260 姫君の告白1
――数時間後。
私はクリア姫のお部屋の前に立っていた。
押してきた台車の上には、温かい夕ごはん。……いらないと言われたけれども、別に病気じゃないわけだし。きっと、お腹をすかせているはずだし。
少しでも食べてもらって、それから――さっきのことを、ちゃんと話したい。……クリア姫が話を聞いてくれるなら。
うう、緊張する。
しばし扉の前でためらってから、ノックする。すぐに「はい」と返事があった。
「失礼します。お夕食をお持ちしました」
部屋の中で、人が動く気配がした。
間もなく扉が開いて、クリア姫の顔がのぞく。その表情は硬い。
「……手間をかけてすまない」
「いえ、そんな」
「入ってくれ」
門前払いも覚悟したけど、ひとまず最初の関門は越えた。
「なんだ。メシか?」
部屋の奥でうずくまっていたダンビュラが顔を上げた。
「よかったな、嬢ちゃん。さっきから腹の虫がぐーぐー鳴いてたもんな」
デリカシーのかけらもないセリフに、クリア姫が頬を赤らめる。
私は山猫もどきの無駄にでかい声が聞こえなかったフリをした。
「あの、もし食欲がなければ、お飲み物だけでもと思って。ハチミツ入りのホットミルクとか作ってみたんですけど、いかがですか」
「……ありがとう」
私が差し出したマグカップを受け取り、クリア姫はベッドの端にちょこんと腰掛けた。
カップに口をつけ、「おいしい……」とつぶやく。
「そうですか、よかった」
さっき、カイヤ殿下にも飲んでいただいたんですよ。そう言いかけて口ごもる。今、殿下の名前を出すのはとてもまずい気がする。
「…………」
クリア姫はカップを両手に持ったまま動かない。
さっきは余計なことを言ったダンビュラも、そんな姫様の横顔を黙って見ているだけ。
誰も口をきかなければ、沈黙が続くばかりだ。
私は意を決して、口をひらいた。
「あの、姫様――」「さっきは、すまなかった」
2人分の声が重なった。
同時に話し出そうとするなんて、タイミングが悪い。ごめんなさいと謝ろうとして、
「え。……すまなかった?」
「さっきのことだ。おかしな態度をとってすまなかった。許してほしいのだ」
見れば、クリア姫は何とも気まずそうな顔でうつむいている。
「いえ、そんな――」
意外な展開にあっけにとられていたら、ダンビュラと目が合った。「……もしかして、ダンビュラさんが先に説明してくれてたんですか?」
「殿下がうなされてたから、あんたが付き添ってた、って話だけはな」
それ以外の説明はしてねえよと付け加える。
クリア姫が顔を上げた。
じっと私を見つめるその目は、何かを聞きたがっているように見える。
「あの、姫様。私は――」
殿下のことは別に、何とも思っていませんから。……などと言うのは失礼だな。
けして邪な目で見たことはございません、なんて言ったら、むしろ怪しい気がする。
いつもお世話になって大変感謝しておりますが、特別な感情を抱いたことはありません、とでも申し上げるべきか?
迷っているうちに、「知っているのだ」とクリア姫が言った。
「さっきは少しびっくりしてしまっただけだ。エルが、兄様のことを、その……。そういう風に思っていないことは、知っている」
「イケメンに興味ないんだもんな、あんた」
ダンビュラの言葉に、目を丸くするクリア姫。
「そう、なのか?」
「ええ、まあ。母親がそういう、かっこいい王子様、とかすごい憧れてて。小さい頃からイケメンの話ばっかり聞かされて、少しばかり苦手になってしまいまして」
クリア姫はぱちぱちとまばたきした。
「ってことは、あんたの親父はイケメンなのか?」
「いえ、全然。ごく普通の顔ですね」
わからんな、とダンビュラが言う。
娘の私にもわからない。ちなみに母の王子様趣味については父も知っていたが、特に嫌な顔をしたことはないし、口出しもしなかった。祖母いわく、「たとえ夫婦でも互いに踏み込めない領域はある」ものらしい。
その時、クリア姫のお腹が小さく音を立てた。ホットミルクだけでは足りないと訴えているように。
「あ、すみません。お夕食、お皿によそいますね」
「すまない……」
クリア姫は恥ずかしそうに頬を染めた。
台車をテーブル代わりに、セッティング。
本日のメニューは、野菜たっぷりポトフだ。カブとにんじんとじゃがいも、キャベツと玉ネギに、お手製の肉の塩漬けも入っている。
蓋と布巾で保温してきたから、お鍋の中身はまだ十分あったかい。
「どうぞ、召し上がってください」
ポトフをお皿に盛って、クリア姫の前に置く。
薄くスライスしたバゲットとチーズ、カリッと焼いたベーコンも添えて。
「……ありがとう」
クリア姫が夕食を口に運んでいる間、私はなんとなく室内の様子を見回した。
もとは客間だった部屋には、姫の私物が増えている。
お屋敷で愛用していた櫛とか、髪留めとか。
それから机の上に、1冊の絵本。
『2人の魔女のおはなし』だった。絵本の横には、可愛らしい魔女の人形がちょこんと置いてある。
