265 王妃の真実2
何を言われたのか、ぴんとこなかった。
知らないって。だって、他ならぬ殿下のお母様の話でしょ?
人間性に問題があるとか言ってたじゃないか。なのに知らないって――。
私の反応に、殿下はため息をもらし、それから「水を一杯くれないか」と言い出した。「少し喉が渇いた」
「ああ、すみません。気がつかなくて」
水と言わずお茶を淹れましょうかと尋ねたが、殿下は水でいいと言った。
水瓶から柄杓で冷たい水を汲み、グラスに注いで差し出す。殿下はそれを一気に半分ほど飲み干すと、前置きもなく話し始めた。
「俺の母上は、少々変わっていてな」
そう言う殿下も、相当「変わっている」方だと思うけど。王妃様はさらに輪をかけた変わり者ってこと?
「どう表現すればいいか――つまり――」
殿下は軽く眉間にしわを寄せ、ふさわしい言葉を探しているようだった。「厭世家、とでも呼べばいいか」
エンセイカ?
厭世……世を厭う……。要は世の中に対してやたら悲観的だったり、人間嫌いだったり?
「そうだな。人間嫌い、というのは正しい。母上が離宮に移り住んだのもそれが高じてのことだ。できるだけ静かな場所で、他人と顔を合わせることなく暮らしたい、と」
「……お体が病弱だからなのでは……」
「ああ、それは口実だ。実際はどこも悪くない」
意外な話に、私は唖然とした。
「王宮に居た頃も、母上は滅多に人前に出なかった。離宮に移り住んでからは、やはり『奥の宮』と呼ばれる離れにこもっていることが多かったな。だから俺は母上と言葉を交わしたこと自体少ないし、当然のことながら、その人間性について深く理解しているわけでもない」
ないが、と付け加えて、もう1度ため息をつく。
「たとえ滅多に顔を合わせることがなくても、言葉を交わしたこと自体わずかでも、伝わってくるものはある。俺は母上の人間性を好ましくは思えない。政治嫌いなのも、人嫌いなのも仕方ないが……。あの人は血を分けた身内のことさえ無関心だ。俺や兄上のことも、実の妹である叔母上のことも、まだ幼いクリアのことさえ」
「……え、あの……」
話の内容に戸惑う私を置いて、殿下はマイペースに話し続ける。
「それでも、他ならぬ母親だ。何か事情があって距離を置いているだけなのではないかと、そういう風に考えたこともある」
が、7年前の政変の時。
兄のハウライト殿下が無実の罪で捕らえられ、命の危険さえあると知った時。
当時、離宮で暮らしていた殿下は、だめもとで王妃様に助けを求めた。
兄殿下を助けるために力を貸してほしいと、必死で頼んだ。懇願した。
「それで、王妃様は……?」
おそるおそる尋ねると、殿下は首を横に振った。
「あっけなく断られた。自分はいっさい関わるつもりがない。兄上のことを助けたいなら、自力で何とかしろ、と」
絶句。これ以上ないほど、絶句。
「正直、俺は――冷たいと思った」
誰でも思うよ。思うでしょうよ。その状況で助けを求められて突っぱねるなんて、赤の他人でも普通はしない。
まして、親だよね? 実の母親だよね?
「だが、おかげで吹っ切れた。母上はアテにならない。今後は親の力に頼ろうなどとは考えず、自分の力でできることを探そうと思った」
明るい、と言ってもいいほど前向きな口調で。
そんなセリフを口にする殿下のことが、私には理解できなかった。
この人に違和感を覚えるのは初めてじゃない。出会ってからずっとだけど。
それにしても、これは。いささか限度を超えているような。
「殿下は、平気だったんですか……?」
悲しくなかったのか。母親にそんな冷たい態度をとられて――いや、それ以前に、自分にも兄妹にも関心がないと知って、寂しくなかったのかと。
そう口にしてから、思い出す。
私も、父親が行商などしていたせいで、さらには突然、姿を消してしまったせいで、周囲の人から同情の目を向けられたことがある。
かわいそうにね。お父さんが居なくて悲しいでしょう、寂しいでしょう、と。
気遣ってくれるのは非常にありがたいことだが、それでも愉快ではなかった。自分がかわいそうかどうかなんて、勝手に決めないでほしいと思った。
カイヤ殿下は別に不愉快そうな顔もせず、「寂しい、というのは幼い頃の話か?」と聞いてくる。
や、小さい頃の話っていうか。今だって、母親との関係がそんなでいいのかって思うけど。
自分の体験を思い出していた私は、何も言うことができず。
黙っていると、殿下はそれを肯定と受け取ったようだ。記憶をたどるように宙を見上げて、
「寂しいと思ったことはなかった。俺には兄上が居たからな。物心ついた頃からずっと、親代わりのような存在だった」
私はまたちょっと違和感を覚えた。
親代わりというほど、2人は年が離れていない。確か3つ違いだよね?
