288 代償2
最初に目にうつったのは、ひどく不健康そうな少女の顔だった。
目は落ちくぼみ、頬はやつれ、髪はボサボサで手入れもされていない。明らかに病んでいるとしか見えない少女が、鏡の中からファイ・ジーレンを見返していた。
少女の背後には、散らかった部屋があった。
豪奢な天蓋つきのベッド、テーブルも椅子もクローゼットもその他の家具も、全てが高級品で一級品。
誰か身分の高い人間の寝室のようだ。……それにしてはベッドはぐちゃぐちゃ、テーブルの上には使用済みの食器が置いたままで、ろくに換気もされていないのか空気も澱んでいる。
だが、そんな些事よりも。
ファイ・ジーレンの興味を引いたのは、少女が両手で抱えるように持っている1本の杖だった。
少女の身の丈ほども長さのある杖。
節くれ立った木の杖。
魔女オタクであり、研究者であり、かつて王だった彼にはすぐにわかった。それが城の宝物庫に安置されているはずの、王国の秘宝・白い魔女の杖だと。
「これがあれば何でもできる……!」
いつものように、頭の悪そうな少女の声が聞こえた。
「何でも手に入る! 何にだってなれる!」
いつもと違うのは、その声がどこからともなく聞こえてくるわけではなかったこと。
「もっと大事にしてもらえる! もう誰にも馬鹿にされない!」
彼自身の喉から発せられ、彼自身の鼓膜を震わせていたこと。
自分の体が、勝手にしゃべっている。
この状況はどういうことだろう、とファイ・ジーレンは訝った。
自分は今、鏡を見ている。しかしそこにうつるのは別人の顔。勝手に動いて話す体。それらを合わせて考えると――。
「見てなさい……! もう姉さんにばっかり良い思いはさせないんだから!」
自分の意識は今、少女の中に居るということなのか?
「鈍くさくて根暗で腐女子の姉さんなんかより、私の方がお姫様にふさわしいんだから!」
ああ、うるさい。思考の邪魔だ。
それにしても、もとより頭の弱そうな娘ではあったが、今日は輪をかけておかしくないか。
さっきからずっと1人でしゃべっているのだ。話し相手も居ないのに、1人で。
よく見れば、目付きも尋常ではない。
鏡にうつる少女の瞳は、ギラギラと熱を帯びているのに、どこか虚ろで。
目の前の現実を、あるがままにうつしていないように見える。妄想や妄執のたぐいに取り憑かれているように見える。
そんな傍目にも危ない目をして、少女は叫んだ。
「お願い、私をフローラ姉さんにして! 母さんにもお城の偉そうな人たちにも大事にしてもらえる、世界一キレイなお姫様にしてちょうだい!」
手にした杖を振り上げる。
一瞬、目もくらむような光が室内を満たした。
魔法だ、とファイ・ジーレンは悟った。今、少女は杖の力を使った。
「……うまくいったかしら!?」
おそるおそるといった感じで、少女が鏡をのぞき込む。
そこにうつっていたのは、先程のやつれて不健康そうな顔、ではなかった。
ボサボサの髪は、艶やかな金髪に。落ちくぼんでいた目は、知的な鳶色の瞳に。やつれた頬はふっくらと。
別人だ。別人の顔になっている。
「ああ……! キレイ!」
感極まったように少女が叫ぶ。
自分の顔を他人の顔に作り替えて、喜んでいる。
常識などというものとはおよそ縁遠いファイにも、少女の精神状態がまともでないことはわかった。
「おぬし、だいじょうぶか?」と声をかけてやろうとしたが、無駄だった。
どうやらこの体の主導権は少女にあるらしく、己の意思では動くこともしゃべることもできそうにない。
「この杖があれば、何でもできる……! 何でも……!」
自分の中に、別人の意識があることには気づく様子もなく。
うわごとのように繰り返しながら、少女は部屋を出た。
「思い知らせてやる……! 私を馬鹿にした奴ら全員、ひどい目にあわせてやるんだから!」
魔女の杖を誇らしげに掲げ、ピカピカに磨き上げられた回廊を足音高く歩き出す。
その際、邪魔する者たちを――おそらくは彼女に仕える使用人や警備の兵士だろう。止めようと立ちはだかる者たちを、杖の魔法で眠らせて。
少女が向かった場所は、夜の庭園だった。
――ああ、ここは。覚えている。
偉大なる先王アレクサンダー・クォーツが、愛する后のために整えた庭。
多少荒れているが、見間違えはしない。
この場所で王と、茶菓子をつまみながら談笑した日々。時には熱く議論を交わした思い出が蘇る。
追憶に耽るファイをよそに、少女は星の輝く夜空に向かって、手にした杖を振り上げ、叫んだ。
「消えろ!」
夜の庭に鏡はないので、ファイにはその時の少女の顔は見えなかった。
ただ、ぞっとするほど憎々しげで、狂気に歪んだ声だけが耳を打った。
「あんたなんて居なくなっちゃえ! この庭も、お屋敷も、不細工な虎まんじゅうも生意気なメイドも、全部全部、消えてなくなれぇ!!」