327 悪い魔女
「何をしている! 早く逃げろ!」
ハウライト殿下が叫ぶ。
「クリア!?」
馬で追いかけてきていたカイヤ殿下も、そこに最愛の妹姫が居るのに気づいて、悲痛な声を上げた。
一方、唐突に立ち止まった魔女の像は、また唐突に動き出した。
ぐわあっと右手を持ち上げて――その手に捕まっている私も、一緒に持ち上げられて――次の瞬間、ぶん投げられた。
悲鳴を上げる余裕なんてない。下手にしゃべろうとしたら舌を噛んでいたはずだ。
「……っ!?」
目を閉じ、歯を食いしばり、小石みたいに飛んでいきながら、私は考えていた。
この飛んでいく先に、クリア姫とダンビュラが居なければいい。もし居るのなら、よけてくれればいい、と。
1秒にも満たない、刹那の思考だった。
巨大な石像の手で力任せにぶん投げられた私は、頭から大地に衝突し、あえなくその短い生涯を閉じて――。
なんてことには、ならずに済んだようだ。
何かにぶつかった感触はあった。
でも、それは予想していたよりずっと優しいもので、とっさに目をひらくと、そこには救国の英雄と呼ばれる騎士の凜々しい面差しがあって。
「ぎゃーーーっ!!!」
ここに来て初めて、私は悲鳴を上げた。
叫ぶタイミングがおかしいとか、突っ込まれても困る。
だって、だってね?
危機一髪のところをクロサイト様に受け止めてもらったんですよ? しかも、いつかみたいに横抱きにされてたんですよ?
何なの、このお姫様ポジション! メイドごときには刺激が強すぎるってば!
動揺しまくる私とは対照的に、クロサイト様はどこまでも冷静沈着だった。
私の体をそっと森の地面に下ろすと、「安全な場所までお逃げください」と言って、戦いに戻っていく。
と、そうだった。くだらないことで騒いでる場合じゃない。
クリア姫は? ダンビュラは?
辺りを見回そうとして、ふいに糸が切れたみたいに私はうずくまった。
「!?」
何、これ。膝がガクガクして――動けない。
や、考えてみたら当たり前の話なんだけどね。洒落でも冗談でもなく、死ぬところだったんだから。ショックで動けなくなるくらい普通のことだと思う。
……とはいえ、へたり込むのはまだ早い!
動け、この足、と自分を叱咤していると、「エル!」と私の名前を呼びながら、クリア姫が駆け寄ってきてくれた。
ダンビュラは一緒じゃない。あっちで魔女の像と戦っている。
私たちが今日、魔女の霊廟で手に入れてきた短剣を口にくわえて、石像の足元をすばやく走り回っては、スキを見て刃を突き立てようとしている。
「姫様……」
どうして来てしまったんですか、と言うのはやめにした。
お兄さんたちが危ない目にあっているのに、自分だけ隠れているなんて、この優しいお姫様にできるわけないし。
だったら私が守らなくちゃ。せめてもう少し安全な場所にお連れしなくては。頭ではわかるのに、膝が震えて――。
「大丈夫か? どこかケガはないか? あんなひどい目にあって、さぞつらかったことだろう。怖い思いをしただろう」
クリア姫の小さなてのひらが、そっと私の肩にふれた。
「大丈夫、です。私は大丈夫ですので……」
自分に言い聞かせるようにしながら、私は手近な木の幹で体を支えて、どうにか立ち上がった。
「もう少し離れていましょう。ここに居たら戦いの邪魔になってしまうかもしれません」
事実、戦いはすぐそこで続いているのだ。
人質のハウライト殿下をしっかりと抱え込んだまま、近づく者を威嚇するように両足を踏みならす白い魔女の像。
その魔女の像を追ってきていたのはカイヤ殿下やクロサイト様だけではなかったらしく、近衛騎士が10数人、それぞれの武器を構えて像に対峙している。
「邪魔です! どきなさい!」
最前列で叫んでいるのはジェーンだ。メイスよりもさらに大きな、棍棒みたいな武器を得物としてかついでいる。
あれなら一振りで石像を破壊することだってできるかもしれない。……ただし、人質のハウライト殿下もわりと危ない。
「やめろ! 殿下に当たる!!」