殿下は私の考えていることがわかったみたいで、「変に思うかもしれんな」と自分で言った。
「兄上とて、その頃はほんの子供だったのだから。だが、幼い頃の俺にとっては、兄上が父親であり、母親だった。1番最初の記憶も、兄上と一緒に居るところだ。窓のない部屋だった。季節は冬で、暖炉が燃えていた。兄上と長椅子に座って、絵本を広げた。あの魔女の絵本だった」
ぽつりぽつりとつぶやくような話し方だったけど、私はその情景が目の前に浮かぶような気がした。
ほほえましい。同時に、どこか影のある景色だ。
仲睦まじい、幼い兄弟。
その情景の中に、2人の両親は居ない。――この世に居なかったわけではないのに。
母親は、人を避けてひきこもり。
父親は――王様はその時、どうしてたんだろ。
愛人の所にでも行ってたのかな。あのおっさんのことだし、普通にありそう。
「兄上が居たから、俺は不足を感じることはなかったが……。クリアは、どうだったのだろうな」
え、と聞き返す。
殿下は追憶から抜け出て、考え込むような表情に変わっていた。
「クリアは、寂しさを感じることがあったのか。離宮のメイドたちは皆、よくしてくれた。俺や兄上も、できる限りのことをしたつもりだが……」
クリア姫が生まれた後も、王妃様はひきこもり状態だったのかな。……殿下の口ぶりからしてそうなんだろう。
クリア姫が、母親と会えなくて寂しい思いをしたのかどうか。それは他人の私にはわからない。
ただ、これまで姫様やダンビュラに聞いた昔話の中に、王妃様のことはあまり出てこなかった気がする。
中心に居たのは、いつもカイヤ殿下だ。
クリア姫の世界は、いいことも悪いことも、素敵なことも心配事も、そのほとんどが兄殿下のことで占められている。
重度のブラコン、とダンビュラは表現していた。その原因が、少しだけわかったような気がした。
両親の不在。その代役。
子供時代のカイヤ殿下が、兄のハウライト殿下を「親代わり」と表現したように。
足りないものの大きさが、それを埋めてくれたものへの依存を深めたのではあるまいか。
問題は、カイヤ殿下にとっては子供の頃の話でも、クリア姫にとっては現在進行形だということである。
あの姫様は見た目ほど子供ではない。思春期に差し掛かっているところだ。
依存がそのまま恋愛感情に移行したのか、そう錯覚しているだけか。
どちらにせよ、これはけっこう根深い問題かも。そのうち自然に変わるだろう、なんて甘かったかも――。
「兄様にだっていつか好きな人ができる」
クリア姫のセリフが頭をよぎる。
今のところ、殿下にそういうお相手が居るという話は聞いたことがないけど。
いつか恋人ができたら……?
その時までに、クリア姫が気持ちの整理をつけることができなかったら、兄妹仲が変な風にこじれてしまうかもしれない。
「2人の魔女のおはなし」では、王女の愛は、兄王子の死という最悪の結末を迎えてしまう。
もしもクリア姫とカイヤ殿下が。
想像して、ぞっとした。
絵本の世界では、兄王子は黒い魔女の魔法で生き返る。でも、現実には人を生き返らせる魔法なんてない。
「どうした、エル・ジェイド。顔色が悪いぞ」
殿下に心配されてしまった。
「あの、殿下。つかぬことをお伺いしますが……」
私は真剣そのものの顔で問うた。「近いうちに、結婚のご予定とかはありますか?」