220 私は誰?
※流血描写があります。
「どうして――」
「なんで――」
一瞬、その場に落ちた沈黙の後。
口をひらいたのは、マーガレットと少年、2人同時だった。
「どうして、私だとわかったんですの?」
「なんで、名家のお嬢様がこんなことしたわけ?」
同時に質問を発し、お互いに首をひねる。
「いや、それはたった今説明したじゃん。地道な聞き込み捜査。あとは証拠だけだと思って、こうして忍び込んだわけ」
次はこちらが答える番だとばかりに、口を閉じる少年。
けれども、マーガレットは答えられなかった。
どうしてこんなことをしたのか――それを見知らぬ少年に言ってもいいのか、わからなかったからだ。
マーガレットが黙っているのを見て、少年は首をかしげた。
「ただのイタズラ? いわゆる愉快犯的な?」
「……っ! 違いますわ!」
「だったら、脅しとか嫌がらせ? カイヤ殿下はギベオンの敵だから――」
「違います! わたくし、人に嫌がらせをするような卑しい人間ではありませんわ!」
「…………」
少年は訝しげにマーガレットを見やると、
「じゃあ、何。そんな堂々と胸を張って宣言できるような理由があるってこと?」
「もちろんですわ! わたくし、伯父様たちが話しているのを聞いてしまったのです!」
ついさっき言うのを迷ったことも忘れて、声高らかに告げる。
「お祭の儀式で、クリスタリア姫様の兄上様を狙う、恐ろしい陰謀があることを――!」
少年は興味しんしん、身を乗り出してきた。
「何々。どんな陰謀?」
それは、と答えようとした時。
ふいに後ろから肩をつかまれた。
「そこまでになさい、マーガレット」
「お兄様……」
音も気配もなく現れたのは、従兄のアルフレッド・ギベオンであった。
伯父のギベオン卿には、息子が4人居る。
アルフレッドは2番目だ。年は倍くらい離れているが、4人の中では1番仲が良い。
正確には、年上のアルフレッドがいつもマーガレットのことを気にかけ、世話を焼いてくれるのだ。
先日のバザーにも一緒に行った。クリスタリア姫とバザーで会う約束をしたと話したら、「あんた1人じゃ心配だから」と付き添いを買って出てくれたのである。
あの日以来、なぜか自分の屋敷に帰ることもなく、ずっとこの屋敷に滞在しているが……。その理由については聞かされていない。
ちなみに、従兄が使っているのは隣の部屋だ。屋敷に泊まる時にはいつもそうしている。
不審な話し声に気づいて、助けに来てくれたのだろうか?
しかし自分を見下ろす従兄の顔は、険しく、厳しい表情を浮かべていた。
「まさか、あの脅迫状を書いたのがあんただったとはね……」
そう言って、頭痛でも起こしたように頭を抱えて見せる。
「しかも、親父たちの話を聞いてた、ですって? こんな子供に立ち聞きされるとか、どんだけ間抜けなのよ……」
マーガレットはぷうっと頬をふくらませた。
「ひどいですわ、お兄様! わたくし、もう子供ではありませんのよ!」
「……そこに引っかかるの?」
少年が突っ込む。マーガレットは構わず先を続けた。
「それに、伯父様たちが間抜けなわけでもありませんわ! わたくし、忍び足は昔から得意ですもの!」
「なんで、お嬢様にそんな特技があるわけ」
再度、突っ込む少年。視線をマーガレットから黙ったままの従兄に移し、「あと、もうひとつ聞きたいんだけど。……なんで、あんたがここに居るの?」
アル、と短く呼びかける。
それがアルフレッドのことだと、すぐにはぴんとこなかった。
「なんでも何も、ギベオンの屋敷だからよ」
