218 炎の中で
その姿を見送って。
私は急ぎ、お屋敷の中に引き返した。
「自分が助かるための努力」をするためだ。
この状況で――突然、炎に囲まれてしまったお屋敷に1人残されて、いったい何ができるのかって思われるかもしれないけど。
ひとつだけ、思いついたのだ。
うまくすれば、この火事をやり過ごせるかもしれない方法。
まっすぐに廊下を引き返し、裏口の扉を開ける。
再び、吹きつける熱気。
炎の勢いは衰えることなく、いまだお屋敷に燃え移っていないことが奇跡に近い。
舞い散る火の粉から顔をかばいつつ、左右を見回し。
――あれだ。見つけた。
手入れの行き届いていない植え込みの陰。雑草に半ば以上埋もれたそれは、かつて水汲みのために使われていた井戸だ。
このお屋敷には水道が通っている。地下深くから、機械仕掛けで水を汲み上げているのだ。
が、お屋敷自体は、先々代の国王陛下が、ずっと昔――おそらく50年以上は前に建てたもの。当時はそんな最新式の設備なんてなかったから、普通に井戸も掘られたのだろう。
井戸というのは当然、それなりの深さがある。
たとえば、ロープを使って、この中に下りることができれば。
突然の火災も、どうにかやり過ごすことができるんじゃないか、というのが私の考えだ。
問題は、既に使われなくなった井戸だってこと。
人が落ちたら危険だからだろう。頑丈な木の板でふたをして、大きくて重そうな石を乗っけてある。
これをどかさないことには、中に下りることもできない。一応は女である私の身には、少々つらい力仕事だった。
ふいに風向きが変わって、煙が吹きつけてきた。
「!」
目が痛い。視界がかすむ。
急がなければ。もうあまり余裕はなさそうだ。
「ううー……!」
持ち上げるのは無理だから、少しずつ押して、ふたの上からずらしていく。
いや、もう。マジで重い。歯を食いしばり、全身全霊の力を使って、どうにか動かすことができるくらいだ。
「はあ、はあ、はあ、……」
息が切れる。
足がふらつくのは、多分、うたた寝していたところを飛び起きたせい。
頭がぼうっとしてきた気がするのも、そう。
けして煙を吸ったからでも、酸素が乏しくなってきたせいでもない。
絶対に。
死んでたまるか。
こんな所で、こうなった理由もわからないまま、虚しく命を落とすなんて冗談じゃない。
父さん――。
私は、心の中で行方知れずの父を呼んだ。
なんで、このタイミングで昔の夢なんか見たんだろう。
なんでも何も、ただの偶然だと思うけど。
この際、偶然だって構わない。
父さん。どうか、あなたの娘に力を貸してください。
「はあ、はあ、はあ、…………はああ」
ため息のような長い息を吐いて、私は動きを止めた。
邪魔な石はどけた。頑丈な木の板も外すことができた。
しかし、その奥に現れたのは、地下深くまで続く闇ではなく。
みっちりと隙間なく詰め込まれた石と砂。
もはや使われなくなった井戸は、埋められていたのだ。
その上にふたをして、石まで乗せておいた意味はよくわからないが――今は考えても仕方ない。
「はああ……」
私はぺたん、と地面に膝をついた。
何だろう、この気持ち。
悲壮感はない。恐怖も絶望もわいてこない。
ただただ気が抜けて――。
とにかく、ここに居てはだめだ。井戸が使えないとわかった以上、少しでも安全な場所へ逃げなくては。
――でも、安全な場所ってどこ?
いつのまに、煙が広がったのだろうか。
辺りを見回しても、数メートル先の景色さえかすんで見えなかった。
――お屋敷、どっちだっけ?
空も見えない。先程までは夜空にまたたく星々が見えていたのに、今は分厚い煙に覆われている。
ヤバイ。
これは本気でヤバイ事態だ。
頭ではわかるのに、体が動いてくれない。
息が苦しい。全身が鉛のように重い。だんだんと意識も薄らいで――。
何、これ。
私の人生、ここでおしまい?
誰か嘘だと言って。
……本当にもう、これで終わりなの?
