295 彼の葛藤
王都郊外の森の奥。
消えかけの道をたどり、生い茂る草木を抜けたその先に、今では訪れる者もない廃墟がある。
高さは3階建て。遠目には貴族の屋敷のようにも見える立派な建物だ。
しかし近づいてみれば、劣化は一目瞭然。
外壁は黒ずみ、屋根は朽ちかけ、窓枠は歪み――もはや崩れ落ちるのを待つばかりに見える。
そんな絵に描いたような廃墟を前に、たたずむ人影が2つ。
1人は地味なワンピースを着た黒髪の少女。もう1人は侍女服に身を包んだ女性で、時折廃墟の方を指差しながら、2人で何か話している。
アルフレッド・ギベオンは物陰からその様子を伺っていた。
家出した従妹のマーガレットが――いや、マーガレットの身代わりとして育てられてきた少女が、かつて自分が暮らしていた施設の前にたたずむその姿を。何とも複雑な思いで、見守っていた。
ここは7年前まで孤児院だった。
代々最高司祭を務めてきた聖職者の名門クンツァイトが、戦災で親を亡くした子供たちを保護し、育てるための施設。
と、いうのが建前で、実体は身寄りのない子供に汚れ仕事を教え込むための養成所だった。
今夜、少女がこの場所を訪れた理由はわからない。
ギベオンの屋敷を出てから、およそ10日。少女は侍女のメアリーの実家で暮らしていた。
ある時は家事を手伝い、ある時はメアリーやその家族と共にショッピングに出かけ、ある時は祭でにぎわう街を散策し。
わりと自由を謳歌しているようにも見えた彼女が、なぜ今になって自分のルーツをたどるような行動に出たのか。
いや、それ以前に。
自分はいつまで少女の家出を放置しておくつもりなのか。
父親のギベオン卿には、見つけ次第連れ戻せと厳命されている。なぜなら少女は、王都の英雄として名高い第二王子暗殺計画に関わる密談を聞いてしまったからだ。敵方に身柄を押さえられたら、確実にまずい事態になる。
わかっている。それはわかっているのに。
アルフレッドはいまだ少女に手を出せずにいる。
ずっとだましてきた。マーガレットという偽りの名を与え、偽りの身分を与え、血縁などないのに「従兄のお兄様」を演じ続けてきた。
そんな自分を疑うことなく素直に慕い、両親のことも姉2人のことも深く愛していた少女が、真実を知って、どれほど傷ついたか。
せめて彼女が落ち着くまでは、心の傷が多少なりと癒えるまでは、このままそっとしておいてやりたい――。
などと血迷ったことを考えている自分が、アルフレッドには理解できなかった。
そもそも自分はここで働いていたのだ。
7年前、この施設がつぶれるまで。戦乱で親を亡くしたか、隣国から売られるかさらわれるかした子供たちを哀れむでもなく、人殺しの道具として育て上げる手伝いをしていた。
そういう人間なのだ。今ではマーガレットと呼ばれているあの少女にも、思い入れなど何もなかった。
――ただ、あの時。
本物の「マーガレット・ギベオン」が風邪をこじらせて亡くなった時。
何かと世話になってきた叔父と叔母が、可愛がっていた従妹のダリアとカトレアが、あまりに嘆くので。
放っておいたら、後を追いそうにさえ見えたので。
ほんの一時でも慰めになればと思い、マーガレットと同じ年頃の子供を孤児院から連れ出し、貴族のご令嬢のように着飾らせて、叔父一家に引き渡した。
それから何があったのか。ほとんど同時期にクンツァイトの内部抗争が起こり、事態の収拾に追われていたアルフレッドはくわしい経緯を知らない。
叔父は結局、マーガレットの死亡届けを出さなかった。娘の亡骸をひっそりと葬った後で、孤児の少女を自分の娘として養育した。
亡くなったマーガレットはまだ8歳。社交界デビューもすませていない年で、文字通りの箱入り娘だった。医者には金を握らせて口止めし、使用人にも同様に暇を出してしまえば、入れ替わりに気づく者など居なかった。
そうして、孤児の少女は「マーガレット」になった。
貴族の娘として、3姉妹の末っ子として。両親と姉2人に可愛がられて、何不自由なく成長した。
その「マーガレット」が真実を知り、家出した――。
叔母はショックで倒れてしまった。叔父は倒れこそしなかったものの、会うたびに責めるような目を向けてくる。
それも無理からぬ話で、家出の原因を作ったのはカルサという名のクソガキだが、その場にはアルフレッドも居合わせたのだ。
ダリアとカトレアはこう言った。
「あの子にもしものことがあったら、あなたを殺す」と。
2人とも、目がマジだった。
彼女たちが本当に少女を愛していたのか。単に本物のマーガレットが死んだという事実から目をそらしているだけなのか。アルフレッドにはわからない。
ただ、実家と折り合いが悪かった分、叔父一家には世話になってきたので、恩義は感じている。
だから彼女たちの願いはかなえてやりたい。それだけだ。今、自分があの少女の気持ちを慮る理由があるとしたら。
思いつめて自殺などされては困るのだ。だから強引なことができずにいるだけのこと――。
「アルフレッド様」
声をかけられて気づく。侍女のメアリーが、気配を消してそばにたたずんでいることに。
この女性、もとは凄腕の剣士だったと聞く。
油断ならないと知っていたはずなのに、尾行には細心の注意が必要だったのに、あれこれ考えていたせいで気配を隠すのがおざなりになっていた。我ながらあきれてしまう。
「お兄様……」
少女もこっちを見ている。
いかにも気まずげで申し訳なさそうな、家出を見咎められた家出娘そのままの顔で。
「ごめんなさい……」
謝るのか。よくもだましたなと責めるのではなく?
