301 血の宴
声の主は、オジロとサーヴァインだった。
このお屋敷は広く、そこら中に本がある。
私たちは書庫で。彼らとアイシェルは、また別の場所で。
手分けして調べ物をしているはずだったのに、こんな所でいったい何をしているのか。
「あなたは耐えられるというのですか! あんな男に協力するなど!」
サーヴァインが叫ぶ。
……私は、どうしてか息がつまった。
何だろう、この声。かすれて割れた、まるで悲鳴みたいな声。
「『血の宴』は、先代国王が始めたわけではありませんよ」
答えるオジロの声も、どこか苦しげだ。「ただ、彼の時代に盛んに行われていた……というだけです」
「それも政が乱れていたせいでしょう! あの男が自分の部屋にこもって研究などに明け暮れているうちに、いったいどれほどの血が流れたことか!」
「…………」
オジロが黙り込む。重苦しい沈黙がしばらく続き、
「今は、ただ。我々が為すべきことをするだけです」
殊更ゆっくりした口調で、彼は言った。まるで、自分自身に言い聞かせるみたいに。
「先代の知識が、能力が、殿下のお役に立つ可能性があるのなら、無下にすべきではない。それはわかるでしょう」
「わかっていますよ! そんなことはあなたに言われずとも――」
唐突に、会話が終わる。
他でもない、私が居るのに気づかれたからだ。
「エルさん……」
オジロが気まずい声で私の名前を呼び、サーヴァインは物も言わずにその場から立ち去っていく。
「えと、あの……。お茶を淹れようと思って……」
「そうでしたか。驚かせてしまってすみません」
会話には応じてくれたものの、オジロも私と目を合わせようとはしなかった。
「失礼します」
とだけ言い残し、足早に去っていく。
とても呼び止められるような空気ではなく、私は黙ってその背中を見送った。
……「血の宴」って何だろう。
初めて聞く言葉ではない気がする。確か、きのうもオジロが口にしていたような気が……。
疑問の答えは、書庫で待っていた。
台所でお茶と軽食を用意し、台車に乗せて戻ってきた時だ。書庫の中から聞こえたファイの声に、私は凍りついた。
「そうか。おぬしら全員、『血の宴』の被害者なのか」
続いてニルスの声が、「はい。危ういところを殿下に救っていただきました」と答えている。
「なるほど。その恩を返すために仕えているというわけか?」
「それもありますけど……。僕たち全員、行く所がないんです。もともと仕えていた旦那様に嫌われて、『血の宴』に売られてしまったから……」
ニルスの声は淡々としている。感情の乱れを感じさせない、世間話のように落ち着いた話し方だった。
「僕は見ての通りの体になってしまったので、ご恩を返すどころか、今後の生活の見通しも立たなくて。殿下は元の旦那様に補償させると言って交渉してくださってるんですが、色々と――難しいみたいです」
「厄介な相手なのか。大物貴族か?」
「いえ。単に『証拠がない』って言い張ってるみたいです。僕らが拷問されるなんて知らなかった、ただ新しい仕事先を紹介しただけだって」
「ふむ。おぬしらを『売った』謝礼も受け取っておらぬと?」
「……そんなわけ、ないんですけどね。もともとお金に細かい人だし、ここ最近の世の中の変化でお家も苦しかったはずだし……」
この会話は何だ。2人は何を話している。
――僕らが拷問されるなんて知らなかった?
拷問って何。「売った」って何。
いや、それより何より、こんな話をクリア姫の前でしているの!?
夢中で書庫の扉をひらくと、そこには。
椅子に縛られたファイと、少し離れた所で本をめくっているニルス、ファイの見張りをしているジェーンが居て。
他には、誰も居なかった。
「あれ、姫様は……?」
「何か思い出したことがあるから、ってお部屋に戻られましたよ。ダンビュラさんも一緒に」
私は安堵のあまりへたり込みそうになった。
その様子を見て、察したらしい。ニルスが申し訳なさそうな顔をする。
「すみません。もしかしなくても聞こえてました?」
「…………」
私は――良くないとは知りつつ、見てしまった。
ニルスの顔を。彼は人形のようにキレイな顔立ちをしているのだが、その右半分は痛々しいやけどの痕に覆われている。
常に車椅子を必要としているのは、自力で歩けない体だからだ。糸杉のように細い両足は、もう何年も地面を踏んでいないのだろう。
「えっと、要するに暇を持て余した貴族の遊びなんですよ。被害者はだいたいお金で売られた平民だけど、昔は粗相をした使用人への折檻も兼ねていたとか」
ニルスが言った。それが「血の宴」について説明してくれているのだと、頭ではわかったものの。
「遊びって……」
感情が、理解を拒んでいる。声がかすれて、言葉が続けられない。
「あのような前時代的な宴が、いまだに続いておったとはな」
ファイはいつも通りだ。全く、全然、カケラも動揺していない。
「聞いた話だと、『血の宴』は先代国王の治世に流行したって……」
遠慮がちなニルスのセリフにも、
「我は知らん。そうした場に招かれたこともない」
ときっぱり。
「だが、世が乱れれば人も乱れるは必然か。その『宴』をひらいた貴族、年はいかほどだ?」
「……40歳……、いえ、50歳くらいだったかな……」
「ならば、我が治世に影響を受けた可能性は大いにあるな。自身も若い頃に『血の宴』に招かれたことがあるのかもしれん」