従兄が少年を見る。ひやりと冷たい瞳で。「アタシの家名、忘れたの? あんた、記憶力はいい方だったでしょうに」
「そんなの1度も聞かされてないよ。フルネームも名乗ってなかった」
そこでようやく、マーガレットは察した。
2人は知己なのだ。どういう知り合いなのかはわからないが、敬語が必要でないほど親しい間柄らしいと。
「お兄様ったら、こちらの騎士様とお友達でしたの?」
「だから騎士じゃないよ」
と少年が言い、
「友達でもないわね」
と従兄が続ける。
「こいつは不審者よ。他人様の屋敷に、武器を持って忍び込んできた犯罪者。問答無用で殺されたって文句も言えない立場だわね」
そんな恐ろしいことを言われても、少年は動じなかった。
「仕方ないじゃん。捜査上、必要だったんだから。正義のためなら仕方ない、ってご隠居なら言うよ」
「そんな理屈が通ると思ってるの?」
「さあ、通るんじゃない? 証拠さえあれば」
そう言って、またあの便箋をひらひらと振って見せる。
その瞬間、従兄が床を蹴った。あっという間もなく少年に迫り、その細い体につかみかかろうとする。
しかし少年はひょいと従兄の手をかわすと、すばやく身を沈めて、相手の足を払った。
「……っ!」
従兄の体が、ぐらりと傾く。そのわずかな隙に、少年は身を翻し、開いたままの扉に向かって走った。
全てはほんの数秒の出来事であった。
マーガレットには何もできなかった。突然、目の前で起こった争いを、少年が自分の横を駆け抜けていく姿を、棒立ちで見送ることしか――。
「止めろ!」
その時、従兄が叫んだ。「絶対に逃がすな!」
雷に打たれたような衝撃がマーガレットを襲った。
急に視覚が研ぎ澄まされて、周囲の動きがよく見えた。少年が驚いた顔でこちらを振り向き、そして――その顔がわずかに歪んだかと思うと、弾かれたように後ろへ――マーガレットから逃げるように距離をとる。
赤い水滴が、床に散った。
錆びた鉄の匂いが、マーガレットの鼻腔をくすぐる。
何だか右手が重い気がして視線を下げると、そこには見覚えのないものが握られていた。
ナイフだった。折りたたみ式の、とても小さなものだ。
どうして、他ならぬ自分の手にそんなものが握られているのか。
わからなかった。持ち歩いていた覚えはないし、取り出した記憶もない。
ううん、そんなことよりも。
そのナイフの刃が、赤く濡れているのはどうしてかしら?
「今の動き、何?」
少年が言った。「お嬢様の護身術、ってレベルじゃなかったよね」
ぽた、と床に落ちる雫。
少年の二の腕から。反対の手で、きつく握りしめた指の隙間から。
その雫は、赤い色をしている。ぽた、ぽたと床に落ちて、上等なじゅうたんの上に赤い染みを作っていく。
「わたくし……」
呆然とつぶやく自分の声に、「無駄なおしゃべりはやめなさい」という従兄の声が重なった。
「この部屋から持ち出そうとした物を返しなさい。命が惜しいならね」
少年に向かって命じる。いつのまにか、その手にも鋭利なナイフが握られていた。
「やだよ」
少年の返事はにべもなかった。
「大事な証拠だし。ここに来るまで、すっごい苦労したし。……それに、ちゃんと予告状の犯人を捕まえないと、一緒にお祭に行ってもらえない」
「……最後のは何なのよ」
「アルには関係ないよ」
少年が武器を抜いた。
「くっ!」
従兄の体がのけぞる。
抜き放たれた武器が放物線を描いて、アルフレッドの頬をかすめていく。その残像が消えるより早く、少年が体ごと従兄に突っ込んでいく。
ドッ、と鈍い音がした。
「……っ!」
よろめき、膝をつくアルフレッド。
マーガレットは蒼白になった。
刺された? 刺されたのか?
