258 発作
その日の午後は、特に急ぎの仕事もなかったので、書庫で本探しをしているニルスを手伝うつもりだった。
しかし殿下が長椅子で寝てしまったので、予定を変更。リビングで縫い物をすることにした。
安全なお屋敷の中とはいえ、1人で放っておくのはさすがにどうかと思うし。
ちょうどお掃除用の雑巾が足りていなかったから、それを縫うことにしよう。
1度自室に戻り、必要な材料と裁縫箱を取ってきて。
細かい作業をするには、手元がよく見えた方がいい。なので、明るい窓辺に椅子を運び、そこに腰掛ける。
ちくちく、ちくちく。
縫い針を動かしながら、たまに長椅子の方を伺う。こっちからだと陰になっていて見えないが、そこに人が居る気配だけは伝わってくる。
殿下って、寝相はわりといいんだよね。でなければ、あんな所で寝ていて落ちたりしないかと心配するところだ。
なんで寝相のことを知っているのかというと、前にも似たような状況を経験しているからだ。
あれはもう何ヶ月も前のこと。殿下は熱を出してしまった妹姫を心配して、自分が看病すると言い張って――。
結局、その役目は私に譲ってくれたけど、今度は妹のそばで休むと言い出して。
そして止めるのも聞かずに、床に寝転んでしまった。
おかげで私は、殿下が寝ている横で一晩中働くことになったのである。はっきり言って落ち着かなかった。
それは今も同じ。長椅子の上の気配が気になって、縫い物に集中できない。
私は手を止め、ため息をついた。
「……殿下? 起きてらっしゃいます?」
声をかけても、返事はない。
そっと立ち上がり、長椅子に近づいていく。
殿下は眠っていた。全身すっぽり毛布にくるまって目を閉じている。
ためしに2、3歩距離をつめてみたが、すこやかな寝息に乱れはない。
偉い人なのに、もうちょっと警戒心とか持たなくていいんだろうか。私が怪しい奴だったらどうする気だ。
そんなことを考えながら美しすぎる寝顔を眺めていたら、「失礼します」と声がした。
リビングに入ってきたのは、執事のオジロだった。空のティーカップをお盆に載せて持っている。先程、執務室で書類仕事をしていた彼のもとに、私が届けたものだ。
「すみません、新しいお茶を淹れていただけますか? 気分を変えたいので、できれば香りのよいハーブティーをお願いします」
「わかりました」
私は彼のもとに歩み寄り、お盆とカップを受け取った。
「おや」
オジロの表情が変わる。その視線は長椅子の方に向いている。「殿下はこちらでお休みでしたか」
「はい、少し前から」
「そうですか……、ここ数日、あまり休息をとっていらっしゃらないようでしたからね」
オジロは苦笑を浮かべて、「ゆっくり休ませて差し上げてください」と言った。
「……このままにしておいてもいいんでしょうか?」
「は?」
「いえ、あの。こんな所で寝てていいのかなと……」
私の微妙な表情を見て、オジロの苦笑が深くなった。
「できればベッドで寝ていただきたいところですが、仕方ないでしょう。既によくお休みのようですし、私が部屋までかついでいく、というわけにも」
「……そうですね」
「どんな場所でもすぐに眠ることができるのは、昔、戦場に居た頃に身につけられた特技だ、とのことですが……」
だからって、所構わず寝てしまうのは困りものだ。後で殿下が起きたら、やんわり注意しておくことにしよう。
「何かあったら呼んでください」
と言って、リビングから出て行くオジロ。
私は彼にリクエストされた香りのいいハーブティーを淹れるため、縫い物を中断して台所に向かった。
カモミールをメインに、ミントやレモングラスを適量、ティーサーバーに入れて熱湯を注ぐ。
ふわりと清涼感のある香りが私の鼻腔をくすぐった。
この香りにつられて殿下が起きてこないかなと少し期待したけど、長椅子の上の影は動かない。
執務室にハーブティーを届けた後は、また縫い物の続きをした。
ちくちく、ちくちく。
はあ、疲れた。肩が凝った。ひとまず10枚くらいはできたし、これでいいことにしようっと。
縫い物の次は、夕食の下ごしらえをすることにした。
お肉に下味をつけ、貯蔵庫に入れて寝かせる。その間に野菜の皮を剥き、お鍋の中に投入。下ゆでをして、アクを抜いて……。
あれこれやっているうちに時が過ぎ、リビングに西日が差してきた。
……クリア姫、遅いな。
