257 痕跡
台所に戻ると、さっきは誰も居なかったリビングに人影があった。
カイヤ殿下だった。リビングの長椅子に座ってぼんやりしている。
「殿下? 起きてらしたんですか?」
燦々と日の光が差し込む昼下がり、「起きてたんですか」などと聞くのもおかしな話だが、ここ数日、殿下は例の探し物のために夜更かし続きで、日中に仮眠をとったりしている。
私も、手が空いている時には手伝わせてもらったんだけど。
何しろこのお屋敷には、下手な本屋より大量の本がある。しかも大半が保存状態も悪く、かすれて書名が読めないもの、下手に持ち上げるとバラバラになってしまいそうなもの、虫が食っているものまであった。
内容もまた難解で、古語や外国語で記されている本もあれば、暗号みたいな文章で綴られている本もある。
私やニルスにはお手上げだったが、殿下には読めるみたいだった。そういう難しそうな本があると、むしろ熱心に読みふけっていた。
「殿下?」
私は長椅子に歩み寄った。数歩の距離まで近づくと、ようやく気づいてくれたのかこっちを向く。
うわ、顔色悪い……。
「何かお召し上がりになりますか?」
「いや……」
殿下はこめかみの辺りを指でもみほぐしながら、「今は食欲が……」
皆まで聞かず、私は台所にとって返した。
ついさっき、農家のおじいさんが届けてくれた新鮮なミルクを小鍋に入れて火にかけ、ほどよく温まったところでカップに移し、ハチミツを小さじに2杯入れてかき混ぜる。
これでハチミツ入りホットミルクのできあがりだ。
リビングに戻ると、殿下はあいかわらずぼんやりした顔で宙を見上げていた。
「どうぞ」
私が差し出したカップを黙って受け取り、一口飲んで「うまいな」と一言。
「そうですか。それはようございました」
殿下はホットミルクを飲みながら、私の顔を伺うように見上げてきた。
「……何か、怒っているのか?」
「いえ、別に」
怒ってはいない。単にあきれているだけだ。
どうしても見つけなきゃいけない探し物ってわけじゃないんだから、夜更かしはほどほどにしてほしい。
何かあるとすぐに食事や睡眠を疎かにするのは、この人の悪い癖だ。若いからって、もうちょっと自分の体にも気をつけないと。
「やはり、怒っているのではないか?」
「怒ってません」
「そうか。なら、いいが……」
殿下はまだ腑に落ちないという顔をしつつ、ちらりと廊下の方に視線を投げて、「話し声がしていたようだな。誰か来ていたのか?」
私は近くの農家さんが食材を届けに来たのだと答えた。
ついでに、「王都で妙な出来事が続いている」という噂についても、一応伝えておく。
私には眉唾としか思えなかった話を、殿下は眠そうに目をこすりながらも、「それは事実だ」と断言した。
「事実、なんですか?」
「ああ。カラスと黒猫は知らんがな。桜が咲いているのはクロサイトが見たと言っていた」
近衛副隊長のクロサイト様は、1日と空けずに殿下のもとを訪れて、その日王都で起きたことや政治的な動きなどを報告していく。
問題の桜は、中央公園の外れにあるらしい。一夜のうちに花をつけ、翌日の昼前には散ってしまったんだそうだ。
不思議と不気味の中間くらいの話だな、と私は思った。
季節外れの桜が咲き誇る光景は、想像するとキレイだし……。怪談よりもファンタジーかな?
「そうだな。美しい光景、だったのだろう……」
殿下は眠気と戦いながらも、何事かを考えている。かと思えば急に私の方を見て、
「おまえは『魔女の紋章』というものを知っているか?」
唐突な質問に、私はほんの一瞬考えてから答えた。
「……あの、カラスが羽を広げたみたいなマークですか?」
「知っているのか?」
殿下はたいそう驚いた顔をした。
「絵本の中に描いてありましたから……」
子供の頃、弟や妹によく読んであげた、『2人の魔女のおはなし』の中に。
「確かに絵としては描き込まれているが、説明や言及はなかっただろう。黒い魔女の持つ杖や道具に必ず刻まれている、というだけで」
よく気づいたものだと感心されて、「気づいたのは私じゃなくて、一緒に絵本を読んでいた弟です」となんとなく言えなくなってしまった。
殿下の言う通り、絵本に出てくる魔女の持ち物には、必ずその印が刻まれていた。
うちの弟は小さい頃からそういうのに目敏く、これはきっと意味があるはずだと言い張り、礼拝堂の司祭様に絵本を見せに行った。そして、その印が「魔女の紋章」と呼ばれるものだと知ったのだ。
「クロサイトの話によれば、一夜のうちに花をつけた桜のそばの地面に、その紋章が書き残されていたらしい」
今度は私の方が驚く番だった。
「付け加えると、例の火事の現場でもな」
クリア姫の庭園で起きた、あの火事の現場でも?
「そうだ。全く同じ印が……、残されて……」
殿下のまなざしが遠くなる。もともと寝不足なところに、ホットミルクで体が温まったせいで、いよいよ眠気が強くなったようだ。
計算通りだった。
「少し休まれた方がいいですよ」
できる限り優しく、私は声をかけた。話の続きは気になるが、今はそれより休んでもらった方がいい。
「……そう、だな」
そのまま長椅子に横になろうとしたので、「ここじゃなくて、お部屋で――」と言いかけたが、遅かった。
狭い長椅子の上で器用に体を丸めて、あっという間もなく夢の世界に旅立ってしまう。
あいかわらず、寝付きがいい。そしてあいかわらず、無防備な寝顔だ。お昼寝中の猫みたい。
「あー、もう……」
しくじった。ミルクを飲ませたところまではよかったのに。
ため息をつきつつ、リビングを出る。殿下が風邪でもひいたら困るし、薄手の毛布か夏掛けを取りに行くつもりだった。
「エル」
と、ちょうどそこにクリア姫がやってきた。
白いパーカーにグリーンのハーフパンツ、という珍しくボーイッシュな服装で、大きな麦わら帽子を両手で抱えるように持っている。こちらに歩み寄ってくると、
「兄様を知らないか? お部屋にも書庫にも姿がなくて……」
「あー、はい。殿下ならあちらに……」
私は背後に視線を投げた。
「リビングにいらっしゃるのか?」
「はい。居ますけど、今はお休み中で……」
殿下が仮眠をとっていることを説明すると、クリア姫は「それなら、お邪魔をしてはいけないな」と言った。
「何かご用事でしたか?」
「大した用ではない。これからダンとお散歩に行くので、よかったら兄様もご一緒にどうかと思っただけだ」
そうなんだ。タイミングが悪かったなあ。たった今寝ちゃったところで、起こすのもなんだし。
「おい、どうした。行かねえのか?」
ダンビュラが呼ぶ声がする。
「今行くのだ」
と返事をしてから、クリア姫は私の方に向き直り、
「1時間くらいで戻るのだ。その間に兄様が起きたら、私が出かけたことを伝えておいてほしい」
「わかりました」
「では、行ってくる」
麦わら帽子を抱えて、廊下を戻っていくクリア姫。
その姿を見送ってから、私はリビングでお休み中の殿下のために夏用の毛布を取りに行った。
何てことのない、日常の一場面――のはずだった。




