259 誤解
なんでこういうタイミングで起きるかな。そりゃ早く起きてほしいと思っちゃいたけど。
「…………」
殿下はじっと私を見上げている。
黒目がちで澄んだ瞳。寝起きのせいか、やや潤んでいる。
私は動けなかった。手を放した方がいいとわかっているのに、それすらできなかった。
――近い。
この距離、近すぎる。寝ている殿下の上に、ほとんど覆いかぶさるような格好になってしまっている。
私は大変、気まずかった。
だから背後で足音がした時、オジロが戻ってきてくれたのだと安堵した。
「兄様……?」
しかし聞こえた声はオジロではなく。
私はそろそろと振り向いた。
どうしてこう、タイミングの悪いことばかり続くのか。
そこに居たのはクリア姫だった。
もともと大きな瞳をいっぱいに見開いている。ひどく驚いたように――いや、怖いものでも見たかのように。
クリア姫のそばにはダンビュラも居て、やはり驚いたように軽く目を見開いている。
「……姫様」
「!」
クリア姫が動いた。私の声に弾かれたように、こちらに背を向けて。その手から、麦わら帽子がふわりと落ちる。
「クリア?」
カイヤ殿下が長椅子から起き上がった。妹の後を追いかけようとして――それから思い直したように私とダンビュラを見る。
「状況がよくわからんのだが……。何か、あったのか?」
「知らねえよ。俺は今帰ってきたところだ」
とダンビュラ。
「…………」
2人の目が、同時にこっちを向く。
どう説明すればいいんだろう、これ。……どうもこうも、ありのままに話すしかないか。
「えーと、殿下がうなされてるみたいだったので、オジロさんが薬を取りに行って、私は付き添いで」
イマイチ要領を得ない説明であったが、殿下は「ああ……、そうか」とすぐに理解してくれた。「手間をかけさせたな。すまん」
「いえ、別に……。それより殿下、だいじょうぶなんですか?」
さっきまであんなにつらそうだったのに。今は――今だって、顔色はひどく悪い。
「ああ、問題ない。だいじょうぶだ」
問題ないようにはとても見えなかったが、殿下は軽くふらつきながらも立ち上がった。
床に落ちた麦わら帽子を拾い上げ、「クリアの様子を見てくる」と言って、リビングから出て行こうとする。
「殿下。……気がつかれましたか」
その時ようやく、オジロが戻ってきた。
薬を持ってくると言ったはずだが、彼がその手に持っているのは香炉だ。うっすらと細い煙がたなびいていて、かすかに甘い香りがする。
この香り、覚えている。私が初めてこのお屋敷に来た時、アイシェルが持ってきてくれた「気持ちが落ち着くお香」ではないだろうか。
「手間をかけたな、オジロ。……すまんが、部屋の方に運んでおいてくれ」
「承知致しました」
短く言葉を交わし、廊下に出ていく2人。
ぼんやり見送っていたら、足もとからダンビュラの声がした。
「なあ」
いつのまにか、私のすぐそばに来ていた山猫もどきは、「何やってたんだ?」と太い首をかしげて見せた。
「……今、説明した通りですよ」
殿下がうなされていたから、付き添っていただけだ。
「けど、さわってたよな?」
私はげほっとむせた。
「人聞きの悪いこと言わないでください!」
それじゃまるで、何かいかがわしいことでもしていたみたいじゃないか。
必死で弁解しようとする私に、ダンビュラは「冗談だって」とあっさり言った。
「また昔の夢でも見たんだろ」
わかっているなら、最初から妙なことを言うなと抗議しかけて、
「昔の夢?」
って、何のことだ。
「くわしいことは俺も知らん。知りたきゃ本人に聞けよ」
ダンビュラはあっさりと説明責任を放棄した。
「それより、問題は嬢ちゃんだろ。さっきの、あれ。ブラコンの嬢ちゃんには、ちっとばかし刺激が強かったぞ」
はう。
どうしよう。こんなことでクリア姫との仲がおかしくなってしまったら。せっかくこれまで、いい関係を築いてこられたのに。
「ちゃんと説明した方がいいですよね?」
その通りだが、今はやめておけとダンビュラは言った。
「もうちょい落ち着いてからの方がいい。後で……、そうだな。晩飯の時にでも話せばいいんじゃねえか?」
それでいいのかな。だいじょうぶかな。私の話なんて聞きたくないとか言われてしまったらどうしよう。
「そんな深刻になるほどのことか? 誤解なんだろ?」
そう、誤解だ。
クリア姫は賢い子だし、きちんと話せばわかってくれる、はず。
私が落ち込んだり立ち直ったりと忙しくしているところに、カイヤ殿下が戻ってきた。……なぜか、クリア姫の麦わら帽子をその手に持ったままだ。
「姫様は?」
待ちきれずに尋ねると、「わからん。部屋に入ろうとしたら拒まれた。今は顔を合わせたくないそうだ」
『…………』
沈黙。
殿下は明らかに困惑している。それも当然で、どうして妹に拒否されたのか、わからないんだろう。
説明してあげたいけど、ちょっと言いにくい。私と殿下のこと、誤解したかもしれなくて……とか。
気まずい空気に耐えかねたのか、「俺が見てくるよ」とダンビュラが言い出した。「それ、嬢ちゃんの帽子。持って行ってやるから、よこしな」
「……ああ、頼む」
殿下は困惑顔のままうなずいて、クリア姫の麦わら帽子をダンビュラの頭に乗せた。
「…………」
ダンビュラは多分、くわえて持っていくつもりだったんだと思う。ちょっと微妙な顔をしながら、のそのそとリビングを出て行った。
「エル・ジェイド」
急に名前を呼ばれて、私は飛び上がった。
「は、はい?」
「クリアが夕食はいらないと言っていた。気分が悪いからと」
「……あ。そう、ですか」
夕ごはんの後に話そうと思ってたのにな……。どうしよう、明日にした方がいいのかな……。
「悪いが、俺も少し休む。夕食は部屋まで運んでくれ」
「は、はい! わかりました」
「…………」
殿下はややおぼつかない足取りでリビングから出て行った。眉間にしわを寄せ、唇を引き結び、これ以上ないほど難しい顔をして。
多分、どうしてこうなったのか、何が悪かったのかと考えてるんだろう。
私も、同じだった。
いったいどうしてこんなことになってしまったのかと、頭を抱えたいような気持ちで考えていた。