。客商売のプロだから。
私が隠れ住むことになった理由――公衆の面前で第二王子殿下に告白? めいたセリフを言われてしまった件について、興味本位で詮索してきたりはしなかった。
セドニスには1度だけ、
「お困りのことがあれば相談に乗りますよ」
と社交辞令のように――実際には本心で――言われたけどね。私の方がその気になれなかったのだ。
なのに、アイオラは。
悪態混じりに殿下とのことを揶揄した挙げ句、多分真っ赤になっているだろう私の顔を見て、馬鹿にしたように笑い出した。
「はは、愉快な顔だね。酔っ払いのタコみたいだよ」
「……っ!」
私はぐっとこらえた。
本音は引っぱたいてやりたかったけど、それはおそらく相手を喜ばせるだけだ。
アイオラは確実にやり返してくるだろうし、向こうは戦いの専門家。殴り合いになったら、こっちに勝ち目はない。
言い返すのだ。それも涼しい顔で受け流してやるのだ。きっとその方が彼女も悔しいはず。
「はて、酔っ払いはどちらでしょうか」
と私は首をひねった。
「それとも実はシラフでいらっしゃるのでしょうか。自分の足をテーブルの上にお乗せになるだなんてお行儀のよろしいこと、うちの田舎では子供でもしませんけれど」
アイオラの笑みが消えた。
空になった酒瓶を放り投げ、勢いよく立ち上がる。
ううん、失敗したかな。
涼しい顔で受け流すつもりが、単にけんかを売っただけ、みたいになってしまった気が――。