307 離宮にて
メイド長である老婆の先導で、私たちは離宮へと向かった。
しかし連れて行かれたのはなぜか、使用人のための通用口。疑問に思っていると、
「離宮の正門は、母様の命令で閉ざされているのだ」
とクリア姫が教えてくださった。
メイド長さんも懐から取り出した鍵で通用口のドアを開けつつ、
「最後にひらかれたのは4年前、カイヤ殿下とハウライト殿下が戦勝のご報告に来られた時でしたねえ」
それからずっと? 誰も訪れてないってこと?
「非公式の訪問なら、何度かございましたよ。妹君のフィラ様がお忍びで訪ねて来られたり……」
ただ、その時も正門は閉ざされたままだったそうだ。
公的な訪問ではないからというのが表向きの理由だが、実際は違う。閉ざされた正門は、できることなら誰とも会いたくないという離宮の主人の意思表示なのだ。
「王妃様はこのところ特に、ご気分が優れないようで……」
応接間に案内され、温かいお茶を振る舞われながら訪問の用件を伝えると、メイド長さんは申し訳なさそうな顔をした。
「お会いになるのは、難しいかもしれません」
ずっと身の回りの世話をしてきた彼女ですら、ここ数日は扉越しに一言二言、言葉を交わすことしかできていないのだという。
「……そうか。やはりな」
クリア姫は暗い表情でうつむきかけたが、すぐに気持ちを切り替えたように言った。
「ならば、仕方ない。今の話を母様に伝えてほしい。長居はしない、鍵を貸していただけたならお暇します、と」
「かしこまりました」
一礼して、応接間を出て行くメイド長さん。
その姿が見えなくなってから、「……よろしいんですか?」と私は尋ねた。
久しぶりに来たのに、お母様と会わなくていいのか――という意味ではない。
クリア姫が言付けたのは、「どうしても必要なので、『魔女の霊廟』の鍵を貸してほしい」ということだけだったのだ。
王都が今、大変なことになっていると伝えなくていいんだろうか。カイヤ殿下が狙われていることや、騎士団長がクーデターを起こそうとしていることは?
「そんなことを言ったら、かえって母様は協力してくださらない」
クリア姫はきっぱりと首を横に振った。
「母様は政治の話がお嫌いだ。絶対に巻き込まれたくないと頑なになってしまうだろう。私たちの目的は霊廟の鍵を手に入れること。それだけならば、理由を言わずとも母様は応じてくれる」
何に使うのかも聞かずに? 王家に伝わる貴重な物なのに。
「そのようなこと、母様にとってはどうでもいいはずだ」
どうでもいいんですか。
私があきれを通り越して感心していると、クリア姫はまた少し暗い表情になった。
「本当は、母様のお知恵もお借りしたかった。できれば直接話したかった……」
王妃様は王家の直系。魔法に関する知識も持っている。
巨人のことだって、もしかしたら何か知っているかもしれない。その知識があれば、兄殿下を助ける力になるかもしれないのに。
「メイド長さんが戻ってきたら、ダメ元で頼んでみましょうか?」
ほんの少しでもいい、王妃様に会えないかと。
「…………」
クリア姫は迷っている様子だったが、「いや、おそらくは無駄だろう」と静かに言った。
床で丸まっていたダンビュラも同意する。「機嫌が悪いって、メイド長の婆さんも言ったろ」
だいぶ違う。正確には「ご気分が優れない」だったはずだ。
「あれは言葉を選んでくれたのだと思う。そういう時の母様は、本当に誰とも会おうとなさらない……」
王妃様の私室は「奥の宮」と呼ばれる場所にある。
離宮の本宮とは渡り廊下でつながっているのだが、途中に固い石の扉があって、王妃様の許可がなければ開かない。鍵もかんぬきもないのに、びくともしない。
王妃様の力なのか、もともと離宮に魔法でもかかっているのか。いずれにせよ、無理に会うことはできないのだとクリア姫は言った。