「……あんた、記憶が戻ったんじゃないの?」
怪訝な顔で尋ねれば、少女はあっさりと首を縦に振った。
「思い出しましたわ。わたくし、昔は違う名前だったのですね」
かすかに遠い目をして廃墟を見回し、
「うんと小さい頃に、この場所に連れてこられたのですわ。確か、お腹をすかせて1人で街を歩いていたら、知らない男の人に馬車に乗せられて――」
まあ、そんなところだろう。
王国の南部には、よく南の国から人が流れてくる。
彼の国は貧しい。貧しさから子を捨てる親も多い。この施設に居た子供たちは、大抵が国境沿いの街や村から連れてこられたのだ。
「どうしてずっと忘れていたのか、不思議ですけれど……」
何も不思議ではない。
アルフレッドが薬を使い、暗示をかけたのだ。
人殺しの道具として使いやすくするために、少女は自分の意思や感情を殺す訓練を受けていた。
もとから洗脳されていたのだ。さらに暗示をかけるなどたやすいものだった。
本当に、どこまでも非道な男だ、自分は。
「実の娘ではないのに、お父様もお母様もお姉様たちも、わたくしのことをあんなに可愛がってくださったのですね。優しい人たちに出会えて、わたくし、幸せですわ」
少女は何もわかっていない。大きな瞳をキラキラさせて、何ともおめでたいセリフを口にする。
「優しさなんかじゃないわ」
アルフレッドは吐き捨てた。家族が本気で少女を可愛がったのだとしたら、理由はひとつ。
「マーガレット・ギベオンが愛されてたからよ」
たった8歳で亡くなってしまったマーガレット。
明るく茶目っ気があって、末っ子らしく少しワガママな彼女を、両親も姉2人も溺愛していた。
少女は身代わりだ。本物ではない。
……けれども今、叔父一家は少女の帰りを待ちわびている。少女の無事を一心に祈っている。
彼らが求める「マーガレット」は、アルフレッドの目の前に居る。もはや何が真実かなど、彼らにとってはどうでもいいのかもしれない。
なんて身勝手で愚かな話だろう。本当ならギベオンは今、お家の一大事で、家出娘になどかまけている場合ではないはずなのに。
本気でどうかしている。叔父一家も、ここにこうして居る自分も、頭がおかしくなったとしか思えない。
「ええ。わたくし、その方のことも知りたいですわ。きっと素敵な淑女だったのでしょう」
あいもかわらず何もわかっていない「マーガレット」は、なぜか前向きに瞳を輝かせている。
「知りたいなら、いくらでも話してやるわよ」
とアルフレッドは言った。
「だから、あんたが嫌じゃないなら、だけど。……そろそろ帰ってきてはくれないかしら?」
自分がダリアとカトレアに責め殺される前に、できればそうしてほしい。
「…………」
口ごもるマーガレット。瞳の輝きが陰り、どこか悲しげな表情が浮かぶ。
やはりまだ早かったか? 口ではおめでたいことを言いつつも、実は彼女なりに強がっているだけだったのだろうか。
気まずい沈黙。その時、侍女のメアリーが励ますように少女の肩にふれた。
「どうなさいますか、お嬢様?」
「…………」
しばしの逡巡の後で、やがて「マーガレット」は口をひらいた。
「ごめんなさい、お兄様。わたくし、まだお屋敷には戻れませんわ」
「……家族の顔を見るのがつらい?」
無理もない。ずっと自分が本当の娘だと信じてきたのだ。そう簡単に気持ちの整理がつくはずが――。
「いえ、そうではなくて。今のわたくしには、為すべきことがあるから、ですわ」
はあ? とアルフレッドは眉をひそめた。
「……何よ、為すべきことって」
嫌な予感がする。
箱入りに育てられたわりには、少女は無駄に行動力がある。
一般的な貴族の令嬢は、王族の暗殺計画など聞いても何もできない。脅えて閉じこもるか、あるいは何も聞かなかったように振る舞うのがせいぜいだろう。