仲間の近衛騎士たちが止めている。1人では止めきれないので、数人がかりでジェーンにしがみつく。
「ハウライト殿下には当てません! あなたたちは勝手によけなさい!」
それを聞いて、さらに複数の騎士が取り押さえに加わった。
巻き添えで死人が出たら困るからだろうけど、普通に戦いの邪魔になってないか、ジェーン。
「兄上! 兄上、大丈夫か!」
カイヤ殿下も戦っている。正確には、騎士たちに混じって像に近づこうとしている。
「だから、アンタは下がっててくださいってば!!」
半泣きになって引き止めているのはクロムだ。
殿下って、いつもは泰然として動じない人なのに、今はちょっと、頭に血が上ってるみたい。
捕まってるのが兄殿下だからかな。実は「重度のブラコン」だってダンビュラが言ってたしなあ……。
その時、弾けるような笑い声が頭上から降ってきた。
「!?」
声のした方を振り仰ぐ。
そこに、あの魔女が居た。木の枝に腰掛けて、両の足をぶらぶらさせながら、戦いの様子をのん気に見物している。
のん気に? いや、愉快そうにだ。
楽しくて仕方ないという風に口元を歪ませて、ニヤニヤと、とても嫌らしい笑みを浮かべている。
魔女の視線の先にはカイヤ殿下が居た。
クロムと他の騎士たちに引きずられて、半ば無理やり危険から遠ざけられようとしている。その痛ましいほど必死な表情を、珍しく取り乱した様子を見て、魔女は嘲笑っているのだった。
怒りがわいた。私の心に。まるで炎のように激しく、視界を真っ赤に染めて。
一瞬で身の内からわき上がったそれは、死にかけた恐怖も動揺も消し飛ばし、私を支配した。
許さない。絶対に。
殿下は私がお仕えするクリア姫の1番大事な人で、私にとっても恩人で、それにそれに――ああもう、理屈はいい!
私はすばやい動きで屈み込み、手近な小石を拾って魔女に投げつけた。
見事に命中!!
側頭部に小石を受けた魔女は、「ぎゃっ」と悲鳴を上げて木から落っこちた。
そのまま地面に落ちれば気絶くらいはしそうな高さだったけど、残念なことに、途中でふわりと浮き上がった。あいかわらず、重力を無視した奇っ怪な動きをする奴。
「また、おまえか……」
憎々しげに顔を歪めて、こちらをにらんでくる。……何気に、しゃべったのは初めてかも。
若い見た目に似合わぬ中年以上の女の声で、美声でもなければ神秘性のカケラもない。
それを聞いて、私はなんとなく悟った。
こいつの正体については何もわからない。姿は見えないし、空を飛ぶし、怪しい力を色々使っている。
でも、人間だ。
人を苦しめて喜んだり、邪魔する奴を排除しようとしたり。醜い感情や利害のために動く、ただの女だ。畏れる必要なんてない。
「姫様。お下がりください」
これも地面に落ちていた枯れ枝を武器の代わりに、私はやや重心を低くして身構えた。
「……エル? どうしたのだ?」
おっと、そうだ。あの女の姿は、大抵の人には見えないんだった。
「ここに魔女が居ます。『淑女の宴』に現れたあいつです。あの動く魔女の像を操っているのも、もしかしたらこいつかもしれません」
できるだけ手短に説明する。
聡明な上に、淑女の宴の件もくわしく知っているクリア姫は、すぐに話を飲み込んでくださった。
「姿の見えない魔女が、また現れたのか……」
「はい。危険なので、できるだけ離れていてください」
「しかし、エルは……」
エルも危険では、と言いかけて、クリア姫は何か思いついたように口を閉じた。
「……そう、だな。わかったのだ」
すばやく身を翻し、森の中を駆けていく。
逃げてくれたにしては方角がおかしい。クリア姫が向かったのは、いまだ白い魔女の像が暴れている方だったのだ。
「姫様!?」
私がその背に向かって叫んだ時、魔女もまた動いていた。
空中に浮いている状態から、ほとんど自由落下のような速度で降下し、こちらに踊りかかってくる。
クリア姫の方に気をとられていたせいで、反応が遅れた。
魔女の体当たりをまともに受けた私は、バランスを崩して倒れ、そのまま森の地面をゴロゴロと転がった。