271 優しいお説教
ひとまず洗濯物を干し終えてから、私は殿下と出かけた。
屈強な騎士が数人、私たちの後をついてくる。話し声は聞こえない、しかし姿を見失うことはない絶妙な距離を置いて。
殿下は黙って歩いていく。
散歩しながら話をするはずだったのに、なぜか口をひらく素振りすら見せずに、すたすたと。
「どこに行くんですか?」
と聞いても、「もう少しだ」と答えるだけ。仕方ないので、黙ってついていくと。
やがてたどり着いたのは、小さな泉のほとり。
森の木々が急にひらけて、地面からこんこんと澄んだ水が湧き出している。
「わあ……」
私は近づいて、のぞき込んでみた。
すごい透明度だ。泉の底まで見える。
小さな魚も居る。頭上から差し込む陽の光に、虹色のウロコを煌めかせて。
「きれい……」
お屋敷から歩いて行ける場所に、こんな場所があるなんて知らなかった。
静かで、神秘的で。まるで夢の中の光景のよう。
感動で言葉を失う私に、「おまえの意見を聞かせてくれ」と殿下は言った。
「クリアのために、俺は何ができるだろうか?」
……唐突だなあ。せっかくこんな素敵な場所に連れてきてくれたんだから、もうちょっと浸らせてくれてもいいのに。
まあ、この人がズレているのは今に始まったことじゃないから仕方ないか。
「そうですね……」
私は質問の答えを考えてみた。
昨夜聞いた話によれば、クリア姫自身は殿下のもとを離れ、王妃様の離宮に戻ることも考えているようだった。
でもそれは、「兄に迷惑をかけたくない」という消極的な理由からだ。自分がどうしても帰りたいというわけじゃない。
何をすれば、彼女のためになるのか。
そう問われれば、私としてはやはり、クリア姫の世界を広げることを提案したい。
人付き合いなんて煩わしいことも多いし、無理に友達とか作る必要は全くないと思うが、それでも今のままではよろしくない気がする。クリア姫の世界の中で、兄殿下の比重があまりに大きすぎる。
では、どうやって彼女の世界を広げればいいのか。
クリア姫は学ぶことが好きだ。以前、学校にも興味を示されていた。
通学すれば、当然ながら人付き合いの幅は広がる。……しかし彼女は王族。市井の学び屋に通えるわけもない。
高等学校や王立大学なら貴族も平民も居るが、クリア姫の年では無理がある。確か高等学校が15~18歳くらい、大学はその後のはずだ。
家庭教師をつけて学ぶだけでは、今と大して変わらないし……。
かといって、貴族の舞踏会とかサロンに参加させるっていうのもな。
そりゃ世界は広がるだろうけど、絶対に面倒事も増えるよね。
それどころか、魔女の宴に出席した時のように、目の前で暗殺未遂事件が起きることさえあるわけで。
……難しいな。
クリア姫がただのお金持ちの子供とかだったら簡単なのに。
「確かに、難しいな」
殿下も私の話を聞いて、眉間にしわを寄せた。
「外出の機会が増えれば、誘拐の危険も増すだろう」
1度口を閉じてから、微妙に声を落として付け加える。「俺も幼い頃、拐かしにあったことがある」
「……そうなんですか」
外出イコール誘拐の危険って、そういう図式が普通に成り立ってしまうのが王族の怖いところだと思う。
クリア姫の御身を危険にさらしてまで、人付き合いの幅を広げる意味はない。
せめてもう少し王都のゴタゴタが落ち着くまでは、現状維持、もしくは離宮に避難してもらう方がいいんだろうか……。
「いつ頃、落ち着きそうなんですか?」
「わからん。まだ何年もかかる可能性もあれば――」
殿下は少し考えてから、こう言った。「早ければ、数日で片がつく」
はい? と私は首をひねった。
「くわしくは言えんが、計画があってな」
宰相閣下が立てた、政敵ラズワルドの息の根を(政治的な意味で)止める計画が。
私はハッとした。
「……数日ってことは、もしかして」
例のお祭の儀式と、何か関係がある?
現在王都で行われている、青藍祭の最後を飾る儀式。
王都で最古の礼拝堂にある白い魔女の像に、選ばれた王族が青い宝石を捧げるという――そのお役目を務めるのが、他ならぬカイヤ殿下だ。
殿下は首肯した。
その儀式で第二王子の命をもらいうける、という例の「巨人殺し」の予告状については、色々あって本物ではないことがわかったが、
「叔父上の調べによれば、儀式の場で俺の命を狙う計画があるというのはどうやら事実らしい」
事実らしい、ってそんな軽く言うことか。
相手が巨人殺しじゃなくたって、十分過ぎるほど大事である。
「その計画を逆手にとって、叔父上はラズワルドを潰すつもりだ。準備万端、整えてから相手に仕掛けさせ――」
隣国の王太子も含めて、大勢の見物客が見ている前でラズワルドに事を起こさせ、言い逃れできない状況を作って逮捕する。
……それじゃ、まるで囮みたいだ。殿下の身の安全は?
「問題ない。叔父上は入念に準備を進めているし、クロサイトや部下たちも居る。常に影から守ってくれる頼もしい護衛も居る」
クロサイト様はともかく、護衛の方はあんまり頼もしくない気がする。
しかも殿下は、計画の詳細については聞いていないらしい。
囮役として、自然に見えるように。いつどのような形で襲撃者が現れるのかも、全く知らされていないのだという。
率直に言って、私はあきれた。
宰相閣下のことを信用しているのだとしても、もうちょっと我が身のことも考えてほしい。
クリア姫の問題だって大事なことだ。けして軽い話じゃない。
でも、何かおかしくないか。そんな大変な儀式が数日後に迫っているのに、頭を悩ませているのが妹のこと?
何だか腹が立ってきた。
どうやら、それが顔に出ていたようで。殿下はやや及び腰で、
「エル・ジェイド?」
と呼びかけてきた。
「……すみません。気持ちを落ち着けるので、少しだけ待ってください」
私は殿下に背を向け、すーはーと深呼吸した。
それからおもむろに振り返る。
「よろしいですか、殿下」
まっすぐに相手の目を見すえて、私は言った。低く、唸るような声が聞こえた気もするが、多分気のせいだ。
「クリア姫のことを大切に思っていらっしゃるのなら、まずはご自身の安全を第一に考えてください」
殿下にもしものことがあったら、悲しむのは誰だ。
クリア姫にとって1番大事なのは、最愛の兄殿下が無事で居てくれることなのである。そこをちゃんと理解してほしい。
「それは、わかっているつもりだが……」
「はい?」
「いや……、その……、すまん。……理解が足りていないのかもしれんな。今後はよく考える。肝に銘じる。約束する」
殿下はこくこくと何度もうなずいた。
……って、またやってしまった。
昨晩の埋め合わせをするつもりだったのに、これじゃ同じことの繰り返し。
言い過ぎましたと謝罪するより先に、「ありがとう」と殿下が言った。
一瞬前までは脅えた顔をしていたはずだが、なぜかはにかむような笑みに変わっている。
この人の笑顔ってレアなんだよね。しかも照れ混じりの笑顔というのは初めて見たかもしれない。
けど、この状況でお礼を言われるのは何か違う気がする。それになんでまたちょっと嬉しそうなんだろうか?