268 隠れ家にて1
雨が、降り始めていた。
始めのうちはぽつりぽつりと、徐々にざあざあと勢いを増していく。
真夏に多少、雨に濡れた程度でどうということはないが――正直うっとうしい。
目深に下ろしたフードをかぶり直し、ゼオは隠れ家に向かう足を速めた。
夜。見た目からして怪しい人間ばかりがうろつく裏通り。
いかにも怪しい酒場や非合法の賭場が建ち並ぶ奥に、朽ち果てた廃墟にしか見えない平屋の建物がある。
かつて、ここは祈りの場だった。何十年も前、とある徳の高い司祭が、貧しい人々を救うために建てたらしい。
しかしその司祭の死後は後任が訪れることもなく、打ち捨てられてしまった。
そういう場所は噂が立ちやすい。どんな噂かといえば、要するに「出る」というやつだ。
事実、礼拝堂の裏手には雑草がのび放題になった墓地もある。朽ちかけた廃屋は、風が吹けば奇妙な音を立てる。野良猫が住み着いているのも、見る者によっては不安をかき立てるのだろう。
おかげで荒くれ者たちも恐れて近づかない。場所が場所だけに、肝試しを試みるような暇人も居ない。
つまり今のゼオにとっては、非常に都合のよい隠れ家というわけだ。
住む場所を探すのにはいつも苦労する。
理由は単純。金がないからだ。
生まれてこの方、真っ当な仕事に就いたことがないゼオにとって、日々の暮らしを営むのはけしてたやすいことではない。
まともでない仕事であれば、それなりに稼げるということはわかっているものの、彼は随分前に悪事からは足を洗った。
理由は――。
……まあ、色々あったのだ。色々と。
年寄りはそんなものだ。長く生きていれば色々ある。いちいち語るほどのことではない。
というか、語りたくない。正直、思い出すことさえ忌々しい。不死身の体などという、望みもしない呪いを自分にかけたあの女の顔を――。
そう。ゼオは不死身だ。
飲まず食わずでも、別に死にはしない。
腹は減るし体は衰えるが、それだけだ。
だから日々の営みなど全て放棄して、死んだように時を過ごすことも不可能ではない。
……かつては、そう思っていた。
そういうわけにはいかなくなったのは7年前からだ。
今の自分にはやることがある。この王都で、果たすべき役目がある。約束がある。
死んだように生きていくことなど許されない。泥水をすすり、物乞いの真似をし、昔世話してやったクソガキの使い走りをしてでも、金を稼がなくてはならなくなったのだ。
あの家に、家族に何かがあった時、いつでも動けるように。
朽ちかけた建物の裏手に回り、壊れかけのドアを開ける。
ぎしぎしときしむ廊下を少し進んだ先に、これも朽ちかけのドア。鍵はかかっていないが、開けるにはコツがいる。
「……俺だ。今戻った」
ノックの代わりに一声かけてからドアを開ける。
「おっかえり~」
直後、やたら明るい声に出迎えられた。
光が漏れないように窓をふさぎ、照明も絞った室内。
最低限の家具と広さしかない質素な部屋は、もとは司祭の居住スペースだった場所だ。
声の主は、部屋の隅に置かれた寝台に腰掛けていた。
茶髪で細っこい体つきの少年。年頃は10代半ば。包帯だらけで顔色も悪いが、目覚めた頃に比べればだいぶマシになった。
くだんのクソガキである。こいつのせいで、雨の中、出歩くハメになったのだ。
「どうだった? ちゃんと見てきてくれた?」
待ちきれないとばかりに質問してくる。その前に、感謝やねぎらいのひとつも口にしてはどうなのか。
「……見てきたよ。動きがあった。どうやらうまくいったらしいな」
「本当に? 絶対?」
「うるせえ奴だな。今から説明するよ」
と顔をしかめつつ、ゼオは外套をぬぎ、古びた椅子に腰を下ろした。
「まず、警官隊が動いた。例のギベオン家に裏から探りを入れてる。今まではそんな動きはなかったからな。おまえの持ち出したブツが届いた証拠だろ」