この「マーガレット」の場合は違う。あろうことか伝説の暗殺者の名を騙り、当の第二王子に予告状を送りつけた。
おそらくは警告のつもりで。彼女なりの善意というか義憤の心で。
アルフレッドには――いや、本人以外は誰も理解できない思考回路で、「為すべきこと」をしたつもりなのだ。……そして、今回もまた。
「もちろん、敬愛するクリスタリア姫様の助太刀をするのです! 恐ろしい陰謀を阻止して、あの方の兄上様をお守りするのですわ!」
いや、待て。ちょっと待て。
「私事で時間を食ってしまいましたわ。まだ間に合うかしら……」
なぜそんな結論に到ったのかは、(考えても無駄だろうから)この際、置くとしよう。
それよりも、だ。
その陰謀が阻止されれば、騎士団長は破滅。ギベオン卿も同様の道をたどり、彼女の「家」も取りつぶしになる可能性が高い。それは理解しているか?
「もちろん、わかっております」
ああ、そうか。自分をだましたギベオンへの復讐のつもりなのか?
「ですから、クリスタリア姫様に心を込めてお願い致します。どうか伯父様とお父様をお許しくださいませと」
違った。単に見通しが甘いだけだったようだ。
さすがにギベオン卿が助かるのは無理だと思う。普通は極刑、慈悲をかけられたとしても自害を許されるのがせいぜいで、命があったら奇跡に等しい。
……ただ、アジュール家の先例もある。
30年前の政変時、本家を裏切って反体制活動をしていたおかげで、アジュールの分家筋だけは存続を許された。
つまりギベオンの場合も、敵方に通じ、協力して恩を売っておけば、親戚筋は難を逃れる可能性もなくはない。
そもそも、この陰謀。成功する確率は極めて低いとアルフレッドは踏んでいる。
あまりに杜撰で場当たり的。あの狡猾で抜け目ない宰相やレイテッドにバレないわけがない。
騎士団長も老いたのか。追いつめられてまともな判断力を失っているのか。何にせよ、このままいけばラズワルドもギベオンも破滅は見えている。
これから敵に寝返るというのは、正直、遅きに失しているとは思う。
無駄なあがきだ。見苦しいことこの上もない。
付け加えるとアルフレッドは、自分の実家が好きではない。何としてでも守りたいなどとは思えない。……が、少女が本気でそれを望むというのなら。
「わかったわよ」
アルフレッドはため息まじりにそう言った。「あんたのやりたいことを手伝ってあげる」
「よろしいんですの?」
驚く「マーガレット」。彼女にしてみれば意外な提案だったらしい。
「仕方ないでしょう。あんたには大きすぎる借りがあるもの」
「?」
「わからないなら考えなくてもいいわよ。とにかく、そうと決まればさっさと行動。もう時間がないんだから。その恐ろしい陰謀とやらを止めたいんでしょう?」
明日の儀式で、ラズワルドが隣国の貴族と組んで、第二王子の命を狙うという計画を――。
「そうですわ、何としても阻止しませんと!」
握り拳を作り、息巻く「マーガレット」。
「恐ろしいひとつ目の巨人が、クリスタリア姫様のお兄様を狙っているのですもの!」
「……はい?」
一瞬の間を置いて、アルフレッドは聞き返す。
今、少女は何と言った? 何やらありえない単語が聞こえたような気が――。
次回更新日は未定です。
決まり次第、また活動報告でお知らせ致します。
早いもので、本作の連載を始めてからおよそ3年がたちました。
長かったです。でも、目指す場所は見えてきました。
たとえるならフルマラソンの35キロ地点、キツイけどゴールは見えた! という感じ。
ただ、そのゴールの前には難解な迷路が……。これからじっくりとプロットを練り直し、迷路を抜けるための地図を作る作業に入ります。
正直ちょっと、時間はかかってしまうかなと思うのですが(汗)。またいずれこの場所で、皆様とお会いできたら幸いです。