ファイはそこで言葉を切り、本から顔を上げてニルスの顔を見た。
「つまるところ、この屋敷の者たちが我に敵意を向けてくるのはそれが理由か?」
ストレートな問いかけに、ニルスは少し困った顔をしてから返答した。
「……えっと、きのうお屋敷が襲われたから、っていうのも普通にあると思いますけど、そうですね。そっちの理由も大きいと思います」
なるほど、とつぶやくファイ。
何を思っているのか、その平坦な表情からはうかがえない。特に何も思っていないのかもしれない。
「みんな、すごく傷ついてるんです。だから失礼な態度をとってしまうかもしれないけど、悪く思わないでください。それを伝えたくて」
ファイは少しだけ意外そうにした。
「おぬしは我のことを恨んでおらぬのか?」
ニルスは数秒間、真顔で沈黙した。
「……僕は、覚えてないんです」
気を失っていたわけではないのに、「宴」の時の記憶がない。
彼を診た医者は、あまりに過酷な体験をしたためだろうと言ったそうだ。
心を、自我を守るため、敢えてつらい記憶を切り離し、封印する。人の体は、そういう働きをすることもあるのだと。
「宴を主催した貴族とか、……僕と姉を売った旦那様には、恨みがあります。あなたのことは……」
そこで再び、ニルスの言葉が途切れた。
否定しようとしたのか、肯定しようとしたのか。自分でもわからなくなったという顔でしばし視線を泳がせて、
「すみません、ちょっと……。席を外します」
車椅子をあやつり、書庫から出て行ってしまう。
結果、非常に気まずい空気の中で、私はファイと2人きりになってしまった。
正確には、ジェーンも居るけど。
この人、自分が話したい時しか話さないんだよなあ。それ以外の時は、まるで彫像のように立っているだけ。気まずい空気をやわらげようとか、そういう気遣いはいっさいしてくれない。
「おい、娘」
「は、はい?」
ファイに呼ばれて、びくりと体が跳ねる。
「茶を淹れてきたのであろう。早うよこせ」
……空気なんて、この元王様にはどうでもいいのかな。
疑問に思いつつ、ティーポットからカップにお茶を注ぎ、台車ごとファイのもとに持っていく。
輸入物の高級茶葉をじっくり時間をかけて抽出したお茶は、目にも鮮やかなルビー色。
ファイはそれを一口含み、目を閉じ、舌の上で味わうと、
「うむ、うまい。温度も香りも申し分ない」
昨夜もそうしたように、私の仕事を評価してくれた。
「……お食事もなさいますか?」
「うむ、もらおう」
私が一口サイズのチーズやカナッペをお皿に取り分けていると、ファイが何気ない口調で聞いてきた。
「30年前の政変では、最終的にはどの程度の死者が出た?」
「私は……、くわしくは存じませんが」
この王都に来て、カイヤ殿下に仕えるようになって、自分の常識が必ずしも正しくないことを知った。
あの政変にしても、歴史の授業で習ったことが全て真実というわけではなく、国にとって都合の悪いことは隠されてしまったらしいし。被害の全容なんて、私にはわからない。
「そうか。まあ、我が城におった頃にも大概ひどい有様だったからな。その後はさらに混乱したであろう。たやすく想像できる」
ファイは王様だった。
しかし本当の意味での「権力者」は別に居た。
自分は「利用された駒のひとつ」だとか言ってたし。仮にファイが当時の権力者に逆らおうとしたなら、あっさり消されていたかもしれない。この人だって、血筋を利用されただけなのかもしれないけど。
そこまで他人事めいた口調で言われると、責任とか、多少は感じてほしい気もする。
「報いを受けよ、と言われた」
「え?」
「リシアが――あのいかにも人が好さそうな王子の母親が、我に言ったのだ。恨みに満ちた目を我に向けてな。己がしたこと、しなかったことの報いを受けよ、と」
どう思う? とファイは私に問いかける。
「水晶の牢獄」で、三十年間、孤独に過ごしたこと。
本来の肉体を失い、少女の体に閉じ込められたこと。
彼の元の肉体は……。多分、とっくに埋葬されたんだろうな。先代国王は死んだとはっきり伝わっているのは、彼の遺体が――正確には魂の抜けた体が発見されたからなんだろうし。
「悪王にふさわしき報いだと、そう思うか?」
「はあ……」
そう聞かれても、私は政変の時には生まれてもいなかったのだ。
当事者ではない以上、口にできるのはごく一般的な感想だけ。伝え聞く悲劇の数と、ファイが受けた「報い」とを比べたら、
「正直、罰としては甘過ぎるのではないかと……」
私の答えに、ファイは吹き出した。
「そうか、甘過ぎか」
くっくっと愉快そうに笑って、
「容赦がないことだ。良い。実に良い」
良いって、何が良いんだ。そんな笑うようなこと言ってないよね?
「おぬし、我がただ1人の友と少しばかり似ておるのう。あやつもはっきりと物を言うタチであった」
この人、友達なんて居たんだ。それは余程の大人物か、生来の変わり者に違いない。
「あやつも政変の犠牲になったのであろうか。賢い女だ。うまく立ち回って生きのびたと信じたいところだが……」
意外にも、女性ですか。
「どんな人なんですか?」
と私が尋ね、ファイが答えを返そうとする。
そこに、クリア姫が戻ってきた。ダンビュラを連れ、1冊の本を胸に抱えて、息せき切って書庫に駆け込んできた。
「ファイ殿! これを見てくれ!」