279 対話2
あらためて言うまでもないことだが、ここはカイヤ殿下のお屋敷である。
しかしファイ・ジーレンは「我が師」と言った。本だらけの薄暗い廊下を見回して、
「我が師は息災か? 今も昼夜を分かたず、研究に明け暮れておるのか?」
殿下は研究者じゃない。これまた言うまでもないことだが。
「仰っているのはアジュール卿のことでしょうか?」
オジロが控えめに問いかける。「やはり著名な魔女研究者であったという……」
「うむ。我が師は生粋の魔女オタクである。金も時間も、己の全てを黒い魔女に捧げた変わり者よ。あれはもはや愛を捧げたと言ってもよいな」
うんうんと意味もなくうなずいて見せるファイ・ジーレンに、オジロは静かに告げた。
「そのアジュール卿であれば、10年程前にお亡くなりになったと聞き及んでおります」
ファイ・ジーレンの動きが止まった。
「……死んだのか」
「はい」
「そうか、もはやこの世にはおらぬか」
「はい。お悔やみを申し上げます」
「ふむ。考えてみれば当然の話か。あれから長い年月がたった」
ファイ・ジーレンの声に悲しみはない。驚きも戸惑いも、故人を悼む色もなく、
「であるならば、致し方ない。ここにある蔵書は、我が引き取らせてもらうぞ」
意味がわからないことを当然のように言って、さっき自分が出てきた隠し部屋に戻っていってしまった。
「って、ちょっと――」
とっさに後を追い、隠し部屋の中へと足を踏み入れる私。
中は暗かった。ランプの灯をかざしても、部屋全体を見通すことはできない。
ただ、お屋敷の他の場所と同じく、その部屋もまた本で埋まっていることだけはわかった。
空いているスペースはごく狭い。庶民の寝室よりもまだ狭い空間に、小さな勉強机がひとつ。
あとはひたすら本、本、本。製本されていない書類の山もあれば、綴じた紙束もある。どれも分厚くホコリが積もっている。
「見事な蔵書であろう?」
ファイ・ジーレンが得意げに鼻を鳴らす。
「我がまだ城に居た頃に集めた物だ。中には我が著作もあるぞ。たとえば、ここに――」
古びた書架から、地味な装丁の本を迷わず抜き出して、
「魔法という超常の力が、クォーツの血筋にどのように現れてきたのか。王家の系図と共にまとめてある」
ファイ・ジーレンの著作。
ここ数日、殿下が探していたものが、まさかこんな所に隠されていたなんて。
「もはや残ってはおらぬやもしれぬと覚悟しておったが……。我が師は律儀に約束を守ってくれたようだな」
感謝する、とつぶやく声には、やはり悲しみの気配は微塵も感じられなかったけれど。
私は思い出していた。このお屋敷が本で埋まっているのは、「蔵書を絶対に手放すな」という故人の遺言があったからだと。
ファイ・ジーレンは先代国王の迫害を受けていたという話だから、彼が書いた本も見つかれば処分されていた可能性が高い。
それを避けるために、隠し部屋を作って保管しておいたのだろうか?
……や、でも。
先代はずっと前に亡くなっている。今の王様に代替わりした後でなら、別に隠す必要はないよね。
どうして、こんな場所にしまい込んでいたんだろう。まるで、人に見られたらヤバイ物みたいに。
ためしに1冊、手に取ってみる。
ずっしりと重く、古びて、ホコリをかぶった本。書名はかすれていたが、「魔女」の二文字だけは読み取れた。
「おい、娘。ふれてよいとは言っておらぬぞ」
急にファイ・ジーレンがずいと距離をつめてきた。
「これらは我が所有物である。中を確かめたければ、跪いて許可を求めよ」
「…………」
私は、硬直した。
人の記憶というのは不思議なものだと思う。
フードに隠された顔は、口元くらいしか見えない。けれども、間近で向かい合ったその瞬間。
「ルチル姫っ!?」
かつてたった1度、お城で遭遇したことがあるワガママ姫と、目の前の人物の顔がキレイに重なったのである。
とっさに相手の手をつかみ、「ですよね!?」と問いかける。
「まさか?」
驚きに目を見張ったのはオジロだ。
手をつかまれた当人はといえば、私の勢いに若干引いたような顔をしつつ、
「……違う。我はファイ・ジーレンだ。姫などではない」
と否定した。
「いやいや、違いませんて! その声! 間違いない!」
あいかわらずエコーのように男の声がかぶさってはいるが、その根底にあるのは歌姫だったお母上似の、カナリアみたいな美声だ。
話し方は全然違うし、ぽっちゃり気味だった体型は別人のようにスリムになっている。
それでも、ルチル姫だ。
おそらく。多分。絶対――そう言い切るためには、やはりその顔を確かめてみないことには。
今すぐフードをひっぺがしたい衝動をこらえつつ、
「申し訳ありませんが、お顔を見せていただけませんか」
と私は頼んだ。
「断る」
ファイ・ジーレンはにべもない。
「メイドごときが、我が尊顔を拝そうとは無礼であろう。その手を放すがいい」
「そうは参りません」
振り払われそうになった手を、逆にしっかりとつかみ直し。「どうか、お顔を見せてください、ルチル姫」
「くどい。我は姫ではないと言うておろうが。それ以上続ける気なら――」
ファイ・ジーレンは私につかまれているのとは反対の手で、例の杖をゆっくりと振り上げた。