237 事情
「失礼します、姫様。エル・ジェイドです」
コンコンと扉をノックすると、「エルか、入ってくれ」と声がした。
扉を開ける。中は私が使わせてもらっているのとよく似た客間で、クリア姫は机に向かって本を読んでいた。
「何か用だろうか?」
「あ、いえ。特に用事というわけではないんですが」
仕事を始める前に、1度クリア姫の様子を見ておこうと思っただけだ。兄上様のお屋敷とはいえ、慣れない場所で、何か不自由があっては困るし。
「読書ですか?」
「うむ。ニルス殿に借りたのだ」
その本は分厚く古びていて、「魔女」の二文字が書名に入っていた。
「この屋敷の前の持ち主が所蔵していたものだ」
クリア姫もまた、魔女には並々ならぬ興味を持っている。このお屋敷の蔵書には遠く及ばないものの、魔女関連の本をたくさんコレクションしていた。
「すごい数の本ですよね。私もさっき、オジロさんに見せてもらいました」
立派な部屋が古書で埋もれていたという話をすると、クリア姫は「2階も屋根裏部屋も、地下にあるワイン倉も書庫になっているそうだ」という話をしてくれた。
「よく潰れずに建ってるよな、この屋敷」
クリア姫の足もとで丸まっていたダンビュラが顔を上げる。「それより、あんた。体はもういいのか?」
「ええ、すっかり」
「本当か?」
と聞いてきたのはクリア姫だった。大きな瞳が心配そうに揺れている。あいかわらずお優しい。
「姫様はだいじょうぶですか? あんな怖い目にあって、おつらかったでしょう?」
普通ならクリア姫の方こそ、ショックで寝込んでいたっておかしくない。
「私はだいじょうぶだ」
気丈にほほえむクリア姫。だけど、私は知っている。いつものようにおさげにした彼女の髪が、前より短くなってしまっていること。
炎の中を逃げる時に毛先が焦げてしまい、切るしかなくなったからだ。
ああ、なんてお労しい――。
「そういや、聞いたぜ。あんた、あのサーヴァインとかいう陰気な兄ちゃんを投げ飛ばしたんだって?」
「ぶっ!!」
いきなり何を言いやがるんだ、この山猫もどき。
とっさにクリア姫の方を見ると――驚いている様子はない。むしろ、どんな表情を浮かべればいいのか、困っているように見える。
……ってことは、姫様も初耳じゃない?
「殿下があのオジロっておっさんと立ち話してるのを聞いた」
その話をダンビュラが立ち聞きして、ついでに姫様にもご注進した、という流れだったらしい。
「ダンビュラさん。首を絞めてもよろしいでしょうか」
私は両手をひらいて、じり、と前に出た。
「落ち着け。よろしいわけねえだろ」
ダンビュラはサッと距離をとる。
「…………」
じり、じり。山猫もどきとの間合いをつめようとする私。
「だから、寄るなって。そんな怒るほどのことか?」
これが怒らずにいられるものか。できればクリア姫には知られたくなかったのに。
「殿下の部下って言っても、実際は居候みたいなものなんだ。しかも勝手に住みついたんだろ? 別にいいじゃねえか。投げ飛ばしたくらい」
「ダン、失礼なのだ」
クリア姫がたしなめる。
居候なら投げ飛ばしてもいいのかどうかは置くとして、ダンビュラの発言は捨て置けなかった。
確かに似たようなことはオジロも言っていたが、彼もアイシェルもニルスも、そんな非常識な真似をするようには見えなかった。まあ、サーヴァインはどうだか知らないけど。
「本当なんですか? それ」
「そのようなことはない」
即座に否定するクリア姫。
「勝手に居着いたんだから、居候だろ」
「そういう言い方は失礼なのだ、ダン」
クリア姫がちょっと怖い顔をする。
一方のダンビュラは、納得できないという風に顔をしかめて、
「なんでかばうんだ? あいつらが居るから嬢ちゃんだって、この屋敷に来るのが嫌だったんだろ?」
「え? 姫様が殿下と暮らせない理由って……」
「違う。それは違うのだ」
クリア姫が慌てた。ちょっと不自然なくらい、力を込めて否定する。
「彼らは関係ない。皆、良い人たちだ。兄様に命を助けられて、それ以来ずっと忠実に仕えて――」
ダンビュラは「それがおかしいんだって」とばっさり言った。
「いくら命の恩人で感謝してるからって、家まで押しかけて一緒に住むとか、ありえるか? 殿下大好きのクロムだって、そこまではやらねえぞ」
「……本当なんですか? それ」
私は馬鹿みたいに同じ質問を繰り返す。
「嘘ではないが……、事情があるのだ」
その「事情」が何なのか、私は聞かなかった。
正確には、聞けなかった。クリア姫の表情は「深刻」を通り越して真っ暗になっており、よほど重たい話なんだろうというのが容易に察せられたからだ。
「だから……、悪く言ったりしてはいけない」
「やれやれ。嬢ちゃんも人がいいな」
と肩をすくめるダンビュラも、それ以上は追及しない。
ううむ。いったい何があったんだろう?