233 お屋敷の住人たち4
男はオジロと名乗った。
見たところ、40代の後半から50代の前半くらいかな。黒髪に黒いあごひげで、どちらもクルクルとカールしている。わざとそうしているとも思えないから、天然パーマなのかもしれない。
ひげに覆われた顔はパッと見、怖そうだけど、目もとの笑いじわや黒ぶち眼鏡の奥のまなざしは優しく、いかにも温厚そうな男性だとわかる。
背丈は平均的で、恰幅のいい体つき。服装は黒スーツとネクタイ。
そこまでは普通なのだが、なぜか右手の指にだけ、大きめのリングを2つも3つもつけていた。
そのまま人を殴ったら武器にもなりそうだ。もちろんそんな理由でつけているわけはないけど、結婚指輪にも見えないし……?
彼は、このお屋敷の――カイヤ殿下の、執事なのだという。
「などと申し上げればいかにも偉そうですが、実際はただの押しかけです」
私に紅茶のカップを差し出しながら、謎めいた言葉を口にする。
「押しかけ?」
「はい。勝手に屋敷に押しかけて、勝手に住み着いたのです。私も、アイシェルも、ニルスも」
そこで小さく含み笑いをして、
「昨夜、あなたが投げ飛ばしたというサーヴァインも」
私は紅茶を吹きそうになった。
即座に口元をぬぐい、テーブルの上に両手をついて、頭を下げる。
「昨夜はとんでもない真似をしでかしまして、まことに謝罪の言葉もありませ――」
「ああどうか、顔を上げて」
オジロは慌てたようだ。
「謝るべきなのはこちらの方でしょう。仲間が失礼なことを致しました。あの偏屈男に変わって、心から謝罪します」
深々と頭を下げられて、こっちも慌てた。
「そんな、やめてください」
必死で顔を上げてくださいと頼むと、オジロは応じてくれた。申し訳なさそうに眉を寄せたまま、
「事情は聞いていますよ。彼が、あなたに何と言ったかも。弁解の余地もないとはこのことでしょう。あなたの怒りは至極当然です、が……」
そこでオジロは言葉を切り、しげしげと私の顔を見てから、ふっと表情をなごませた。
「それにしても、大したものですね。サーヴァインは騎士崩れで、ああ見えて剣術も体術も並以上の腕なのですが。その彼を、あなたのような細い女性が――」
私は再度、テーブルにひたいをこすりつけるハメになった。
「その節は、まことにお恥ずかしく」
「ああ、いやいや。責めているわけではないんですよ。ただ、驚いただけで。殿下も仰っていましたよ。それは見事な背負い投げだったと」
あうあうと私は呻いた。
オジロの言葉に嫌味はなく、むしろ本気で感心している様子なのがつらい。誉め殺しもいいところだ。
「何か、護身術のようなものを学ばれていたのですか?」
問われて、仕方なく説明する。
「そんな本格的なものじゃなくて……。ちょっとした体術、みたいな? うちの祖母が、村の女性たち全員に教えてたんです。街道沿いの治安のいい村でしたけど、それでも人の出入りが多い分、物騒な連中が来ることもあったんで」
女子供は悪い奴らに狙われやすい。だから身を守るすべをきちんと学ぶべきである、というのが祖母の考えだった。故郷の村では、子供からお年寄りまで、ほぼ全員が祖母の薫陶を受けている。
「それは、実に立派なおばあさまですねえ」
とオジロはまた感心する。
お茶請けにどうぞとビスケットの乗った小皿を差し出しつつ、話題を元に戻す。
「昨夜のことなのですが。サーヴァイン当人も反省はしているようです。いずれ、あらためて謝罪したいと申しておりました」
私は「はあ」と気のない声で答えた。
内心では、そんなすぐに反省できるくらいなら、そもそもあんなセリフ、口にしないんじゃないのかなと思いつつ。
私の反応を見て、オジロはやや難しい顔になった。
「あなたのお気持ちはわかります。ただ、彼にも色々事情がありまして」
その事情とは何か、オジロは説明しなかった。ただ、「昨夜の彼は、冷静ではなかったのですよ」とだけ言った。
「感情が表に出にくい男なのでわからなかったかもしれませんが、頭に血が上っていたのだと思います」
本来は、初対面の相手を侮辱するような人柄ではけしてない、とオジロは釈明した。
サーヴァインはともかくとして、オジロの人柄については、短い会話の中でも伝わってきた。
真面目で、信用できそうな人だ。その彼が言うのなら、とも思うけど。
あの男が「頭に血が上って」冷静さを失ってしまうほどのことを、あの時、自分はしただろうか?
あらためて振り返ってみても、思い当たることがない。
現れた時から、サーヴァインはけんか腰だった。それ以前、私は殿下と並んで話していただけである。
確かに時間は遅かったし、薄暗かった。
それでも、不自然に身を寄せていたわけじゃなし、ちょっと会話を聞けば、そんな艶っぽい現場でないことくらいすぐにわかっただろう。
仮にそんな誤解をしたとして、普通「汚らわしい」とまで言うか?
私だったら、邪魔をしないよう、すみやかに立ち去る。カッときて冷静さを失うなんてありえない。
そこに居たのが、自分の彼氏とかだったら、別だけど。
即座に前に出て、浮気相手もろとも血祭りに上げるだろう……けど……。
って、まさか。
「オジロさん。あのサーヴァインって人、もしかして、殿下の――」
思いついたら即、声に出ていた。
「殿下の彼氏だったんですか!?」
がく、とオジロの肩が落ちた。
「……違いますよ。そうではありません」
いきなり気まずくなった私は、ぼそぼそと言い訳の言葉を口にした。
「す、すみません。なんか、それだったら怒った理由もわかるかなーって。ほら、殿下って、いかにもモテそうなのに彼女が居るとか聞いたことないし……」
オジロは黙っている。
私はさらに小さくなった。「すみません。変なこと言って……」
「ああ、いえ」
オジロはこほんとひとつ咳払い。
「あなたは勘の鋭い方ですね。かなり真実に近い所まで見抜いていらっしゃる。この際ですから、本当のことをお話ししておきましょう」
ただし他言は無用に願いますと言われて、私は神妙にうなずいた。
オジロもうなずいた。そして、こう口にする。
「彼は殿下の交際相手ではありません。ただの片恋、片想いですよ」と。