273 恋というものは
午後になった。
私はまた味付けを間違えたりしないよう、細心の注意を払って食事の支度をこなし、お屋敷の人たちに振る舞った。
「きのうは本当にすみませんでした……」
あらためて丁重にお詫びしたのだが、お屋敷の人たちは誰も、私のことを責めたりしなかった。オジロもアイシェルもニルスも、
「エルさんでも料理を失敗することがあるんですね」
とほほえましそうに笑うだけで。
ちなみに、居たら嫌味のひとつも言ってきそうなサーヴァインは外出中であった。
行き先は知らない。あの男はたまにお屋敷から姿を消していることがある。
実はアイシェルもそうだ。彼女の場合は、居なくなる前に「ちょっと出てきますから」と私に声をかけてはくれるけど、行き先は不明。さりげなく聞いても言葉を濁されてしまった。
やはりこのお屋敷の人たちには、私の知らない謎がある。
昼食の片付けをした後、私は洗濯物を取り込むために外に出た。
今日も晴天だ。夏の陽差しのもとでは、濡れた衣類などあっという間に乾いてしまう。
お日様の匂いのするシーツを順番に取り込んでいたら、
「よう」
と声がした。見れば物干し竿の陰に、ダンビュラがうずくまっている。
「今、ちょっといいか?」
「……何ですか?」
「そう構えるなって」
虎か山猫のような顔に、妙に人間くさい苦笑を浮かべて、ダンビュラは言った。
さっきは悪かった、と。
「嬢ちゃんの話に乗ってあれこれ言っちまったが、殿下がその気だと決まったわけでもないしな。あんまり気にすんなよ」
……それをわざわざ、言いに来てくれたの?
「あんたに嫌な思いをさせたかもしれないって、嬢ちゃんが気にしてるんだよ。こういうのも一種のセクハラってやつになるのか?」
や、そんなことはないけど……。
私は周囲を見回し、誰の姿もないことを確かめてから、山猫もどきとの距離をつめた。
「姫様のお気持ちはどうなんでしょうか?」
兄殿下の幸せを願う気持ちに嘘はないだろう。でも、私が殿下を好きになればいい、なんて本気で思ってるんだろうか?
ダンビュラは「んなもん、俺にわかるわけねえだろ」とそっけない。
「他の女よりはマシだと思ったんじゃねえか? あんたのことはわりと気に入ってるみたいだしな」
気に入っている。姫様が、私を。
たとえ本人の口から聞いたわけではなくても、そういうことを言われると嬉しい。つい口元が緩んでしまう。
「それか、あんたにその気がないから安心してるとかか?」
私と殿下がくっつくなんてありえないから、逆にそういうことでも言えてしまう?
ってことは、私と殿下が本当に親密になったりしたら、心穏やかではいられなくなるかもしれないと?
「本当のところはどうなんだ?」
ダンビュラは珍しく真面目な顔をした。どうやら彼はクリア姫が居ない場所で、私の本音を聞きたかったらしく。
身分や釣り合いの話、あるいは他者の思惑とかを全部よけて考えた場合、
「殿下のこと、どう思ってる? まるで脈なしか? それとも、可能性くらいはあるのか?」
「…………」
困った。正直、こういう話は苦手である。
だけど、日頃はいいかげんな山猫もどきに真顔で問われてしまっては、ごまかすことも難しく。
観念して、私は言った。
「……嫌いではないですよ、そりゃ」
掛け値なしに善人であるし、尊敬できるところもあるし。
常識が通じなくて手がかかることも多いが、そもそも他人の世話を焼くのは嫌いじゃない方だ。
やたら甘えたり依存したり、パートナーを母親扱いしたり。そういう「大きな子供」ならきっぱりお断りだけど。
殿下はそうじゃない。自分のことは自分でできる人だ。自分の行いに、大人として責任を持てる人だ。
恋愛対象としてではなく、人としてなら、惹かれている部分も確かにある。
色々と苦労してきたみたいだから、この先は平穏に暮らしてほしいと思う。幸せになってほしいと願う気持ちだってあるけれど。
「私は、あの。もともと恋愛とか、それほど積極的な方じゃなくて」
自分がするより、物語として楽しむ方が好きだったりする。それは今に始まった話ではなくて、子供の頃からずっとそうだった。
「実は、その。故郷で、幼なじみと一時期、付き合ってたこともあるんですけど」
「ほほー」
「ほんの短い間ですよ」
親しい友人だと、自分では思っていた。
それがある日突然、告白されたのだ。昔から好きだったと。真剣に付き合ってほしいと。
その時は「考えたことがない」と答えたものの、その後、何度か話し合いを重ねた結果、ほだされて付き合うことになった。
相手の家とは、家族ぐるみの付き合いだった。ご両親とも気心の知れた仲だったから、冗談混じりに「嫁に来てほしい」的なセリフを言われたりもした。