1時間くらいで戻るって言っていたのに、もう2時間はとうに過ぎている。
護衛のダンビュラがついているとはいえ、心配だ。誰かに探しに行ってもらった方がいいだろうか。
「……ん……」
長椅子の方から、声がした。
「あ、殿下。起きました?」
返事の代わりに、長椅子の足が小さくきしむ音がする。
目が覚めたみたいだな。ちょうどいいから、クリア姫のこと教えておこう。
「あの、殿下。実は姫様がまだお帰りにならなくて――」
ギシ、と長椅子の足がさっきよりも大きな音を立てる。
「カイヤ殿下?」
その時ようやく、私は異変に気づいた。
殿下は起きていなかった。狭い長椅子に横たわったまま、ぎゅっと苦しそうに目を閉じている。
「……っ、……」
食いしばった歯の隙間から漏れる、かすかな呻き声。
顔色がひどい。さっきも寝不足でひどかったけど、今は違う。病的な白さだ。うっすらと脂汗のようなものまで額に滲んでいる。
「ちょ、どうしたんですか?」
「……あ……」
殿下の唇に震えが走る。
吐息と共にこぼれ落ちた言葉は、「あにうえ……」と聞こえた。
「……くっ……、あ……」
殿下は悪夢でも見ているのか、固く目を閉じたまま。毛布にくるまった体は、かすかに震えている。
「どうしました!?」
ハッと顔を上げると、リビングの入口にオジロが立っていた。
「殿下が――」
彼はすぐさま駆け寄ってきた。
殿下の顔色を確かめ、軽く額にふれて熱をはかり、
「すぐに薬を用意してきます」
そう言って、廊下に引き返す。
薬? 薬って……、何の薬?
熱冷ましとか、そういうのじゃないよね? どう見てもただの風邪とかじゃなさそうだし。
「エルさん」
リビングの入口から、出て行ったと思ったオジロの顔がのぞいた。
「殿下の手を握って差し上げてください。私が戻るまで、お願いします」
問い返す間もなく、オジロの顔が引っ込む。
――手を?
って、言われても。殿下の体はすっぽり毛布にくるまっていて、どこが手やら。
ひとまず肩の辺りにふれてみる。
震えが直接、指先から伝わってきた。けして細い肩ではないのに、ひどく頼りないものにふれているような気がした。
「……っ……、……」
殿下の唇が動く。言葉は聞き取れないけど、何か言っている。
いったいどんな悪夢を見てるんだろう。この人のこんなにつらそうな顔、初めて見た。
「……殿下、夢ですよ」
耳元にささやきかけてみる。
「だから、だいじょうぶですよ。だいじょうぶだから、落ち着いて」
声をかけながら、そっと肩をさする。
オジロさん、早く戻ってきて。悪夢に効く薬があるっていうなら、早く。
私の願いも虚しく、オジロはなかなか戻らなかった。
それから、どのくらいたっただろう?
オジロがリビングを出て行ってから――多分、実際には5分とかその程度だったと思うが、私にはひどく長い時間に感じられた。
「兄上……」
殿下が眠ったままつぶやく。
また「兄上」か。それって、ハウライト殿下のことなんだろうか。それとも、実は他にも兄上が居るとか?
どっちでもいいから、悪夢なら早く覚めてほしい。
普通、夢ってすごく短い時間で見るものだって聞いたけどなあ。……ただの夢じゃない? 何かの発作とか?
あいかわらずつらそうにしているし、無理やりにでも起こした方がいいのかも。
「殿下、起きてくださ――」
その瞬間、私は息が止まるくらい驚いた。
閉じたままの殿下の瞳から、つ、と雫が一筋――。
泣いて、る?
頭の中が真っ白になった。
何も考えられなかったし、何も感じなかった。
だから、どうしてそんなことをしたのか、自分でもよくわからないのだが。
私は寝ている殿下の頭をなでた。
ゆっくりと。小さな子供をあやすように、優しく手を動かす。
少し硬いクセっ毛は、故郷に残してきた弟の髪質と似ていた。
――あの子が熱を出した時にも、こうして頭をなでてあげたことがあったっけ。
弟は生まれつき体が丈夫じゃない。その分、頭は回るし、無駄に口達者で、生意気が服を着て歩いているような奴だけど。
具合の悪い時は、少しだけ気弱になる。甘えてくることはないが、いつもよりおとなしくなる。口うるさい姉が頭をなでてきても、文句を言わない程度には。
思い出すと、笑みがこぼれた。
この手触り、何だか懐かしい――。
「……笑っているのか?」
私は手を止めた。
いつのまにか目を開けた殿下が、少し不思議そうに私を見上げていた。