221 地下通路
※現在準備中の第四部ですが、まだしばらくお時間をいただくことになりそうです。
なので、活動報告でもちらっと書いた通り、冒頭(3話)のみ、先に公開することにしました。
本日から3日間、1日1話ずつ投稿予定です。
ひんやりした空気。湿った土の匂い。
背中に、冷たい石の感触。足元は柔らかい地面のようだ。
目を開けても、何も見えない。真っ暗闇だ。
――ここはどこ?
何だか、狭い、場所のような。
「だいじょうぶか」
ふいにカイヤ殿下の声がしたかと思うと、暗闇の中に、オレンジ色の灯火が揺れた。
ランプの光だった。
目の前に、殿下の顔が……。だけど、よく見えない。
視界がかすむ。息が苦しい。頭もぼうっとして……。
「こんな目にあわせてすまなかった」
殿下はそっと手をのばし、煤で汚れた私の顔を濡れた布でふいてくれた。壊れ物でも扱うような、とても優しい手つきだった。
「少し待っていろ」
そう言って、こちらに背中を向ける。
何をしているのか、よく見えなかったけど……。やがてこっちを向くと、私の口元に何かを近づけてきた。
オレンジ色のランプの灯の中に揺れているのは、水。――水だ!
私は何も考えずに、その水をあおった。
口の中に広がる冷たさ。飲み込もうとすると、切るような痛みが喉に走る。
そういえば、喉を痛めていたんだっけ。でも、水だ。水なんだ。
「んぐ、ごく、んっ……」
夢中で飲み干し、
「はああ……」
思い切り息を吐いて、それから吸って。
たった1杯の水に、自分の体が芯から癒やされていくのを感じる。
「……ん、あれ?」
なんか、喉の痛みがひいてきたような。
ぼやけた頭もすっきりして、視界も――。
「気分はどうだ」
問われて、ぎょっとした。
近い。黒曜石のような黒い瞳が、わずか数10センチの距離から私を見つめている。
「ちょ、近いです」
とっさに後ずさりかけたが、背中には固い石の壁があたっている。
「仕方がないだろう。狭い場所だからな」
「……ここ、どこですか?」
ついさっきまで、燃える庭園に居たはずだ。炎と煙に囲まれ、絶体絶命のピンチだったのに。
「地下だ」
殿下は短く答えて、説明を付け加えた。
「城の抜け道のひとつだ。王城から、あの庭園までつながっている。……もっとも、そんなものがあること自体、俺も今日初めて知ったがな」
はあ、と私は曖昧にうなずいた。
それから、声を出しても痛みがないことに気づく。
「ん、ん? あれ?」
「どうした。どこか痛むか」
「いえ……」
むしろ、痛みがないから変だなあ、って思ってるんですが。
カイヤ殿下は、戸惑う私の顔をしげしげと見て、「どうやら、だいじょうぶそうだな」と小さくつぶやいた。「では、行こう。皆、心配しているだろうからな」
「あ、はい」
殿下は1度腰を浮かせかけ、それから思い直したように私の顔を見下ろした。
「クリアは無事逃げた、と先程おまえは言ったが、間違いないのだろう?」
「はい! それはもちろん」
クリア姫がダンビュラと共にお屋敷を脱出したことを、私は手早く説明した。
「そうか……。ダンビュラがついているなら」
あらためて、殿下の瞳に浮かぶ安堵の色。「庭園が燃え上がっているのを見た時は、寿命が縮んだ気がした」
そうだよなあ。そこに家族が居るって思ったら、誰でもそうだと思う。
殿下は足もとからランプを持ち上げ、もう片方の手で私の手をとって立ち上がらせてくれた。
「天井が低いから、気をつけろ」
確かに、ちょっと腰をかがめないと歩けそうもない。私より背の高い殿下は、さらに歩きにくそうだ。
「ランプ、私が持ちましょうか?」
「そうか、助かる」
とランプを手渡そうとして、殿下はふと気づいたように言った。「そういえば、薄着だな」
「まあ、寝巻きなんで……」
あらためて言われると、ちょっと恥ずかしい。火事から逃げる時、着替える暇など当然なかったので、私は寝る時に着ていたパジャマのままなのである。
殿下は「寒くないか」と聞いてきた。
「言われてみると少し……」
地下の通路は、ひんやりと湿った空気で満ちている。
殿下は例の暑苦しい外套を脱いで、「これを羽織れ」と私に押しつけてきた。
寒いのも恥ずかしいのも嫌だから、実にありがたい申し出だ。「すみません」と受け取って、すぐに違和感に気づいた。
「殿下、この上着。なんかジャラジャラ音がするんですが……」
「隠し武器その他、仕込んでいるからな」
「しかも重い……」
「以下同文だ。それより、早く照らしてくれ」
はいはいと答えて、私はランプを掲げた。
その明かりが、殿下の姿を背中から照らし出し。
私はどきりとした。
殿下の首の後ろ――髪の生え際の辺りから背中の方へ。大きな傷痕があった。
傷痕? ううん。
やけどの痕、じゃないのかな。皮膚が黒っぽく変色して、ひきつれたようになっている。
殿下はいつも例外なく厚着している。
でも、今は夜中だし。寝室とかでくつろいでいるところだったのかもしれない。外套の下は、部屋着みたいなラフな服装だった。
「もう少し足もとの方を照らしてくれないか」
「あ、すみません」
慌てて、ランプの灯を地面に向ける。
「では、行くぞ」
「……はい」
歩き出した殿下の後についていきながら、私はそっと自分の胸を押さえた。
どきどきという鼓動が、徐々に鎮まっていく。
まあ、ね。
薄々、気がついてはいた。少し変だな、と思ってはいたのだ。
厚着しているのは暗殺防止のため、とか前に言ってたし、実際そういう理由がないわけでもないんだろうけど。他の王族の人は誰も、そんな格好してなかったし。
クリア姫のお屋敷に遊びに来ている時でさえ、きっちり着込んでたし。常に長そで長ズボン、肌が出ているのは顔と両手くらいだった。
と、いうことは、傷痕があるのは首だけじゃないのかも。
……他にもあるのかもしれない。
――おまえは昔に戻りたいの?
なぜか宰相閣下の声が、私の耳元に蘇る。
――昔の自分と重ねているのか。
ハウライト殿下の声もした。
暗い通路にリフレインして、今そこに2人が居るような錯覚に陥る。
私は小さく首を振った。
殿下の「昔」に何があろうと、それはメイドの私が詮索するようなことじゃない。
何も見なかった。そう思って忘れよう――。