故郷で、黒い魔女に会って。
王都に行けば父のことがわかると言われて、家を飛び出して。
そこから始まった私の物語は、何ら実りのないまま、たった数ヶ月でジ・エンド?
それはないと思う。いくら何でもあんまりだ。
もっとマシな結末がほしい。
メイドとしてサクセスするとか、何か新しい人生の目標を見つけるとか。
あとは、そう。
素敵な恋が始まるとか?
「……っ!」
とりとめのない思考を遮るように、煙の向こうから誰かの声が聞こえた。
「…………?」
今のは幻聴? それとも聞き間違い?
もしかして、ダンビュラが戻ってきてくれたのかな……。
「……誰か! 居ないのか!?」
今度ははっきり聞き取ることができた。こんな大火事の中ですらよく通る澄み切った美声は、
「カイヤ殿下?」
嘘。このタイミングで来ないでくれる?
私、あなたには惚れませんから。イケメンはタイプじゃないんで……まあ、顔のことなんて今更どうだっていいけど。
私は一庶民、殿下は王族。住む世界が違い過ぎて、恋愛対象外だ。
世の中には、報われない想いに身を焦がす、そんな物語みたいな恋に憧れる人も居るだろう。
でも、私の趣味ではない。
もっとこう、現実的で、実のある恋がしたい。
だから成就する可能性のない恋はしないし、遠い世界の人には最初から惚れたりしない。
なのに、こんな大変な状況で助けに来てくれたりしたら、うっかり吊り橋効果で恋に落ちてしまうかもしれないじゃないか。
「そこに誰か居るのか!?」
声が近づいてくる。
間もなく、煙の向こうから、見覚えのある姿が――。
「エル・ジェイド! 無事か!?」
まっすぐにのばされた両手が、私の肩をつかむ。美しすぎる顔が間近に迫り、
「クリアは――」
今まで見た中で1番真剣で、少なからず必死な様子で、殿下は妹姫の名を呼んだ。「クリアはどこだ!?」
うん、まずはそれを聞くよね。さすがはシスコン殿下。
まあシスコンじゃなくても、身内なら当然だけど。
そして私は、クリア姫のメイドだ。ちゃんと答えなければ、と口をひらきかけて、しかしすぐには声が出せなかった。
息が苦しい。さっきよりもっと。
でも、これだけは絶対、言わなくちゃ。
「姫様は――」
ゲホゲホゴホゴホ、ああうるさい。
「ダンビュラさんが、連れて、逃げ――だから、無事!」
はあ、言い切った。
そう思ったら、なんか唇がべたつくような?
げえ。血が。
どうやら喉をやっちまったらしい。
「はあ、はあ、……」
もはや体力も気力も尽きて、その場に崩れ落ちそうになる私を、殿下の両腕が支えてくれた。
「しっかりしろ」
てゆーか、殿下。
なんでこんな所に居るの。こんな危険な場所に来たらだめでしょ。
そもそも、どうやってここまで? まさか燃える庭園を走って来たわけじゃないだろうし、ぱっと見、服が焦げてる様子もないし。
あー、だめだ。聞きたいけど、話せない。なんかもう、目も開けていられない……。
ふと、私の口元に何かが押し当てられた。
薄く目をひらくと、濡れたハンカチらしきものが見えた。
脱力した私の体を、殿下は軽く抱え上げ、そのまま煙の中を駆けていく。
どこへ――? と疑問に思った瞬間。
唐突に、足元の地面が消失した。
「魔女の末裔~新米メイドの王宮事件簿~」第三部・了
第三部「不死身の暗殺者編」は今回でおしまいです(次回、主人公視点ではない話が入りますが)。
何だか大変なところで終わってしまってすみません(汗)。
このまま放置だと主人公もかわいそうなので、できるだけ早く続きをお届けしたいと思っております(くわしくは後日、活動報告にて)。
既に200回を越えた話にお付き合いくださった皆様。
貴重なお時間を割いてここまで読んでいただいたこと、感謝の念に堪えません。
なろうユーザーの方も、そうでない方も。
本当に皆様、ありがとうございました。