――いや、そうではない。
少年の短剣は、いまだ腰に差したまま、鞘に納まったままだ。代わりに持っているのは、短い棒のようなものだった。
「警官隊の特殊警棒」
少年は得意げに自分の武器を掲げて見せた。
「俺、昔より強くなったでしょ。今はもう、あんたにだって負けない」
余裕たっぷりに笑っているが、その顔には血の気がない。当然だ。あの二の腕の傷は、けして浅いものではない。
「マーガレットっ……!」
従兄の声に、びくりと全身が震える。「そいつを、逃がすなっ……!」
怖かった。今すぐこの部屋から飛び出して、両親や姉たちのもとに走りたかった。
けれども、体は勝手に少年の退路をふさぐように動く。油断なく腰を落とし、ナイフを構えて――。
「…………」
そんな自分を、少年が見つめている。
追いつめられている者の表情ではなかった。敵意もない。殺気ひとつ感じさせない。何かおもしろいものでも見つけたみたいに瞳を輝かせて、
「ねえ、君。昔、俺と会ったことあるよね?」
彼が何を言ったのか、マーガレットには理解できなかった。
「最初に会った時から、どっかで見たことあるような気がしてたんだ。その、うさぎの髪飾り。施設に居た頃からお気に入りだったでしょ」
とっさに、自分の髪を押さえる。
いつも身につけている、ピンクのうさぎ。子供っぽいとか、淑女にはふさわしくないとか言われても外せない、大切な宝物。
「これは……、お姉様たちが買ってくださって……」
マーガレットが泣いてばかりいるから、根負けして。昔、まだ小さな子供だった頃のことだ。
「前のが壊れてしまったから……。街の雑貨屋さんを回って、良く似たものを探してくれて……」
「へー、そうなんだ。よかったね」
「あ、あなた……。あなたは誰ですの?」
マーガレットの問いかけに、少年は自分の顔を指差して言った。
「覚えてない? カルサ。同じ施設で育った。武器の使い方とか、よく一緒に練習したじゃん」
「…………」
「そういえば、ナイフは君が1番うまかったよね。施設の誰も、君には勝てなかった。大人顔負けだって、アルもほめてた気がする。滅多に俺たちのことほめないアルが――」
「マーガレット……」
背後から、苦しげな従兄の声がする。「そいつの話を、聞くのはやめなさい……」
少年は無視して話を続ける。
「その髪、どうしたの? 昔はボサボサの赤毛じゃなかったっけ?」
「髪……」
マーガレットの自慢の黒い髪。
まっすぐで、お嬢様っぽくて、とても気に入っている。鏡を見るたびに嬉しくなってしまうストレートの髪は、
「お姉様たちとメアリーが……。月に1度、切ってくれて……」
「切って? 染めて、じゃなくて?」
「マーガレット!」
従兄の叫び声。
直後、窓ガラスの割れる音がした。
夜風が室内に吹き込んできて、マーガレットの長い髪を揺らす。とっさにぎゅっと目を閉じて――。
次に目を開けた時、少年の姿は消えていた。
ついさっきまで、目の前で話していたのに。
ほんの一瞬の間に、居なくなってしまった。
「賊が侵入した! 探せ! まだ遠くには行っていないはずだ!」
従兄が廊下に出て叫んでいる。
すぐにたくさんの人が集まってくる気配がした。
武器を持った警備兵たち。メイドや従者たち。やがては両親と姉たちもやってきて、口々に「だいじょうぶか」と言葉をかけてくる。
「マーガレット! どうしたの、何があったの!」
姉に名前を呼ばれても、激しく両肩を揺さぶられても、マーガレットは反応できなかった。
わたくしは、マーガレット。
貴族の娘。ギベオン家の三女。もうすぐ16歳になる淑女。
お父様もお母様もお姉様たちも可愛がってくれる。
大切な娘。大切な妹。大切な家族だと言って。
だけど、それはいつから? ずっと昔からそうだったかしら?
――私は、誰?