「…………」
また少しモヤモヤしながら、待つこと15分。
メイド長さんが戻ってきた。その手に宝石箱のようなものを抱えて。
「こちらが、ご所望の鍵であるとのことでございます」
……本当に、あっさり貸してくれた。
「母様は何か仰っていただろうか?」
クリア姫の問いかけに彼女が答えるまで、一瞬の間があった。
「いえ、何も」
「貸してやるからさっさと帰れ、とか言ったんじゃねえの?」
私は虎じまのしっぽを踏みつけてやろうとした――しかしメイド長さんがそうする方が早かった。
ぎゃっと悲鳴を上げるダンビュラに構わず、彼女はそっとクリア姫の手を取り、
「お役に立てず申し訳ありません。されど、ばあやは姫様のお味方でございます。いつどんな時でも、可愛い姫様の御身を案じております」
「メイド長……」
「どうか、お気をつけて。わたくしのクリスタリア姫に白い魔女の祝福があらんことを」
しっとりとした、良い場面だった。固そうな靴底で、虎じまのしっぽをぐりぐりしていなければ。
「おい、やめろ。いてえ! 放せって!」
「……すまない、彼を許してやってくれ」
姫様の頼みに、ようやくメイド長さんが片足を持ち上げる。よほど痛かったのか、ダンビュラは踏まれたしっぽを抱えてフーフーしている。
「時間がない、すぐに王都に戻ろう」
迷いを振り切るように、決然と告げるクリア姫。
メイド長さんは「ご案内します」と先に立った。
応接間を出て、廊下へ。短い滞在だったなあと思いつつ、私は離宮の様子を見るとはなしに眺めた。
さすがに、すごく立派な建物だ。ただの通路が広々としているし、天井も高くて、吹き抜けになっている箇所もあったりして。
床は多分、大理石。壁も天井も真っ白。王城と比べても見劣りしないレベルだと思うが、人の気配は全くしない。
いくら人嫌いの王妃様が居るにしても、この建物をメイド長さん1人で管理できるはずがない。
前に聞いた話では、確か隣村の主婦たちがメイドとして雇われているはずでは……?
「皆は不在か?」
クリア姫も首をかしげる。あまりに静かすぎて変だと思ったんだろう。
「この時期は特別でございますよ。王都でもお祭がひらかれておりますでしょう?」
メイド長さんがにっこりする。
8月、王都で年に1度の青藍祭がひらかれる時期、離宮のふもとの村でも、ささやかながらお祭をするんだって。
「そういえば、そうであったな」
クリア姫も思い出したという顔をする。
「皆に会えなかったのは残念だが、よろしく言っていたと伝えてほしい」
「本当に、メイドたちは全員、ひどく残念がりますでしょう。どうして今日に限って離宮を離れていたのかと、嘆く姿が目に浮かびます」
この離宮に仕えるメイドたちは、噂通りクリア姫のことを大切に思っているらしい。
「落ち着いたらまたお越しくださいませ。その時は是非、兄君様もご一緒に」
クリア姫は「約束しよう」とうなずいた。
心温まる、主従の絆。
そこに、冷や水を浴びせるような声が割って入った。
「クリスタリア」
吹き抜けの高い天井。2階部分にあたる廊下から、誰かがこっちを見ている。
長い黒髪。漆黒の瞳。身にまとうドレスは黒ではなく、凍てつく氷のような灰色がかった白。
ぱっと見はかなり華奢な女性――しかしその威厳と存在感といったらない。
私は畏れた。圧倒されたと言ってもいい。
なんて恐ろしく、美しい人だろう。生身の人間とは信じられないくらい神々しく、そして冷たい。
ふいに寒気に襲われた私は、自分の体を両手で抱きしめた。
人ならざる冷気を身にまとい、彼女は立っていた。
リシア・クォーツ。この国の王妃。
「母様」
クリア姫が実の母親を呼ぶ――そのお声もまた、寒さに震えているようだった。