ゼオの言葉を聞いた少年は、「そっか」と小さくつぶやいた。
「うまくやってくれたんだね。時間はかかったけど」
一言余計である。
そもそも、手こずったのは自分のせいではないはずだ――。
あれはもう何日前になるのか。この隠れ家に、傷だらけの少年が転がり込んできたのは。
事情は何もわからなかった。出血がひどく、すぐに意識を失ってしまったせいだ。
面倒事はご免だったが、さすがにその状態で放り出す気にもなれず、ひとまず傷の手当てだけはしてやった。
それから数日、こんこんと眠り続けた少年が、目を覚ますなり頼んできたのだ。
警官隊のジャスパー・リウスに、自分がつかんだ「証拠」を届けてほしいと。
頼みを聞いてくれたら礼もすると言われた。少年は小銭程度しか持っていなかったが(意識を失っていた間に持ち物は確かめてある)、家に戻ればそこそこ貯金もあるとのことだった。
金はほしい。関わり合いになった手前、見捨てるのも寝覚めが悪い。
しかしゼオは脛に傷持つ身。正面から訪ねていくのは難しい。
ならば、とこっそり忍び込んで証拠を置いてこようとしたのだが、リウス邸の警備はとんでもなく厳重だった。
ぱっと見は標準的な造りの屋敷であったのだ。しかもリウス家は大家族で、女子供も大勢暮らしている、にぎやかでアットホームな家だ。
そんな家に、凶悪な罠が多数仕掛けられているとか、普通は思わないだろう。
命からがら逃げ帰ったゼオに、
「ご隠居の三男と孫娘の1人と甥っ子が、そういう罠とか仕掛けるの趣味なんだよ」と少年は言った。
知っていたのなら先に教えておけと、その細っこい首を締め上げたのは言うまでもない。
「ご隠居の家が無理なら、警官隊の本部は?」
そっちも警備は厳重なはずだろう。しかも警官がうじゃうじゃ居る。
「あ、じゃあ。カメオさんの詰め所に届けてくれる?」
「……誰だ、それは」
「俺の上司。詰め所の責任者。今から地図書くから、今度こそちゃんと届けてよね」
相手が警官なら、やはり堂々と訪ねて行くのは難しい。しかし街中の詰め所に、少なくとも危険な罠はないはずだ。
なぜ最初からそっちを指定しなかったのか、もうこのガキをふん縛ってその詰め所とやらに放り込んでやろうかと、ゼオはかなり真剣に悩んだ。
こいつのためじゃない、金のためだと自分に言い聞かせ、歯を食いしばって仕事を終えたのが一昨日。
それから警官隊をはじめ、関係各所の様子をしばし観察し、戻ってきたのが今だ。
「ギベオンの方は動きがない。あいかわらず屋敷に引きこもってる。おまえの言う、アルなんとかって男も行方不明のままだ」
少年はふーんとつぶやいた。
聞いた話によれば、彼はその屋敷に忍び込んで深手を負ってきたはずだが――そのわりには反応が薄い。
「ああ、そうだ。マーガレットとかいう小娘の居場所がわかったぞ」
え、と少年が言った。
こっちは反応するのかと思いつつ、ゼオは言葉を続けた。
「小娘の侍女をやってるメアリーって女。そいつの実家に居た」
「侍女の家に?」
「ああ。ギベオンの人間が知ってるのか知らないのかはわからんが……、まあ知らんってこともないだろうが、今のところ連れ戻そうって動きはないようだな」
「始末しようって動きは?」
「……それも多分ない。なんだ、その小娘、いったい何をやらかした?」
面倒くさいのと興味がないのとで、くわしい事情は聞いていなかった。
「マーガレットじゃなくて、メグだよ」
「……あ?」
「あの子、俺と同じ施設で育った女の子だよ。あのナイフの使い方、間違いない」
「…………」
少年の発した言葉の意味が理解できるまで、数秒。
ゼオは椅子を蹴立てて立ち上がった。
「1人だけ行方がわからなかった、あの……!」