でも、結局は相手がよその街に職人の修行に行くことになって、関係を解消した。
「本音は待っててほしいんだけどな。そういうセリフ、言われても困るだろ?」
という、苦笑まじりの笑顔をよく覚えている。
実際その通りだったので、私は何も言えなかった。
自分がどうやって生きて行くか、将来の見通しもはっきりしていなかったから、まずは自立したかったし。
そんな状態で「待っている」なんて約束できるはずもなく。
そもそも、恋人の帰りをけなげに待つ自分、とか想像もできなかった。
なお、黒い魔女に出会って故郷を離れたのは、それから1年ほど後のことである。
「もしも、一庶民が王子様と結ばれる、なんてことになったら大恋愛ですよね」
あらゆる障害を乗り越えて想いを遂げる。それこそ物語みたいな恋だ。
「私は、そういうタイプではないと思います」
「そうだなあ」
ダンビュラはなぜかおもしろそうに笑って見せた。「障害を乗り越えるっていうより、なぎ倒して進むタイプだろうな」
「どういう意味ですか」
「つまり、先のことはわからない、って意味だよ」
「?」
「殿下に惚れる奴は大勢居るよ。パイラもそうだったよな」
私の前任のメイドだったパイラ。確かに、傍目にもそれとわかるほど、殿下への好意をはっきり示していた。
しかし彼女は、別れ際こう言った。殿下のことは好きだったけど、深く踏み込むのは怖かった、と。
「だめな奴は最初からだめなんだよ。惚れてようが惚れてまいが関係ない」
障害に尻込みして、自分とは違うと決めつけて、知ることを放棄してしまうようでは近づけない。
「殿下は多分、この先も独り身を通すだろうと俺は思ってるよ」
今と同じように、困っている他人を見ては助けようとして、揉め事に首を突っ込みながら生きていくだろう。
そんな彼を慕う者たちも居る。別に不幸な生き方というわけでもない。
自分は殿下の保護者ではないから、いわゆる「人並みの幸せ」を手に入れてほしいとも思わない、とダンビュラは言った。
「要するにまあ、ただの好奇心だ」
あの殿下が誰かに惚れたら、ちょっとおもしろそうだ、見てみたい、という。
「そんな野次馬的な……」
クリア姫の護衛であり、友人なのに。姫様の気持ちは考えないの?
「何を考えるんだ?」
とダンビュラ。「俺が嬢ちゃんの色恋に首を突っ込むとか、ねえだろ」
それとも、何か? その「禁断の恋」が成就するように協力しろとでも?
自分はあの兄妹のことをよく知っている。殿下が自分の妹を女として見ることはない。その可能性は、1ミリもないと断言できる。
「だいたい、嬢ちゃんだって本気でそうなってほしいわけじゃねえよ」
仮に兄殿下への想いが本物だったとしても。
想うことと想われることはまた違う。実の妹に恋情を向けてくるような、そんな「カイヤ兄様」を望んでいるわけではないはずだ。
「あのおとぎ話の王女様みたいになることはねえさ。嬢ちゃんはそういうタイプじゃない」
「……姫様のこと、信頼してるんですね」
「まあな」
付き合いの長い彼が言うのなら、私も心配することはないのかもしれない。
そう思いつつ、一抹の不安が消えない。
クリア姫がどんなに聡明でも、恋って怖いものでもあると思うから。
ダンビュラは意外そうに目を瞬いて、
「何かトラウマでもあるのか?」
と聞いてきた。
恋愛に積極的になれない、むしろ怖がるような、そんな体験が何かあるのかと。
「あいにく、ないです」
ただ、別に自分で経験しなくても、世間にはそういう話が珍しくもないほどあふれているではないか。
人が人を殺める動機の半分は色恋沙汰、もう半分は金銭の揉め事ともいうくらいだし。
ダンビュラは「なるほど、他人事じゃねえな」としたり顔でうなずいた。
「多分、あんたは嬢ちゃんよりも、この屋敷の奴らに気をつけた方がいいな」
殿下と仲良くなり過ぎて、うっかり後ろから刺されたりしないように気をつけろと。
洒落にならないセリフを言って、自分で笑い出す。
某・長身美形の従者の顔を思い出すと、あながち冗談とも言えないところが恐ろしい。
「まあ、あんたならだいじょうぶか」
無責任にそう言い放ち、のそのそと体を揺らして、ダンビュラは去っていった。
次回更新日は未定です。
もともと遅筆な上に、書けない時は全く書けなくなってしまう作者ですので、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
ここまでお読みくださった皆様にこの先もお楽しみいただけるよう、今後も努力して参りますので。
今しばらく、続きをお待ちいただけると幸いです。