私がそれを見ていることに、クリア姫も気づいたようだ。食事の手を止め、つぶやくように言った。
「庭園の屋敷は、あの火事でも焼けなかったのだな」
「そうみたいですね」
殿下の話によれば、焦げ跡ひとつなかったという。あの凄まじい業火の中で、果たしてそんなことがありえるのかと疑問であるが。
「その絵本と人形は、兄様が持ってきてくださったのだ。私が大切にしている物だと知っているから」
クリア姫がスプーンを置いた。
「兄様はいつも、私に優しくしてくれるのに……。私はまた、ワガママを言って困らせてしまった……」
や、ワガママっていうか。
さっきのクリア姫の様子は、率直に言って変だった。
怖いものでも見た、って風に目を見開いて、真っ青になって。
嫉妬とかヤキモチとか、そんなほほえましい感情ではなかった気がする。たとえるなら、暗闇でいきなりお化けにでも出くわしたような顔だった。
「この料理、おいしいのだ。兄様も召し上がったのだろうか」
「……はい。食べてくださったと思いますよ」
殿下には2時間ほど前、夕食を届けておいた。……もっとも、例によって難しい顔で考え込んでいたから、ちゃんと食事をとってくれたどうかはわからない。
「そうか……」
独り言みたいにつぶやきながら、クリア姫はうっすら涙ぐんでいる。
何をそんなに悩んでるんだろう。郷里の妹と、大して変わらない年なのに。その小さな胸に、どんな苦しみを秘めているのだろうか。
安易に言葉をかけることはためらわれて、私はしばし頭の中でセリフを熟考した。
――何か話したくなったら、いつでも言ってくださいね。聞いた後で、やっぱり聞かなかったことにするとかもできますから。
月並みだけど、こんな感じかな。
私が軽く息を吸ってセリフを口にしようとした時、
「話してみたらどうだ、嬢ちゃん」
ダンビュラが言い出した。ちらっと私の顔を見て、「わかることもあるんじゃねえのか? ……その、女同士なんだしよ」
って、女がどうした。
「…………」
クリア姫が顔を上げ、私を見る。澄んだ鳶色の瞳は、涙に濡れても美しい。
「……その……」
クリア姫は、1度口ごもり。「兄様に聞いたのだが……。エルは、ここの仕事を辞めてしまうかもしれないのか?」
この話の流れで、その質問が出てきた。つまり、もうすぐ辞めてしまう相手になら、思い切って打ち明けてもいいかもしれないと考え始めている?
「まだはっきり決まったわけではないんです」
慎重に言葉を選びながら、私は言った。
「ただ、お屋敷があんなことになってしまって……」
クリア姫がまたあの場所に戻るとは考えにくい。
たとえお屋敷が本当に無事だったとしても、あれほど恐ろしい目にあったのだ。
かといって、お城でフローラ姫やルチル姫と暮らせるわけもなく。
結局は宰相閣下のお屋敷に行く、という可能性が1番高いだろう。そうなれば私はクビになってしまう。
けっして辞めたいと思っているわけじゃなく、そうなる可能性もあるという話だと説明すると、クリア姫はまた下を向いてしまった。
「あの火事のせいで、エルにも迷惑をかけたな。……迷惑どころか、とても危険な目にあわせた」
いや、そんな、自分の責任みたいな顔しちゃって。
「姫様のせいじゃないですよ」
「私のせいだ」
いきなり断言されて、私は言葉を失った。
「……かも、しれないのだ」
今度は自信なさそうに付け加える。
「どういう意味ですか?」
「…………」
クリア姫の視線が泳ぐ。
なおも迷い、ためらい――しかし程なく心を決めたらしい。揺れていた視線が定まった。椅子に座り直し、とても真剣な目をして、
「私の話を聞いてもらえるだろうか」
どきどきと高まる鼓動。
ついに、この時が来たのか。クリア姫が秘密を打ち明けてくださる時が――。
「もちろんですよ。……でも、いいんですか?」
それって、ずっと心に秘めてきたことだよね? カイヤ殿下にも、誰にも言えずに悩んでいたこと。それを私なんかに話してしまっていいの?
クリア姫はこっくりとうなずいた。
「ただ、兄様にだけは絶対に言わないでほしい」
わかりましたと私は答えた。
本音を言えば、カイヤ殿下にもいずれ教えてあげてほしいとは思うが。それはクリア姫ご自身がお決めになることだ。私からこっそり教えたりはしない。
「ありがとう」
とクリア姫は言い、「すまない」とも付け加えた。可愛らしい顔にぐっとしわを寄せて難しい表情を作り、
「前にも言った通り、楽しい話ではないのだ。きっと嫌な思いをさせる。私のことを嫌いになるかもしれない」
「や、それはないと思いますが」
これも前に言ったが、私が姫様のことを嫌いになるなんてありえない。そもそも、この真面目で気遣い屋の姫君の口から、聞いただけで嫌いになるほど不快な話が出てくるはずもないし。
しかしクリア姫は、そんな私の答えも聞こえていないように、小さく深呼吸を繰り返し。
「私は――」
すうっと大きく息を吸い込んで、呼気と共に言葉を吐き出した。
「私は、魔女なのだ」と。