280 対話3
「うん?」
ファイ・ジーレンの動きがぴたりと止まる。
相手は顔を隠している。だから当然、その視線の向きも見えはしないのだが。
なぜだろう。その瞬間、フードの向こう側にあるはずの瞳と、確かに目が合った気がした。
私の背筋を、再び冷たいものが駆け抜ける。
理屈ではない。本能が危険を訴えてくる。
今すぐ逃げろ、全力で逃げろと――。
すばやく相手の手を放し、背後に飛びのこうとしたのだが、できなかった。
足が動かない。
唐突に、金縛りにでもあったみたいに。
足だけじゃない。小指1本、動かすことができなくなっている。
「ほほう……、おもしろい」
ファイ・ジーレンがにんまりする。私の白い髪に手をのばし、遠慮なくべたべた触れてくる。あろうことか顔を近づけて、くんくんと匂いを嗅いだり。
「魔法の気配だ。うむ、間違いない」
金縛り状態の私と、あっけにとられて動けないオジロの前で、ひとつ満足そうにうなずいて、
「おぬし、魔女に会ったことがあるだろう?」
――どうして、それを。
知っているのかと聞きたいところだが、今の私には声すら出すことができない。
「実に興味深い。このような魔法は初めて見る」
ファイ・ジーレンはしきりに感心しながら、尚も私の髪をいじくり回す。
その姿からは、小さな子供が虫でも見つけてつっつき回しているような、ある種の無邪気さ、残酷さが感じられた。
「彼女から離れてください」
珍しく険しい表情を浮かべて近づいてきたオジロが、私とファイ・ジーレンを引き離そうとする。
が、それより早く。
ファイ・ジーレンはひょいと杖の先を持ち上げ、オジロの顔に向けた。
「邪魔だ」
一言つぶやくのと同時。オジロの体が弾き飛ばされる。
「……っ!」
まるで見えない腕が、彼の体をぐいぐいと押してでもいるかのようだった。
オジロは後ろ歩きみたいな格好で隠し部屋から押し出され、派手な物音と共にその姿が見えなくなった。
――オジロさんっ!? だいじょうぶですか!?
叫ぼうとしても、やはり声は出ない。
ファイ・ジーレンの視線が、再び私の方を向く。口元を笑みの形に歪め、ぺろりと舌なめずりをして、
「さて、せっかくの珍しいサンプルだ。持ち帰って調べてみるとするか」
「……っ!」
ヤバイ。ピンチだ。
ファイ・ジーレンが何を言っているのか、何をしようとしているのかはさっぱりだけど。
このままではまずい。きっとまずい。逃げないと。とにかく逃げないと。
動け、私の両足――。
必死に念じても、体は言うことをきいてくれず。
ファイ・ジーレンが手にした杖の先を、今度は私の顔に向けてくる。
思わずぎゅっと目を閉じた時。
一陣の風が、隠し部屋の中に吹き込んできた。
それはまさしく風だった。
室内の空気をかき回し、ごうっと唸りを上げて――。
「…………」
閉じていた目を、そっとひらいてみると。
めちゃくちゃに散らばった本の山の中で、ファイ・ジーレンが尻餅をついていた。間の抜けた格好だが、杖だけはしっかりとその手に握っている。
「……何だ、おまえは」
彼が( いや、彼女か?)顔を向けている先に、ダンビュラが居た。全身の毛を逆立て、鋭い牙を剥き出しにして。
「危うく死ぬところであったぞ。問答無用で斬りかかるとは、無粋な獣よのう」
ファイ・ジーレンが立ち上がる。そのローブの裾が、ぱっくりと切り裂かれている。
おそらくは、ダンビュラの爪で。
全く視認することはできなかったが、さっきの一瞬、ダンビュラがファイ・ジーレンに攻撃をしかけたことは理解できた。
「ちょ、待ってください」
私は夢中で叫んだ。いつのまにか動けるようになっていたことにも、普通に声が出せることにも気づかずに、「その人、ルチル姫です。殺したらだめです」
ダンビュラはファイ・ジーレンから目を離さぬまま、
「ああ? 何言ってんだよ、あんた」
と怪訝な顔をした。「あれがルチルのわけあるかよ」
「で、でも、声が。それに多分、顔も――」
「…………?」
ダンビュラはひくひくと鼻を動かし、
「確かに、この匂いはあのガキの……」
疑わしそうにつぶやいてから、ファイ・ジーレンに向かって脅すように言った。
「おい、てめえ。今すぐそのツラ見せろや」
「おぬしもか。そろいもそろって、我が尊顔をさらせとは」
物言う虎に凄まれても、ファイ・ジーレンに脅えや戸惑いの色はない。軽く肩などすくめて、
「まあ、よかろう。そこまで言うのなら」
あっさりと、フードをぬいで見せた。
『なっ!』
私とダンビュラの声が、キレイにそろった。
その顔は。フードの下から現れた顔は。
知的な鳶色の瞳。柔らかそうな金髪。抜けるように白い肌。
ルチル姫ではない。私がお仕えするクリア姫――によく似た面影を持つその顔は、
「って、フローラ姫ぇ!?」
思わず声が裏返ってしまう私と、
「どうなってんだあ!?」
と叫ぶダンビュラ。
驚きと混乱から生じた隙を、ファイ・ジーレンは見逃さなかった。
唐突に床を蹴り、隠し部屋から飛び出していく。意外にすばやく、無駄のない逃げ足であった。
「……てめえっ! 待ちやがれ!」
一瞬遅れて、ダンビュラが後を追う。2つの気配が遠ざかり――。