326 人質
……そして、どうなったんだろう。
なぜだか一瞬、意識が飛んでいたようだ。
いつのまにか閉じていた目を開けた時、私は屋外に居た。
頬にあたるのは、昼の暑さを残した、生ぬるい夜の風。
ズシン、ズシンと聞こえる、この音は何だろう。まるで巨大な生き物の足音みたいな――。
辺りを見回す。
視界にうつったのは、儀式が行われていた礼拝堂、じゃない。月明かりと星明かりに照らされた夜の森だった。
「え……」
何これ、どうなってるの。
ついさっきまで、礼拝堂の2階席に居たはずだよね? なのに、どうして。
どうして私の両足は、宙に浮いている??
「大丈夫かね」
誰かが声をかけてきた。
「ハウライト殿下……?」
って、なんで第一王子殿下が。私と同じように宙に浮いていらっしゃるのですか?
「まずは落ち着きたまえ。冷静に、自分の状況をよく見るんだ。……無理な注文かもしれないが、泣いたり騒いだりするのはできればやめてほしい」
「?」
言われた意味が半分も理解できないまま、私は言われた通りに自分の状況を確かめようとした。
ズシン、ズシン。
さっきから聞こえるこの音は、白い魔女の像が森を闊歩している音だった。
で、私とハウライト殿下は、石像の手にぶら下げられている。
右手に私、左手にハウライト殿下。私は猫の子みたいにつまみ上げられて、殿下は腰の辺りをわしづかみにされて、それぞれ運ばれている。
「!?!?!?」
あまりのことに声も出ない私に、ハウライト殿下が説明してくださった。
クロサイト様とジェーンに苦戦していた魔女の像が、何を思ったのか急に標的を変え、重要人物だらけの2階席めがけて襲いかかったのだと。
当然ながら2階席は大混乱になり、王様や隣国の王太子殿下を守るため、護衛の騎士たちが立ち向かった。
天井の石材が落下してきたり、2階席の一部が壊れたり。
そうした混乱のスキを突いて、魔女の像はハウライト殿下を人質にとり、礼拝堂から逃げ出した。無論、殿下の周りにも護衛は居たのだが、王様たちを助けるのに人手を回したせいで、守りがやや手薄になっていたらしい。
成り行きはなんとなく理解したけど、
「私は……?」
人質にしたって、特に意味もない一般人ですよね。なのにどうして、第一王子殿下と一緒に捕まっているのでしょうか。
魔女の姿が見えるから邪魔だった? ついでに片付けようとしたとか? でも、それならか弱い(?)メイドの私より、戦えるミケの方を先に排除しそうな気がする。
「さあ、な。石像の考えなどわからんが――」
ハウライト殿下いわく、何か理由があってそうしたようには見えなかった。たまたま手の届く場所に居たから、ついでに捕まえたのではないか、とのこと。
「…………」
私は閉口した。
自分の運の悪さについては、もう嫌ってほど自覚しているから特に思うこともないが、
「……落ち着いていらっしゃいますね」
気になるのは、第一王子殿下の冷静さだ。
このムチャクチャな状況下で、そこまで平然としていられるものなんだろうか。巨大な動く像の手につかまれて、下手したら握りつぶされるかもしれないっていうのに。
「仕方がないだろう」
ハウライト殿下の視線が眼下に向く。
ざっと十数メートル後方。私たちがぶら下げられているのは地上から5メートルくらいの高さだから、かなり距離がある。
それでもこちらを追ってくるカイヤ殿下の姿が視認できたのは、いつもの黒づくめスタイルとは違う真っ白な衣装が、夜の闇の中に浮かび上がって見えたからだと思う。
林道が整備されているわけでもない、森の中だ。なのに器用にも馬を操り、追いかけてくる。
必死で呼ぶ声も聞こえる。「兄上! エル・ジェイド!」と。ハウライト殿下だけでなく、メイドの私の名前まで呼んでくださっている。
「近衛騎士たちに任せて下がっていろと言ったものを――」
ハウライト殿下は心底あきれたという顔で嘆息して、
「とにかく、見ての通りだ。自分が命を狙われているはずの弟が、逃げるでも隠れるでもなく、わざわざ追ってきている。この状況で、私が冷静さを失うわけにはいかない」
少なくとも自分はそうだと殿下は付け足した。
「君は、耐えがたいなら気絶でもしていてくれ。先程も言ったように、泣いたり騒いだりするのはやめてほしい。普通に邪魔だ」
「……いえ、大丈夫です」
実際は何にも大丈夫じゃない気がしたけど、そこまで理路整然と諭されて、これから慌てふためくというのは逆に難しい。
「この像、どこに向かってるんでしょうか?」
ジェーンに首から上をぶっ壊された魔女の像は、頭があった時と同じように平然と動いている。
その足運びは早足くらいのものだが、大きさが大きさだけに結構なスピードだ。
視界に広がる森は、おそらく礼拝堂の周囲を囲むように広がっていた森だと思う。
ただ、私はこの辺りの地形にはくわしくない。森の広さや、行く手に何があるのかまではわからない。
「そうだな……。この森の奥、馬で小1時間ほど行った場所に小さな渓谷がある」
「渓谷、ですか」
「ああ。魔女の断崖とはほど遠い、ごく小さなものだが――」
それでも渓谷と呼ばれる程度の深さはあるわけで、
「我々を道連れに身投げでもされては、非常に困ったことになるな」
「……そうですね」
他に言うことが思いつかなかったので、私は短く相槌を打つだけにとどめた。
しばし沈黙が落ち、魔女の像の足音がうるさいくらい耳に響いて――。
「君はマーガレット・ギベオンの話を聞いているかね」
また口をひらいたのはハウライト殿下だった。
その顔に脅えの色はない。むしろ何事かを思案しているような表情を浮かべている。
弟のカイヤ殿下が自身の考えを整理したい時、こんな風に話を振ってくることがあったな、と私は思い出した。
「巨人がカイヤ殿下のことを狙っているという……」
「そう、それだ。その巨人というのが、この魔女の像なのだろうか」
そんなこと聞かれたって私には答えられやしないが、
「目の数が違いますよね?」
殿下も言ってた。白い魔女の像は「ひとつ目」ではないと。
「そこはこの際、さほど重要ではないだろう。そもそも巨人の目がひとつしかないというのはおとぎ話の記述だ。実際の巨人がどんな顔をしているかなど、誰も知るはずがない」
「それは……、仰る通りですが……」
と、その時。ハウライト殿下がハッと息を飲んだ。
「馬鹿な」
同時に、巨像が足を止めた。支える頭を失った首をわずかにかしげて、何かを見下ろしている、ように見える。
その視線の先(と思しき方向)を見て、私は全身から血の気が引くのを感じた。
距離にして5メートルほど前方。森の木々が少しひらけた場所に立っていたのは、虎か、がっしりした山猫みたいな謎の生き物と――その背にしっかりとつかまった幼い姫君だった。
思わず「どうして」と声が出ていた。
騒ぎに気づいて、追いかけてきてしまったのか。2人の兄殿下のピンチに、じっとしていられなかったんだろうか。
礼拝堂の外で待機していたはずのダンビュラとクリア姫が、石像の行く手を阻むように姿を現していた。